徳川光圀が、支局を開設して歴史(大日本史)を編纂するということを周囲にうちあけたときに、人々はこぞって反対したそうです。光圀の少年時代から教育にあたっていた、人見卜幽(ぼくゆう)でさえ反対したそうです。卜幽の養子である懋齊(ぼうさい)は、初代彰考館総裁になったそうです。上の写真は、文京の祐養園跡にある光圀腰掛石です。
「物はかわり、年は改まっても、私の愁いはかわらない。谷の鶯はさえずっても、私にとって春はない。庭の梅はほころんでも、それは本当のものではない。去年の今日は二人で盃を酌みかわしたが、今年の今はひとり座して焼香をしている。ああかなしいかな。」といったことが、光圀が、死去した妻・泰姫(たいひめ)にささげた祭文にあるそうです。
光圀が、家老の藤井紋太夫を刺殺する際、紋太夫を呼びだした光圀の言葉は、「そなたに用がなかったら、少々いいたいことがあるので、来て欲しい。用があるのなら来る必要はない」という意味のものだったそうです。君主が呼んでいるのに来ないということはないとも思われますが、場合によっては来なくてよいという言い方はどういう意味があったのか、人によって説があるようです。
ある日、臣下たちが門戸の錠前をあけようとしたものの、鍵を忘れて狼狽していたそうです。その様子を見た光圀は、錠を手でねじ切ってあけてしまったそうです。父の頼房は猪を鉄砲の柄で打ち倒したそうですが、そうした大力の血が光圀にも伝わっていたのでしょう。
水戸で、光圀が能の船弁慶を演じていたときに、船を汀(みぎわ)にこぎ寄せる仕草(しぐさ)をすると、見張りとして現場にいた船頭(水主(かこ))が大声で、「いよいよ(まさしく、という意味のようです)」といったそうです。なぜにと問われた船頭は、櫓(ろ)使いがうまいのでつい声を上げたと答えたそうです。
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