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水戸の酒の話(20)

2023-02-24 19:49:40 | 水戸

 下は、水戸藩士として赤沼で生まれ、歩行困難な病気のために出仕せずに、銀河寺の僧・仏兮に師事して俳諧にうちこんだ、晩年幻窓湖中と号した岡野重成の酒句です。岡野は、3世湖中を受け継ぎ、芭蕉を慕ってその研究や、自身の句作を、離れに作った四壁堂ではげみ、四壁堂湖中とも名のったそうです。天保2年(1831)に56歳で死去したそうです。
鶯(うぐいす)や 人目を偸(ぬす)む 小酒盛
水鶏啼(くいななく) 拍子にへ(減)るや 壺の酒

 

 文政7年(1824)に現・北茨城市の大津浜にイギリス捕鯨船が上陸したため、会沢正志斎が通訳として出向いたことが、尊王攘夷を全国に広めた「新論」のきっかけになったようです。こうなる前から、異国船と地元漁師との交流はかなりあったようで、漁師が異国船で飲食の接待を受けたり、文通までしていたりしたそうです。交流の際には、当然酒もだされたようですが、そのときに漁師が飲んだのはラム酒だっただろうとのことです。写真は、弘道館にある会沢正志斎像です。

 

 天保12年(1841)に仮開館した弘道館では、毎年1回大試という、選抜された者に対する文武の試験がおこなわれたそうです。試験終了後には、藩主が学校御殿に臨んで受験生一同を慰労をしたそうです。そしてそのあとに、家老・用達以下関係者一同と受験生には、酒肴を賜ることになっていたそうです。

 

 瓢兮歌(ひょうやのうた ひょうけいか)は、藤田東湖が、弘化1年(1844)に桜任蔵から贈られた瓢箪を、「愛玩(あいがん)置かず、瓢兮歌を賦(ふ)す」と題して詠んだ歌だそうです。その最終章では、「瓢兮々々吾汝(われ なんじ)を愛す 汝能(よ)く酒を愛して天に愧(は)ぢず 消息盈虚(えいきょ 栄枯盛衰)時と与(とも)に行(おこなは)る 酒あれば危座(きざ 正座)し酒なければ顛(ねころ)ぶ 汝危座する時吾れ未(いま)だ酔はず 汝まさに顛ばんとする時吾眠らんと欲す 一酔一眠吾が事足る 世上の窮通何処の辺ぞ(世間の困窮とか栄達というものはどのあたりにあるのだろうか、私には関係のないことだ)」と詠われています。写真は大洗町にある藤田東湖像です。

 

 この1月に行われた、ドットエスティ B.LEAGUE ALL- STAR GAME 2023 IN MITOの共催行事として、水戸駅北口のペデストリアンデッキで、地酒で新酒まつり in 水戸が行われていました。菰樽(こもだる)の並んでいるのが印象的でした。

水戸の酒の話(19)

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