ぶらっと 水戸

水戸の見て歩き

水戸・好文亭で気がついたこと(2)

2023-08-04 18:51:57 | 水戸

 今回は、私の個人的な見方で、今まであまり聞かれなかったことがほとんどではないかと思います。そう思いつつ見てください。ここでは、3Fの楽寿楼がある建物を好文亭、花木などの名前が付いた建物群を奥殿とします。

 

①楽寿楼から偕楽園の梅林は見えません
 好文亭3Fの楽寿楼は、梅を見るということに力点を置いていなかったようで、梅林はほとんど見えません。広場や、借景の千波湖桜山方面などがながめの中心になっているようです。庭園の景色として梅林の俯瞰(ふかん)という考え方は一般にもあまりなかった、借景としての千波湖や田に放たれたのながめなどを大事にした、広場の躑躅(つつじ)や萩の花々を楽しんだ、閲兵できるという広場を大事に考えた、夷人の領地上陸を知らせるのろしや街道の監視に力点を置いたなど、いろいろ考えられます。写真では左方に少し梅林が見えます。右上が千波湖です。

 

②当初、好文亭に梅の間はなかったようです
 奥殿に梅の間がありますが、これは、徳川斉昭の正妻・吉子のために、柵町の中御殿の一部を明治になって移築したものだそうです。それ以前、梅の間はなかったようです。花木の名前がついた部屋がたくさんあるのに、梅の名前の部屋はなかったのでしょうか。好文が梅の異称なので、あえてつけなかったのでしょうか。写真は梅の間です。

 

③楽寿楼3Fの解説
  江戸時代、建物の3F以上が禁止されていたので、好文亭楽寿楼が3Fであることが分からないようにしたという説明がされているようです。水戸城二の丸にあった御三階という、天守閣にあたる建物は、確かに3F禁止を意識して、5F建てを外観3Fにしたようです。でも、楽寿楼の場合は、そうした感じはなさそうです。たぶん、建設するにあたって、眺めのよい高さをハシゴをたてて確認したものの、その高さに一直線の階段でのぼるのには大変なので、踊り場をつくり、ついでにそこに武者控を設置したということが、2Fがある理由なのではではないでしょうか。写真右は楽寿楼に上る階段で、中央は2Fにある武者控です。

 

④太鼓(窓、対古軒、廊下)
 楽寿楼の富士見窓という、現在義烈館にある巨大な陣太鼓の残材でつくったという丸い窓の枠(1)、対古軒(たいこけん)という茶室の待合のような場所だったらしい部屋(2)、奥殿と好文亭を結ぶ太鼓廊下(うぐいす張りで、橋廊下(当然太鼓廊下を意識していたはずです)といわれていたそうです)(3)と、好文亭には3つの「太鼓」があります。私の考えすぎなのかも知れませんが、なぜ太鼓という言葉がこんなにたくさんあるのだろうかと思いました。加倉井の旧家から召し上げた大ケヤキからつくった義烈館の陣太鼓と何か関係があるような気がするのですが。

 

好文亭と奥殿が曲がっています。
 このあたりは広く平らなようなので、2つの建物群を斜めにしてつなげなければならない理由はないように思われるのですが、なぜか、この二つは少しですが曲げられて太鼓橋廊下でつなげられているようです。もしかすると、2つの建物をつなぐのに、斜めの方が廊下をつくるにあたってよかったのかなと思ったりしました。写真は、好文亭にあったパンフレットにある絵図です。

水戸・好文亭で気がついたこと(1)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする