徳川斉昭は3男なので、長男でないことによる江戸の水戸藩邸での部屋住み時代が続いたそうです。30歳をこえても独身で、袴(はかま)の裾は切れて、それを下げたままでいたそうです。ビタ銭何枚とかの小遣いで、紙も買えず、家来から借金をして紙を買ったりもしたそうです。ビタ銭は1枚数十円といったところのようです。写真はそうとう前に撮った小石川後楽園の紅葉に染まった丸屋です。
斉昭が藩主になった後、天保8年(1837)に、真田信濃守幸貫(しなののかみゆきつら)が江戸の水戸藩邸を訪ねたときに、昼飯は、汁かけ飯に、切りつけ香物、菓子は、吉原殿中だったそうです。そして、夜は、麦飯、お碗は、ねぎに鴨の玉子とじ、香物、大根みそづけ、軽やきせんべいだったそうです。酒は、昼夜共に泡酒だったそうです。自身は粗食にしていたようですが、あえて客にも粗食を出している感じです。ただ、泡酒はなんなのでしょう。もしかすると、発酵末期の酒を搾った、まだ泡がでている生酒なのかも知れません。もしそうなら、なかなかやるなと思います。写真は、亀じるしの吉原殿中です。
偕楽園は、500両という徳川斉昭の御手元金(おてもときん)で作られたそうですが、残金があったそうです。その半ばは、救民のために使われ、残りは偕楽園の修理の費用にあてられたそうです。救民救済に残金を充てたということに感心しますが、それとともに、好文亭は相当費用を節約してつくられたということが想像されます。写真は、好文亭の耐震工事風景です。
鷹狩りの時に、酢飯に梅干しを入れて、海苔でまいたが、一日だけの食料としては保存性がよかったと斉昭はいっているそうです。斉昭はいくさの際の食べ物を、自分で試していたようです。日の丸兵粮は、斉昭の創案だろうという人もいるようです。酢飯に梅干しであるなら、普通の梅入り握り飯よりも、もっと長くもちそうな感じです。
幕府の老中・阿部正弘は、斉昭に軍艦の造成の任をまかせるのは、斉昭に好きなものをさせて、幕府に対する怒りをそごうとするもので、そのために大金がかかっても惜しむことはないといっていたそうです。その結果できたのが厄介丸といわれた、進水の時傾いてしまった旭日丸だそうです。この話は、強硬策を変えずにとなえる斉昭に対する柔軟な正弘のわかりやすいエピソードのように感じます。写真は、昔の石川島公園で、付近で造船がおこなわれたようです。
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