木葉下(あぼっけ)
大変珍しい名前で、アイヌ語の崖下という言葉が語源だという説もあるようですが、岡の端をあらわすというハケ、バッケといった言葉と同じ仲間のようで、崖をあらわす言葉からできた地名のようです。近くにある朝房山(あさぼうやま)もたぶん同じ言葉から出た名前なのでしょう。慶長3年(1598)の文書に「あほつけ村」とあるそうです。写真は木葉下信号です。
蘋町(うきくさちょう 城東4あたり)
元禄3年(1690)には浮草町と記されているそうです。このあたり一帯は、湿地帯で、埋め立てがあちこちで行われたようです。町の名前も、そうした湿地であったことをあらわしているのでしょう。武家地だったそうです。写真左は蘋町の旧町名石碑です。
大足町(おおだらちょう)
戦国時代の文書にも大足村とあるそうです。古代に勢力のあったこの地に住んだ部族にちなんだ名前ということのようです。だいだらぼう伝説との関係をいう説もあるそうです。写真は大足町にある二所神社で、古墳の上にあります。この外にも舟塚古墳群などがあります。
曲尺手町(かぎのてちょう 本町3あたり)
江戸時代、本七町目から八町目に到る南北に走る町で、商家が並んで栄えていたそうですが、天明・寛政(1781-1801)の頃には衰えたそうです。曲尺(まがりがね)は、直角に曲がったものさしのことで、その形からつけられたようです。写真右前は、曲尺手町の旧町名石碑です。
花畑(はなばたけ 城東4あたり)
徳川頼房の頃、水戸藩の御花畑があったことからいわれるようになったそうです。御花畑辻ともいわれ、6軒位の武家屋敷があったそうです。
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