内城大手門跡
今の水戸一高(三の丸3-10-1)あたりに、江戸氏の内城があったそうで、飛田穂洲碑のあるグランドへ降りる道(写真左側)のあたりに、その大手門があったそうです。江戸時代には中御門が建てられていたそうです。
西町
旧町名の石碑は写真の信号のところ(五軒町1-1、信号が立つ歩道)にあります。江戸氏の時代から開けた地だったそうです。台地上にある水戸城下へ入る3本の道の合流する場所だったからのようです。
横竹隈
水戸市竹隈市民センター(柳町2-5-8)のあるあたりで、江戸氏や佐竹氏の時代にあった武熊城の大手にあたる地だったそうです。ここは、元禄3年に横竹隈と名づけられたそうです。城は、柳堤築造や本町埋立のために崩されたそうです。
伝灯坂
大永2年(1522)、江戸氏(通雅)は、鹿島から和光院を移し、伝灯山和光院として祈願所としたそうです。佐竹氏との兵火で和光院は焼失し、その後、佐竹氏によって現在地の田島町415へ移されたそうです。地図は「水戸の城下町マップ 幕末版」(水戸市観光協会)です。
愛宕神社
元亀年中(1570-73)に江戸氏(道勝)が、城内から当時は城外だった三の丸へ移し、一般の参拝ができるようにしたそうです。その後、佐竹氏によって愛宕町の現在地へ移されたそうです。
徳川頼房までの主な水戸城主、水戸城の推移を参照してください
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