朽(くち)残る 我も老木(おいき)の 山桜 又こ(来)ん春に 逢(あう)もはづかし 元禄7年(1694)
(老いた自分も咲いている桜の老木と同じだが、老残の来春に会うのもはずかしい)
いのるてふ いツまで草の 露の身を あすハなき世の ためしとやミん 元禄13年(1700)
(いつまで草という長命を祈る草だが、その葉につく露と同じなのがわが身で、明日は消えて行くということが世のためしだろう)
夜もすがら 月にハ(は)めでし 老(おい)の身の ね(寝)られむまゝと 人やい(言)ふらん 元禄13年(1700)
(一晩中月を愛でていると、ねむれないからそうしているのだろうと人は言うだろう)
さ(差)しむ(向)かふ 今宵の月を あかず身よ またこん秋と 頼まれぬ身に 元禄13年(1700)
(また見ることができるか分からない身なので、飽きずに今宵の月を眺めている)
郭公(ほととぎす) なれもひとりは さびしきに 我をいざなへ 死出(しで)の山路に 元禄13(1700)
(郭公よお前も一人で行くのは寂しいだろうから、私を死出の山路へ誘ってくれ)
晩年の徳川光圀にはこういった歌がよくあるようです。晩年のことだから当たり前のような気もしますが、その理由を素人解釈をしみました。(歌の解釈も同様で、いいかげんです。)
将軍から隠居を命じられ、江戸に住むことも許されなかったという光圀晩年の心境が底流にあった。
老いや死に対する人並みはずれた感受性を持っていた。(独裁者が不死に執着するというのとは違うようです。)
最晩年の老体にもかかわらず、水戸城での将軍追善行事のために、西山から20数km歩いて行って礼拝したりしていて、病苦を表に著さなかったそうですが、そうした苦しさを歌に託した。などが考えられますが、本当のところはどうなのでしょう。上4つの歌は「光圀和歌圏詠草集」、5つめは「常山詠草」にあるものだそうです。
隠居したのが元禄3年(1960)だそうで、死去したのが73歳の元禄13年(1700)だそうです。死因は食道がんか胃がんだそうです。写真は、常照寺山門の額に彫られた、光圀の署名です。
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