今回は、徳川光圀が語ったことを侍臣が聞き書きしたという、「西山公随筆」にある話です。写真は、水戸市立博物館にあった、伝・光圀黒印状にある光圀の黒印だそうです。黒印は、公式な朱印に対して、略式などで使われた印影のようです。
八幡神社の祭神は応神天皇で、武神として、また、源氏の氏神としてもあがめられている。応神天皇がまだ母の神功皇后の胎内にいたときに新羅を討ったのを天皇の功績と見たからであり、また、八幡太郎義家が石清水八幡で元服して八幡太郎と号したからである。しかし、新羅征伐を胎内の子供に帰するいわれはない、また、義家の弟二人はそれぞれ、加茂明神、新羅明神で元服しているので、八幡だけを氏神とすべきだろうか。しかも、成人後に応神天皇に武功があったとも聞かない。もし武神としてあがめるのなら、それは日本武尊(やまとたけるのみこと)だろう。 といった考え方を光圀はしていたようです。
聡明器用といわれてる幼少の子供を、みだりにほめるべきではない。14-5歳を過ぎて変わってしまう場合もある。能力あって生まれても、悪人になったり、悪い環境に生まれついても良くなる人も多い。志ただしく成長したところを見てからほめるべきである。 ともいっています。ほめて育てるという時代ではなかったようです。
庚申の日に夜を明かすことは、道教の説で、仏教の教えではない。それを庚申待ちといって僧や民間人がおこなっているのは愚かなことである。 といっています。淫祠邪教をなくそうとした考え方は、現在の私達よりよほど合理主義だったように思えませんか。
民家では、囲炉裏(いろり)よりも竃(かまど)がすぐれている。関東の人は総じて心が怠惰で、竃を築かないで囲炉裏を使っていが、竃に改めるべきだ。 というのが光圀の見解だったようです。火事の危険性や効率などを考える合理的な考え方のように思われますが、囲炉裏を囲んだ団らんといった面には余り重きを置かなかったということなのでしょうか。
太陽は遠くて早く動き、月は近くて遅く動く。新月の月末・月初に太陽の道筋に月が行きかかると、月は下にあるので、太陽はそれにさえぎられて暗くなり、それがが日食である。太陽の光で明るくなる満月のとき、太陽と月の間に大地が真ん中にくると、太陽の光がうつらないために月が暗くなるのが月食である。天文学は進んで1000年以前・以後の日月食も推測できるようになっている。日月食は、このように定まっていることなのだから、日月食が起こったからといって災異が起こることはない。 といっています。当時の為政者で、ここまでしっかり日月食を理解していた人は少ないでしょう。
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