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水戸の戦災で焼け残ったもの(2)

2021-01-24 19:49:43 | 水戸

 昭和20年8月2日未明にあった水戸空襲ですが、B29が167機飛来して、1150tの爆弾を投下し、水戸市街の8割を焼失させ、242人が死亡したとあるそうです。しかし、死者はもっと多かったようです。7月31日に予告ビラがあったそうですが、戦時下の情勢の中で、対応はなされなかったようです。

 

孔子廟戟門(げきもん)と塀(三の丸1-6-29)
 弘道館のスローガンの一つである、神儒一致をあらわすものとして、鹿島神社と孔子廟が建てられたそうです。鹿島神社、孔子廟は焼けたそうですが、孔子廟の戟門とその両側の塀は焼けなかったそうです。

 

お稗蔵(北見町)
 徳川光圀が整備した、凶年に備えた備蓄蔵だそうです。郡村の陸田高100石につき、物成稗(ものなりひえ)といって、稗を3石の割合で納めさせたそうです。

 

彰考館門柱(義烈館 常磐町1-3-1)
 義烈館のところには、戦災前、彰考館文庫があり、「大日本史」のために集められた資料が保管されていたそうです。しかし戦災で、見川の徳川邸収蔵庫に移されていた約5%以外は焼失したそうです。焼け残ったのが写真の門柱だそうです。常磐神社の能楽殿、手水舎、神輿舎も残ったそうです。

 

旧三菱東京UFJ銀行(泉町3-2-4)
 明治42年に川崎銀行水戸支店として建築された建物ですが、戦災では、屋根や入口の車寄せが失われたそうです。現在この建物は使われていないようですが、町のシンボルとして有効に生かされることを望んでいます。

 

三の丸庁舎(三の丸1-5)
 昭和5年、昭和天皇の行幸に際して、建築中だった県庁(現・三の丸庁舎)が大本営・行在所として使用されたそうです。その後は県庁舎として使われ、戦災で被災したそうですが焼け残り、昭和29年には4Fが増築され、東日本大震災後に、3Fに戻されたそうです。今の建物の前にあった明治時代に建てられた建物も「ロの字型平面」で、そうしたスタイルの全国的に先駆的な建物だったそうです。

水戸の戦災で焼け残ったもの(1)


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