ぶらっと 水戸

水戸の見て歩き

水戸の寺にある宗祖像(1)

2021-12-25 21:00:42 | 水戸

 華厳宗、真言宗などの平安時代までに中国から入ってきた仏教と、平安時代末期以来の「国産」の仏教と、おおざっぱに分けて2つの流れがあるようです。それぞれに宗祖がいるわけですが、水戸でその像を探してみました。

 

空海(宝蔵寺 谷田町633)
  空海は、平安時代初期の僧で、遣唐使として唐に渡り、真言密教を持ち帰ったそうです。奈良仏教から平安仏教に代わる流れをつくったそうです。宝蔵寺境内に厄除け弘法大師堂があって、その前に像がありました。お堂には「み仏の国のお山の宝蔵寺 登りて浴す慈悲のめぐみを」というご詠歌が書かれた板がありました。

 

親鸞(安楽寺 元吉田町2511)
 鎌倉仏教の一つ、浄土真宗の祖で、常陸国に来て、現・笠間市の稲田の草庵などで約20年間布教したそうです。安楽寺の開祖は唯誓といって、親鸞法弟二十四輩の一人だそうです。

 

親鸞(信願寺 緑町1-2-1)
 親鸞は妻帯だったそうで、仏教では珍しかったようですが、江戸時代、浄土真宗は「妻帯の宗風」として公認されたそうです。写真は越後流罪になったときの母子像のようです。

 

日蓮(妙徳寺 加倉井町909)
 日蓮宗は、法華経を最高のものとして、題目を唱えることを重視した、鎌倉仏教の一つだそうです。日蓮は、最晩年に水戸の常陸の湯に向かう途中で死去したようです。また、妙徳寺は日蓮最後の手紙といわれる「波木井殿御報(はきいどのごほう)」ゆかりの寺だそうです。この像は、双葉山が建てたそうです。

 

一遍(神応寺 元山町1-2-64)
 鎌倉仏教の一つ、時宗の開祖だそうです。南無阿弥陀仏を「一遍」でも唱えることが大事であるとし、踊り念仏を行ったそうです。像は念仏を唱える一遍のようです。

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水戸藩主・徳川斉昭の話あれこれ(11)

2021-12-24 19:40:30 | 水戸

 徳川斉昭は、畳表の材料であるイグサを、青柳付近の深田や、千波湖南側の芦原へ植えさせたそうです。今でいえば地域おこしや地産地消をのようで、「日用の品等なくてかなわざる(なくてはならない)品はもちろん、他国より入れ申さざる国産(水戸藩以外から持ち込まない藩内で生産された物)にて人々用立て候(そうろう)よう致したく」と斉昭は書いているそうです。陶器や茶樹、紙等、いろいろ試みたようです。写真は筑波実験植物園で見たイグサです。

 

 斉昭は自分で興味あるものは自身で製作を試みたようです。残っている斉昭作の陶器の多くは、お茶の黒楽茶碗だそうですが、その他の茶器や煙草入れなどもあるそうです。殿様芸を越えたレベルの作品だそうですが、異なった意匠が多くて同じものがないそうです。それらは、御連枝や近臣、藩士などに与えられたそうです。何陋庵(かろうあん)という茶室のある好文亭近くにも、陶器を焼く窯があったようです。

 

 この頃は、藩主のご飯の中に小石でも入っているようなことがあると、その担当は切腹しなければならなかったそうです。斉昭はそのようなときは、こっそりと始末していたそうです。台所係を勤めた旧臣の話を孫に当たる婦人から聞いたという文があります。もっとも、この類の話は、多くの殿様の伝承としてたくさん残っているようです。

 

 伊能忠敬に学び、蝦夷地を調査した間宮林蔵が、湿瘡(しっそう 皮膚病)をわずらっていることを聞いた斉昭は、それにきくという薬の処方を、藤田東湖に命じて届けさせたそうです。光圀以来注意を向けていた蝦夷地を調査した間宮は、斉昭に招かれ、蝦夷に関する建言をしたり藤田東湖と往来したりしたそうです。

 

 斉昭は万延1年(1860)に61歳で死去したそうですが、この年、弘道館の梅がウメエダシャクの幼虫に葉を全部食い荒らされてしまい、これは斉昭が死去する前兆だったのだろうと、後にいわれたそうです。似たような話が秋成町の鹿島神社にあります。

水戸藩主・徳川斉昭の話あれこれ(10) 

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水戸の机と椅子(3)

2021-12-23 19:49:04 | 水戸

 今回は机と椅子いろいろです。

 

茨城県立歴史館(緑町2-1-15)
 庭園にある旧水海道小学校本館に展示されていました。懐かしい机と椅子です。私の記憶だと、この天板が開けられて、中に物を入れるタイプの方が古かったような気がします。

 

茨城県立歴史館(緑町2-1-15)
 ですから、このタイプの机を初めて使ったとき、新しい形の机だなと感じたように覚えていますが、どうでしょう。この後に鉄パイプと板を組み合わせた机と椅子が出てきたように思いますが、私は使った記憶がありません。

 

ニューもっさん(三の丸1-4-7)
 今年は歩道にはみ出して、密を避けて営業する「水戸まちなかオープンテラス」が行われ、それぞれの店が、机と椅子などを並べていました。「居心地が良く歩きたくなるまちなか」作りを目指したようです。

 

水戸市植物公園(小吹町504)
 園内にある植物館屋上テラスに置かれた、薄い石などを貼ったおしゃれな机と椅子です。

 

逆川緑地(千波町)
 だいぶ古くなっていますが、八角四阿(あずまや)に設置された、木製の八角机と、それに対応した、くの字形椅子です。

水戸の机と椅子(2)

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茨城百景にある水戸

2021-12-22 20:30:22 | 水戸

 昭和25年に茨城百景が選定されたそうです。県と茨城新聞社が主催し、各地の観光協会から推薦された名勝史跡180ヶ所から100ヶ所を、県民による投票で選んだそうです。以下はその水戸分ですが、それぞれに茨城百景の碑がたっているようです。他に、「水戸城西ハイキングコース」「大塚池、中根寺、妙徳寺、常陸湯、有賀神社、河和田城址、道場ケ池、天徳寺、武田耕雲斎の墓」という、もし歩いたら大変な運動になりそうな場所が選ばれています。かっこ内は、表示に抱合される風景だそうです。写真は水戸八幡宮にある茨城百景の石碑です。

 

偕楽園(常磐神社、千波湖、桜川、桜山、神崎寺、会沢伯民の墓)
 偕楽園(常盤町1-3-3)内の梅の剪定はすでにすんだようで、年明けの花が楽しみなのですが、どのような春になるのかがウィルス次第というのはなんとも残念です。かっこ内には本法寺(千波町2367)にある会沢正志斎(伯民)の墓もありますので、これも結構広く選ばれているようです。写真は、偕楽園内にある好文亭3階楽寿楼から見た風景です。写真の花はキリシマツツジで、湖面は千波湖です。

 

弘道館

水戸城三の丸空濠

弘道館と水戸城址(弘道館公園、大手橋)
 水戸城本丸、二の丸、三の丸は今の住所表示では水戸市三の丸の中に入っています。水戸城三の丸にあった弘道館は三の丸1丁目6-29、水戸城二の丸にあった角櫓は三の丸2丁目5-18、水戸城本丸にある薬医門は三の丸3丁目10-1となっています。写真上は対試場から見た弘道館と門です。写真下は、水戸城東側の三の丸空濠です。

 

保和苑

藤田東湖の墓

保和苑と藤田東湖の墓(二十三夜尊、水戸志士の墓)
 保和苑は、桂岸寺(松本町13-19)の庭園で、徳川光圀の命名した寺名の「保和院」がもとのようです。写真上は庭園にある築山(つきやま)からの眺めです。隣接する、やはり光圀が設置した常磐共有墓地に藤田東湖の墓があります。写真下の墓の題字「表誠之碑」は斉昭の書だそうです。

 

吉田神社の見晴台(朝日山、薬王院、笠原水源地、吉田古墳、常照寺)
 吉田神社(宮内町3193-2)山門前の広場から見た、西側の風景です。この広場には、秋季例祭ではたくさんの山車が勢揃いします。昔は広い田が広がっていたのでしょう。

 

愛宕山

曝井

愛宕山とさらし井(愛宕神社、袴塚古墳、姫塚)
 愛宕山(愛宕町10-5)は、仲国造(なかのくにのみやつこ)初祖の建借間命(たけかしまのみこと)の前方後円型の墳墓と伝わっているそうです。現在はその円部に愛宕神社があります。そのすぐ近くに万葉集に選ばれた和歌にうたわれた曝井(さらしい 愛宕町8-4)があります。写真上で、中央にある階段をのぼりきったあたりが愛宕神社です。写真下の石碑左側が、水の湧き出ているところです。

 

白幡山八幡宮(御葉附公孫樹、那珂川鮭留漁場)
 常陸太田から佐竹氏によって、水戸城中に移された後、八幡小路(田見小路、現在の北見町)-那珂西(城里町)-現在地(八幡町8-54)と旅してきたそうです。写真は拝殿とオハツキイチョウです。江戸時代は、青柳あたりで、那珂川を遡る鯉を網代(あじろ)という川を横切る竹と材木で作った大規模な装置で鮭漁をしたそうです。

 

六反田六地蔵尊(仏性寺)
 六地蔵寺では、手前にスギ(写真右)とイチョウ(写真左)の巨木がそびえ、その奥、中央左側に徳川光圀ゆかりのシダレザクラが、右方にその子孫が広がっています。中央の建物が本堂で、右側が地蔵堂です。

 

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水戸のお札(6)

2021-12-21 20:25:55 | 水戸

下国井町(36°25'22.9"N 140°26'03.4"Eあたり)
 春日天満神社(春日神社の境内社です。 下国井町1574)のお札が、道路の分かれ道にある庚申供養塔の隣に立てられています。水戸には道祖神がほとんど見られませんが、こうした、お札、庚申塔、また、猿田彦碑などが、似たような役目を果たしてきたような感じがします。

 

飯富町
 道路側にある屋敷神の周囲に、大井神社のお札が3本立てられていました。それぞれ、春祭、御田植祭、秋祭のお札で、お祭りごとに立てているようです。

 

下入野町(36°19'07.7"N 140°31'13.9"E)
 ここでは1本の竹に、長福寺と鹿島神社のお札が付けられていました。長福寺は、「大般若経牘(だいはんにゃきょうとく) 塩崎山」とあり、鹿島神社は「鹿島神社太告刀祈攸(ふとのりときゆう)」とあります。「牘」は札、「太告刀祈攸」は立派な祝詞(のりと)を祈るところといった意味のようです。たぶん立てた人が長福寺の檀徒でかつ、鹿島神社の氏子なのでしょう。

 

稲荷神社(飯富町3436-5)
 稲荷神社の鳥居のところに、新旧のお札が立てられています。この神社自身の「正一位稲荷神社」と大井神社のお札のようです。たぶん、この神社は大井神社が管理しているのでしょう。こうして見て歩いていると、何年も経ってもしっかりと残っている和紙でできたお札の丈夫さに改めて感心します。神社は、信号のある十字路の角にあります。

 

谷津町(36°24'52.3"N 140°21'30.3"Eあたり)
 神社から少し離れた場所に木葉下の香取神社(木葉下町1)のお札が立てられていました。神社の側からすると、信仰範囲の表示でもあるのでしょう。

 

加倉井町(36°23'44.1"N 140°23'05.8"Eあたり)
 加波山神社の「加波山神社 村内安全御璽(ぎょじ)」と刷られたお札ですが、これも分かれ道のところに立てられています。ここには、2体の子安観音がお堂(写真左)の中に、その外側に牛馬頭観世音碑等があります。

水戸のお札(5)

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