母への書状(水戸市立博物館 大町3-3-20)
母は、有栖川宮(ありすがわのみや)家から嫁いできた、吉子(登美宮(とみのみや))だそうです。書状には、父の斉昭に官位の追贈がされたが、生きていたらさぞ喜んだろうが、今は涙が出るばかりであるとか、毎日の登城で母とは疎遠になっていていることを申し訳なく思っているなどといったことが書かれているそうです。将軍時代の慶喜が、文久2年(1862)8月6日に書いた書状のようです。手紙の最後には、「御母様 しん(進)上」とあるようです(写真右下)。
和歌(弘道館 三の丸1-6-29)
「夏 植物 五月雨(さみだれ)のそぼふる池に梅の実の をり/\落る音の淋しさ 慶喜」とあるそうです。下の「淡如水」の書と似た傾向があるようです。慶喜のもともとの性格の一部なのでしょうか、特殊な殿様教育からできた後天的なものなのでしょうか、あるいは、激動期の為政者として身についたものなのでしょうか。
三字書(水戸市立博物館 大町3-3-20)
「淡きこと水のごと(如)し」と読むそうです。いつごろ書かれたのでしょう。解説文には「「水のように淡白である」の意で、時代の波に翻弄された慶喜の、周囲との交際のあり方を象徴するような言葉です」とあります。慶喜の字は非常にきれいで、整った感じがするように思われます。
歌碑の書(常磐神社 常磐町1-3-1)
「家能風伊万母 薫理乃都伎努爾存不美 古能武起乃佐可 梨知良流々(家の風 いまも 薫りの 尽つきぬにぞ ふみ このむ木の さか り 知らるゝ」とあるそうです。光圀が学問と縁が深い浪華の梅(文好む木:好文木(こうぶんぼく))を彰考館に植え、後に斉昭がその老木をめでて詠んだのが上の歌で、それを慶喜が書いて、現在、義烈館入り口付近に碑となっているそうです。
校是(水戸第一高校 三の丸3-10-1)
水戸第一高校の校長だった菊池謙二郎は、明治41年に、「至誠一貫」と「堅忍力行」を校是としたそうです。「至誠一貫」の書は、慶喜が書いたそうです。孟子の「至誠にして動かざるものは、未だこれ有らざるなり」からきた言葉だそうです。