ぶらっと 水戸

水戸の見て歩き

水戸の鈴(4)

2024-09-20 21:43:08 | 水戸

小祠扉(しょうしとびら 成沢町36°25'34.5"N 140°24'36.6"Eあたり)
 町角のあった小祠の扉に、鈴がたくさんつけられていました。鈴にはその音による魔除けの意味合いもあるようですが、この場合はどうなのでしょう。

 

子供神輿(南町)
 水戸黄門まつりに飾られた、かつての南町子供神輿のようですが、ここにも神輿(みこし)の蕨手に鈴がいくつもかけられていました。今はかつがれていないようですが、かつてはすずやかな音がひびいていたことでしょう。

 

埋蔵文化財センター(塩崎町1064-1)
 去年おこなわれた埋蔵文化財センターでの須恵器展で、土鈴が展示されていました。どんな場面で使われたのでしょう。また、根元に穴がないので、写真の土鈴は何かに差し込んだのでしょうか。

 

水戸市立博物館(大町3-3-20)
 上国井町の薬師堂にあるという、密教の法具の一つである五鈷鈴(ごこれい)だそうです。金剛杵(こんごうしょ)という法具の、一方の先が5つに分かれた武具の杵(きね)(五鈷)に、一方が鈴になった、煩悩や魔を断ち切るという意味があるものだそうです。去年開催された、那珂川ヒストリー展に、展示されていました。

 

桂岸寺(松本町13-19)
 鈴のようなかたちをしたミニカステラを売る、鈴なり屋が桂岸寺の納涼祭に出店していました。

水戸の鈴(3)

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水戸の土俵

2024-09-19 21:10:02 | 水戸

 今年の4月に、大相撲の春巡業・水戸場所が、アダストリアみとリーナで開催されたそうです。館内には、7トンの本場所と同じ荒木田土を積んで突き固め、徳俵を24本埋めたという土俵が築かれたそうです。その土俵はもう取り払われましたが、市内には少しですが、土俵があるようです。ただ、使っているところを見たことはありません。

 

水戸市総合運動公園(見川町2256)
 広い公園内の、36°21'18.0"N 140°25'30.4"Eあたりにあるようです。竣工は昭和56年で、工事費は760万くらいだったそうです。控え室・更衣室もあるようです。

 

笠原中学校(笠原町417-3)
 校庭の南東側にあります。校長先生に相撲好きの人がいたのでしょうか。鉄骨を組んだがんじょうな施設のようでした。

 

水戸第一高等学校(三の丸3-10-1)
 現在は休部になっているようですが、水戸第一高等学校には相撲の部活があったようで、相撲道場 敬義館と書かれた立派な額のかかった建物が、学校の入口付近にありました。たぶん、建物内には土俵があるのだろうなと思いつつ周囲を見てきました。

 

常陸山生誕の地(城東36°22'20.1"N 140°29'24.8"Eあたり)
 実際の土俵ではありませんが、常陸山生誕の地には、土俵形の花壇があります。周囲には東西南北を書いた石が埋められています。平成29年に横綱時代の稀勢の里が奉納土俵入りを披露したのは、花壇の左側にある、常陸山像の前だったようです。

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水戸の伊勢参宮碑(4)

2024-09-18 21:30:58 | 水戸

 今回は、伊勢参宮、参拝の文字のある記念物です。どれも、大正時代以降のもののようです。

 

手子后神社(元石川町1728)
 狛犬(こまいぬ)を伊勢神宮参拝の記念として奉納したようです。正面台石に、寄進者名とともに「伊勢参宮記念」と刻されています。大正2年1月のように見えますが、石が比較的やわらかいのでしょうか、劣化が進んでいて読みづらく、自信はあまりありません。

 

春日香取神社(川又町246)
 これは正面に参宮記念と彫られた灯籠です。地震で火袋(ひぶくろ)がなくなったようです。「大正二年三月大神楽(だいかぐら)奉奏」のように読める部分がありますので、大神楽が奉納されたようです。常澄村史によると、昭和3年の御大典記念に奉納された灯籠だそうで、何回かの参宮紀念碑にもなっているそうです。

 

島田町集落センター(島田町2040)
 写真は碑の裏側です。右側に、「伊勢神宮参拝 昭和三十年十二月十一日」、左端に「昭和三十五年一月建之」とあります。表側には、上部に「伊勢神宮 出羽三山 大々御神楽」、下には奉納者の名前が列記されています。参拝記念の大々神楽が奉納されたのでしょう。水戸の伊勢参宮碑(1)でご紹介した碑は、この碑の左方にあります。

 

三湯神社(三湯町57)
 伊勢神宮だけでなく、奈良、高野山、大坂、四国、京都も参拝するという大旅行を記念して、昭和34年にかけられた奉納額のようです。ほかにも2つの伊勢参拝奉納額がありました。

 

鹿島神社(田野町1273)
 これは、「伊勢 琴平 参拝記念」と正面に刻まれた灯籠です。台石の部分に寄進者の名前が並んでいます。

水戸の伊勢参宮碑(3)

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水戸の書

2024-09-17 21:20:21 | 水戸

角櫓(すみやぐら)屋根瓦(角櫓 三の丸2-6)
 大手門や角櫓の瓦に寄附者の名前を書き込む、一枚瓦城主という企画の瓦です。写真のように熨斗瓦(のしがわら)の裏側に、名前などの書がありました。角櫓の見学会のときに撮りました。(撮影R1/11/17)

 

書道パフォーマンス(京成百貨店前 泉町1-6-1)
 水戸市民会館開館日におこなわれた、葵稜(きりょう)高校の書道パフォーマンスです。葵稜高校は、今年おこなわれた、第17回書道パフォーマンス甲子園で準優勝になったそうです。(撮影R5/7/2)

 

一字一石経(水戸市埋蔵文化財センター 塩崎町1064-1)
 経巻を筒に入れて埋納した、経塚という信仰があったようですが、経文を小さな石一つに一字ずつ書いた一字一石経(礫石経塚(れきせききょうづか))という信仰もあったそうです。写真の石は、常磐自動車道の工事で出土した6278個のうちの一つだそうで、法と書かれています。(撮影R5/7/22)

 

みちばた書道(水戸市民会館裏市道(芸術館通り))
 去年11月に開催されたミトリオフェスティバルで見た、みちばた書道です。自由に参加して書道を体験できるスペースのようでした。「絆」や「希望」などの書に混じって、「文武不岐」という硬派の書もありました。(撮影R5/11/25)

 

茨城県マンホール蓋展2024(茨城県庁25F 笠原町978-6)
 25F展望ロビーで、茨城県下自治体のマンホール蓋が展示されていました。会場の一角に書道部門として、下水道の書が展示されていました。しっかりとした骨太の書ばかりのようでした。(撮影R6/9/14)

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水戸の城跡(3)

2024-09-16 21:57:44 | 水戸

全隈城(またぐまじょう 全隈町36°25'01.2"N 140°22'56.9"Eあたり)
 農民が自衛のためにつくった「城」の跡だそうで、「村の城」(藤木久志)というそうです。全隈村は江戸氏の支配地域で、すぐ近くが佐竹氏の支配地域との領界だったそうです。佐竹氏の水戸入城によって廃されたらしいとのことです。この地は寺山といわれ、かつてお寺があったそうで、東端あたりに僧侶のお墓があります。空堀跡があったり、東側に、林になっていますが、少し平らな本郭があったらしい場所があります。

 


中崎家(鯉淵町2897)
 西北に土手と空濠の跡がかぎのてに100mくらい残っているそうで、中崎家はその堀の内側にあったので、堀の内と呼ばれているそうです。かつて堀は県道30号線を越えて伸びていたそうです。現在の中崎家の初代は天文5年(1536)の生まれだそうで、茅葺きの建物は国の重要文化財に指定されているそうです。写真は、左に見えるのが重文の住宅、右が空堀や土塁の残っている林地です。裏手から写しました。

 

白石城(表示板 那珂市豊喰36°25'52.1"N 140°27'26.9"Eあたり)
 白石城は、佐竹氏の一族・国井氏の流れが白石に来て、地名を名字にして居住した館だそうです。14世紀後半のことと推定されるそうです。佐竹、江戸氏の戦いで、館主はたびたびかわったそうです。佐竹氏の水戸入城の後、この館は廃城になったらしいとのことです。水戸との境であるこの地は、現在、茨城県 県中央水道事務所などの敷地になっているようです。

 

青柳館(長福寺跡墓地 青柳町794)
 大掾(だいじょう)氏の一族・馬場資幹(すけもと)が、水戸城ができる前の馬場城を築いたそうです。その子孫は周辺に支城を配置したそうです。その一つが青柳館で、今の長福寺墓地のあたりだったそうです。天正年間(1573-72)は、佐竹氏の家臣・青柳隼人正(はやとのしょう)の居館だったそうですが、佐竹氏の秋田移封により廃城となったそうです。

 

平戸館(吉田神社 平戸町1979)
 平戸館は、大掾氏の一族・平戸氏が交通の要衝であった平戸に構えたものだそうです。標高3mという低地に建てられた珍しい館のようです。時の実力者・北条氏、江戸氏などに仕えながら、平戸氏によるこの地域の支配は続いたそうですが、佐竹氏の時代になりそれも終わり、館は廃城となったそうです。写真左方に平戸館跡の碑が見えます。

水戸の城跡(2)

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