村街・論

2005-06-28 | 思想
PROLOGUE

本稿は前に書いた「人種分け」の
延長であり、それをより現実的に表した
ものである。

思えば松本隆の「風街論」や
大滝詠一の「分母分子論」。
'70s、日本の人間は本気で考えていた。
それは当時すでにゴミ化が進んだ
クソ・エリート大学なんかでは扱えない
まさに「生」で「新しい」理論だった。

分かるか?
30年前の段階でヒップ・スターは
アンダー・グラウンドへ向かったということを。
国家や企業ではない。彼等はそこに無常を
感じ、日本人とは何か。この無常感はどこから
くるのか。を考えていた。

よしりんのゴーマニズム宣言、特に「戦争論」。
現体制への攻撃を必死で行なっている。が。
私にゴーマンが許されるならいいたい。
「そんなこたどうでもいいんだよ・・・」
ゴミがなにをやらかそうが関係なんだよ。

新しいセンスが打ち上げられ、賛同を受け
大きな流れとなった時、過去なんか、いや
膿んでグチョグチョの歴史なんか忘れさられ
るんだから。

村街・論

世界を二つに分けると「村」と「街」になる。

前者は自然と直接結びつき恵みをとる。
共同体の規模は小さいが、密接な人間関係の
上に成り立つ社会。
ルーティンの美で日々単調な生活が営まれる。
ダウン・トゥ・ジ・アース。スロー・ライフ。
若者の多くを引き付ける魅惑のスローガンは
「村」に帰ろうという呼びかけでもある。

後者は村の富を吸い上げる。権力。
だが、一番大切なのはそこに文化が形成される
ということだ。その土地のオリジナルのセンス
が構築される。様式美とは本来土地の風土の上に
あるべきものである。
街の究極は「都」である。中枢。
センスのまさにもっとも尖った部分。

さて、私が突如この村、街について悩みはじめた
のは今から7年程前、村を欲するティーン・エイ
ジャーの思考がセンスとどう結びつくのかが分か
らなくなったからである。
「街」に適応するのが先端だった時代は
日本では'60s中盤で終わっている。七三くろぶち。
ダサイ象徴だが当時はモダン全盛期、髭面ボサ髪
等論外だったろう。

いちいち悩まずマリファナを吸って、楽しく暮らそう。
これは村的思考。実際村を仕切っているのは村長であり
生身の人間。現在の意味不明な憲法で縛られるよりは
よっぽど分かりやすい。街に絞られる訳だが。
圧倒的に貧しかったから生きることに
精いっぱいという時代もあったが、江戸時代などを
考えるとかなり活気のある村の姿を想像できる。
堅いことは抜きにして、といえる社会。

みうら・じゅんの掘り起こしたかつての村は
グルーヴに満ちあふれる共同体だった。
巨大なペニスを担ぐ祭りは実際盛り上がったのだろう。
レゲエの熱狂をみるとつくづく思う。
彼等は村を目指しているのだと。

私の中学時代、まさに「特攻の拓」の時代。
一生懸命汚い言葉を使った。街の標準語を
わざと崩し、ローカル色をだす。村嗜好。
それがかっこいいと思ったからだ。

これはビートルズがロンドンでも
リウ゛ァプールなまり全開で通したのもそうだし
とりあえず黒人に憧れる白人達の行動全般が村
を意識している。

考えた結果、これは街へのカウンターとして存在する
のだと気付いた。反撃の手段である。
ヒップ・スターたちは街を発展させる方へは進まず
村化に情熱を傾けた。破壊行動としての村化。
ウッド・ストックなどその典型。
おぼっちゃまが突然ヒッピーに。

街に住む富んだ人間の村好み。
こう考えられる。だが実際には18世紀のフランス革命
で国民国家が生まれた時から人間はすべて街の人間
にさせられた。

日本も明治時代、近代国家となるべく
憲法の下に全ての人間を街の人とした。
ヨーロッパ、アメリカの植民地にはなるまいと
富国・強兵をめざした。当時としては絶対の
センスである。それだけアジアは危機的状況
であったから宗教やこれまでの歴史など
すっとばして近代化を目指した。

日本という一つの街ができた。
実際の住んでいる場所の話をしているのではない。
「~村」は普通に今でもある。だがそれらは単なる名称
に過ぎない。もっといえば日本の中の
単なるへんぴな場所に過ぎない。自然から直接恵みを
とっていた時代と異なり、その景観を利用した
観光産業で食っている。不健康な存在に成り下がった。

ニュースで伝えられる惨殺事件。発生現場は静かな村。
所詮そんなもので思い描くようなのどかな村などもうない。
かつての村の名残を伝える優しい老人はいるが
若い人間が続いているようには見えない。

昭和40年代につげ・義晴が歩き回った段階で日本の
村の心は消滅しているのだろう。心穏やかな凡人の
コミュニティーは思春期の若者には退屈な場所であり
またメディアからの情報が「そこから出ろ」とせかす。
ルーティンの美、慎ましいし幸せを資本主義は許さない。
もっと買え!
もっとよくばれ!
私はこういった流れに鉄柱を食らわせたい。

さらに視野を拡げ手みると、世界が一つの
街になっている。資本主義の世界。
で、どうなるかというと街の中心はアメリカ。
かつての利権を固持するオイボレ・ヨーロッパ。
アジアでは日本。で、それ以外は辺境の地。
もしくは、中心地から流れ出る巨大資本によって
翻弄される弱者。

私は中国にいいたい。「リメンバー・アヘン」
以前のように堂々とむさぼられはしないけど
結局おいしいところは白人にもってかれるんだよ。
かつての三国志時代のスーパー・ヒップスター
たちが登場して今の流れをぶっ壊すのなら話は違う
けど、今のところどう見てもそんなハイ・センスな
人がいるようには見えないんですけど。

かつては世界には様々な街があった。そしてその中に
村があった。アジアには繁栄する「みやこ」があった。
だが19世紀になり欧米が作り出した街に世界は無理矢理
入れられた。アジアの都は滅ぼされ、富は搾取された。
アフリカはもっと前から奴隷だったし。

明治の日本人は自分の国が辺境の地にならないよう
死ぬ気でがんばった。結果、街の中心をアジアにも
おくことに成功した。

そして、今。私たちはぼーっとしている。
先行きは不安だけど、ま・いっか、みたいな。
恐らく、「資本主義の街」の崩壊をどこかで
感じているのだろう。そこに圧倒的センスを感じない。
無気力が支配する時代。

凡人が村を形成することも素晴らしいと思うが
ヒップスターが新たな街を作ることの方が重要である。
ニュー・センス。村を装うカウンター・カルチャー
ではなく、新しいものを生み出す。
レゲエ祭でタオルふって喜んでいる人たちは
そういう楽しい村を作って下さい。

だが、現時点で日本が村化だけを進めていくと
街の中心の座を失いかねない。富んだ人間の村好み
ならいいが、このままでは搾取される弱者になって
しまう。資本主義の世界においての弱者は恐ろしい。
あくまで、先へ進まなくてはいけないのだ。
で今の日本を動かしているゴミにはそれができないのだ。

できないだけなら、がんばって現状維持してろと思うが
血迷ったゴミどもは変革しようとしている。
変えよう!変えよう!といって10年程たつが
おかしくなるばかり。
私たち世代のやる気も消えていくばかり。

アンダー・グラウンドでがんばっていたヒップスター
たちも巨大資本によりその作品たちがビジネスとなり
その成功目指してゴミが集まりはじめる。
キラッと新しいものが少なすぎる。

街が崩れようとしている今、
必要なことは次を考えることでないか。
人種の住み分けを自分の内面でおこない
甘い誘惑を断ち切る、そしてその人種の個性を
爆発させる。

私はアホになりたい、実生活からズレた思想
を叫び続ける。とことんズレていきたい。
凡人は早く心の穏やかさを取り戻すべきだ。
クラフトマンは今でも楽しそうだから
特にここでいうことなし。
ゴミは黙っとけ。

そしてどこにもはまらない鋭い人がヒップスター。
色々過激にやって欲しい。でも魂は忘れずに。
先祖の魂からは逃げられないからね。
鋭いセンスを貫くことは善である。今の社会では
悪とされることでも。
今のモラルなんて捨ててみようよ。

静かな革命を!

おわり



コメント (8)
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