おはようございます。
満★乳斎です。僕の愛犬ジェイ君が先日亡くなりました。
1年以上前にもう余命わずか と言われてからここまで
彼は頑張りました。
最期の2週間はもう水しか口にせず
ゆっくりと、お別れの準備をしているようでした。
僕はもう 何度も 覚悟はできていました。
でもジェイのいなくなった今 悲しくてたまりません。
理性で心を乾かし あいた穴を忘れるようつとめていますが
時に自らその穴を直視したいという衝動に駆られ
一番痛い部分に神経を集めるような自虐行為に走ってしまいます。
するとすぐに 津波のような侘しさが やってくるのです。確実に。
僕はそれに身を委ね 飲み込まれるのです。
目から血のような温度の涙が溢れ 鼻はつまり
背後からは一緒にすごした12年間の楽しかった思いで かわいい姿
がものすごい勢いで襲いかかってくるのです。
一緒にお月見をした夜たちが。
そして今の寂しい現実にたたき落とされる。
その繰り返しなのです。
自分でその津波を呼び起こしている時はまだいいですが
ジェイのいつもいた場所を思わず見てしまった時
ジェイの食器を見てしまった時
ジェイのブラシを見てしまった時
不意打ちでくらうのです。
あまりにも 衝撃がつらい。
飲み込まれ 呼吸が困難になるときもある。
津波を呼ぶのは簡単だが 出方が分からない。
これはもしかしたら危険なんじゃないかと思うようになった。
でも今、どうすればいいのか分かっている。
それはビル・エヴァンスが教えてくれた。
エヴァンスは時にどうしようもないほどの悲しさを
曲作りの糧とした。父の死、兄の死。
時にそれは恐ろしく客観的で であるから普遍的で
人はそれをもってリリカルなピアニスト と思うだろう。
心の弱い部分にメスを入れるような感覚か。
できた曲は悲しみを微塵も感じさせず 只ただ
美しいだけだから。
今僕は それが悲しみに溺れかけた時
自分を救出する手段だと知った。
バリアだ。
呼吸が狂うほどに悲しくなってしまう前に
その気持ちを文章に置き換える。
このブログに載せる為に文を考える。
作品としてどうすれば良いか考える。
するとどうだろう。同じように思い出たちにもみくちゃ
にされているんだけど 自分は冷静でいられる。
まるで無重力で浮いているようだ。
怖くはない。いろいろと思うこと全てを
文に置き換えているから。意識の先端が
心への攻撃から創作へとずれる。
創作となれば センスが始動する。
人に読まれる前提で どうすれば
面白い文章になるか探るんだ。
津波のエネルギーを利用する とまで言おうか。
自分を悲しくさせる思い出たち。
それらを忘れさることは できない。
とりつくろった冷静は もろい。
巨大なエネルギーには 巨大なエネルギーで
立ち向かうより他ない。
ジェイとの思い出を創作力で捉えてのみ
僕はやっていける。
この文章のラインが出来上がるまで
どれだけのパターンがあったか分からない。
とにかく何度も 作った。
エッジをどう効かすかだとかね。
最近 辛いことが多いから
ほんと言えば 僕もジェイと一緒にいきたかった。