【フイナム版NS】BLUE BLUE Yokohama

2019-11-04 | イラスト
2014 年。
もう一昔前ですね。

では!行ってみましょう。

熱く、語ってます!



ブルーブルー横浜

BLUE BLUE YOKOHAMA



大好き、このお店!


高校2年の夏でしたね。初めて入ったのは。お洒落な先輩から聞いて。

石川町の本屋で雑誌を見て、電話番号メモって、公衆電話でかけて

行き方聞いて。夏の午後。横浜。


外観から、もう、かっこいい!

入って、香りが、かっこいい!

店員さんが、かっこいい!

ドキドキ、ワクワク


1996年でした。

洋服が、熱かった。


あの時、見た景色。その直前に僕は産まれて初めてアメリカへ行って

相当なカルチャーショックを受けてきた訳なんだけど

それは今はやりの「生活の質」ってやつですか?

でもそれは大味で、それ以前のリーバイス小僧の僕にはちょうど良かった

けど、ブルーブルーのセンスに受けた衝撃の方が鋭かったよ。

垂水氏が大桟橋から渡米され、いろいろと吸収し、その思いを詰め込んだ

店「BLUE BLUE YOKOHAMA」。

情熱がメラメラ奥底にあるようで、得体の知れない雰囲気がありました。

商売ではない、なにかであるようでした。

17歳になりたての僕は、もうやられてしまいました。ちなみに、その前月

グランドキャニオンでキャンプしながら誕生日を迎えたんです。



このお店から学びたい。

ほとんど毎日、入り浸りました。その空間にとけ込みたかった。

店員さんのまねをしたり、お客は本当にあまりいなかった。

高校では当時、彫刻家の三沢厚彦先生がいて、その美術の授業っていうのは

放置プレイだったので、先生の横に座ってそれこそつきまとってたな。

学校終わるとブルーブルーって具合でね。カタログとかもらうとそれこそ

穴が空く程眺めてて。もうずーっと見ててね。

ほしいなほしいなほしいなほしいな・・・というね。

物欲、というのか、思春期のあれなのか。

とにかく、モヤモヤってよりは具体的に目前に存在する最高の目標

だった訳です。なんだけど、CDなんかも欲しい訳で、ディスクユニオン

でお金がなくなってるのに、ブルーブルーへ向かって歩く高校生でした。

「あれを買うには、どうすればいいのかな~」

真剣に考えていた。

今の様に、簡単に手に入れることが出来なかったんだよ、かっこいいものって。

情報だって、ぐいぐい行かないと手に入らないし、どこに行くかによって

随分と違うものだった。嗅覚が必要だったんだ。

試着なんかしまくって、ん~、ん~、うなって。

少しずつ、分かっていく感じ。

インディゴのスウェット・ショーツの着こなし方しかり。

Tシャツとの兼ね合い、そして身のこなし立ち振る舞いまで。

お店にずーっといて、学ぶ訳です。ただの物で完結するわけではない。

Tシャツなんか当時まだタウン&カントリーなんか着てたんです。

ビッチのポロシャツとか、着ていたんです。

そこからのブルーブルーのスウェット・ショーツ

はかなりのレベルアップだったんです。正直。

だから、もう無地のヘインズで必死にあわせるくらいしかはじめは無理でした。

髪は坊主。米軍のサービス・シューズをチノパンで会わせて

ニューヨークハットのボーラーハット。

デニムのテーラードジャケット。んん、90年代後期のトラッド・スタイル。

安かったな〜。全般的に。サービス・シューズはまっちゃって

ブルーブルーの在庫なくなってからは中田商店まで買いにいってました。



しばらくしたら、全身ブルーブルーでした。下着も。かぶれてましたね〜。

代官山の方にもたまにいきました。なつかしいゴールデンゲイト!夢の店。

そこで旅のグッズをそろえてました。旅をするから、意味がある。

旅先で、ホント思う訳「これかっけ〜な〜まじで」と。

今はジャーニーっていういい店がありますよね。



でも、ふと思うのは、なぜか今に至るまで

主力のデニムパンツを一本も買ってないのが不思議です。

そこはリーバイスだったんですね。

今の私が10代の自分に言うとすると、「いいね!」ですかね。

「筋、通ってるね!」かな。



「旅は人生の道しるべ」ということでいろいろな旅をし

北欧の港町からお店へファンレターを送ったりしました。

店の前のペンギンポストへ届けたかったの。

まじめですね。でもどんな港町へいっても

ぼくにとってはブルーブルーが一番でした。

外で買い物なんかしないで、質素に旅して

帰ってからブルーブルーで買い物してました。はっきりと

自覚してます。僕は服の着方をこのお店から習いました。



その後、バーニーズへと心が移り、急にブルーブルーが

青春の一ページとして過去の記憶となりまたかなりの

気恥ずかしい思い出ともなり、足がかなり遠のいてしまうのです。

2000年に入って移行はぱったりでした。

そして2008年にハントブラッチフォードを介して、

再会するのです。あの時の嬉しさといったらありませんでした。

ドンピシャ、ドストライクの物をブルーブルーで買えるなんて!

トラッド・スタイル、そろえました。怒濤のごとく。もう大人ですし。

周辺も変わり、店員も変わり、僕も変わり。

でも常に心の大切な部分にあるお店なのです。

今は欲しい欲しいという欲求は強くありません。

心のゆとりがあります。そして落ち着いて、

来る物が着たら逃さず捉える感覚。

スケボー、きましたね。即ゲットしました。

いいですね。

ハント以降、コラボものでしょうかやはり。

エーグルの長靴、オールデン、クイックシルバーのショーツ。

VAN、かなり悩みましたが、見送りました。



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【フイナム版NS】ダウンシャツを買う

2019-11-04 | イラスト
はい。

えー、2015年の文章です。

まだまだ牧歌的でしたね〜。


どうぞ!



ダウンについて。



この話は昨年の秋にさかのぼります。

僕が大好きな店、ブルーブルー横浜ですがそこの店長が

一押しアイテムとして出して来たのが新進気鋭のブランド

OSC CROSSのダウンでした。



試着してみました。

そして、悩みました。

で、スルーしました。

だって車通勤で、いつも室内にいるから

そこまで暖かくなくていいんだもん。

真冬のアウターに関しては、モンクレーにも一度も

触手動かさなかった。カナダグースもね。

実際に触れた事もないよ。



でも、



そのOSC CROSSのダウンの存在というのは

日に日に私の心を蝕んだのです。

去年の年末、やたらとふさぎ込んじゃってさ。

あのダウン、買っときゃ良かったな。って何度も

悔やんださ。

ここのブログにも、訳も無く「ダウンジャケットを着る」

な〜んて投稿のせていたり。あのダウンはちなみに

12才で買ってもらったマクレガー社製。台湾製造。

あんときの嬉しさってね、なかなかですよ。

グローバーオールのダッフルとなやんだんですよ。

しかし、あの軽くて暖かいダウンの存在に

僕はしびれたね。

大切な一着ってやつ?

未だに着てるし。

でも、すでに、去年末マクレガーを着ても

満ち足りない私がいた。

真冬の寒さを共にしてきた相棒だったけど。

「次」がきたのだ。ってね。

重い腰を上げたのが今年に入ってから。遅い!

既にめぼしいタイプと、サイズはなかったのです。

ないならないでいいよね。

その反動でデニムのセットアップになるのですが。



そんな間も、ブルーブルーには通っていた私。

2月だったか?春、夏が始動ってタイミングでした。



そのタイミングで



店長からのびっくりセールス。

「ゆうすけさん、次の秋冬のOSC CROSS、おすすめですよ。」

その時点でもう、きまっとった訳です。

春夏すっとばし、熱くプッシュされたのですから。

写真なんかみません。

どんな形か?関係ありません。

只、入荷したら、買う。それだけ。

そういう直球のセールス。逃げられません。いい意味で。



だから春夏なんかはビームスやらアローズやらで

プラップラしてたよ。



そして。

その時が来た。



店長からの電話。

七回めでとる。



「入荷しました。OSC」



ドドーンと!胸、高ま〜る!



で、店にいく前にオンラインショップ

で写真みれないかチェック。ネット上には

上位機種のみが掲載されていた。

ショート丈って話は聞いてたんだけど。

それらしきモノは発見出来ず。

だからノーアイデアで、ご対面とあいなりました。



バーン!



あれ?



ここにきてまさかの、トーンダウン。

首回り、ボアかぁ。

これってダウンジャケットなのかぁ?

おいおいおいおいおい

欲しく、な〜い!



だがしかし。

いや、まてよと。

もうね、オレには選択肢はなかったんだよ。

来る時から。店長の直球を受けとめにきたんだろ、オレ!

って、ものすごく不思議な部分で自分のテンションを

上げていった。

自分の選美眼に固執するな!

落ち着け!

そして店長の目を見て「じゃ、これで」

とひとこと。



決して安い買い物じゃねーぞ。

で、アウターなんである種勝負服だぞ。

そこを全く力を抜いて、捧げた。

メインステージを解放だ。

お手上げさ。



ワインレッドの袋に詰め込まれたこいつを

小脇に抱え、店を颯爽と後にするオレ。



帰ってからが辛かった。

手に入れたはいいが、気に入ってこないのだ。

で、OSC CROSSのことを知ろうとネットサーフィン。

でこのモデルがダウン・シャツって分類だって知りまして。

だったらもう少しだして、がつんとしたダウン・ジャケット

のが良かったんじゃネーのか!ってマジで。

夜も眠らずダウンの写真とにらめっこでした。

何日もこのダウンは袋に入ったまま。

私との微量な距離を楽しんでいるかのようでした。

内の若い衆がこの話を聞きつけて言ったよ。



「ゆうすけさん、ダウン買わされたんですか?」



そうじゃない、そうではない。

そんな低俗なもんじゃない。

店長とオレとの高尚なやり取りを経て

こいつは今オレのもとにあるんだ。

自分で服を選ぶ事をしなかっただけだ。



見えない魅力が見てみたかったんだ。



f:id:goousk:20151015221748j:plain



つづく
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【フイナム版NS】テロリズムとファッション

2019-11-03 | イラスト
これは2015年の文章だな。


パリだけでなく、胸が痛くなる惨劇が世界各地で起きています。

自然災害然り、戦争。そして、テロリズム。

そんなテロリズムとファッションを同列に扱うことは

不謹慎なのだろうか。その答えは分からないままタイピングを

続けます。



いきなり脱線してしまうんですが、チェロ(楽器)奏者を

チェロリストといった友人がいました。飲んでいた牛乳を

鼻から吹き出してしまい、痛かったのを覚えています。

不謹慎な出来事でした。



テロといえば、オウムの地下鉄サリン事件。最近の若者は

もうあの事件を知らないかもしれないけど、それはもう

衝撃的なテロ行為でした。世界が震撼したといっても過言

じゃない、「日本人ってやばいぞ!」って。未だに、あまり

触れてはいけない話題な気がしますのでそっと触れるに

とどめますが、横浜市の南部に住む私にとっては坂本弁護士

の事件もあり、思春期だったこともあり深い記憶として

刻まれています。オウム真理教の信者が着用していた

服はサマナ服というそうですが、強烈な個性を放っていました。

ファッションじゃくくれないレベルだね。前回、ビートルズ

で触れたラリってる時代、危険ドラッグを多様していた

ジョンレノン達ですが、その時代の末期にインドへ修行?

にいってまして、そのときに白いサマナ服のようなものを

着ていました。薬の影響で、痩せていてなおかつヒゲもじゃ

ヒッピーの原型かな。オウム真理教もヒッピーなのか?

で、ご丁寧にその服を原宿の名店、ゲットバックがレプリカ

で販売してました。それを見たときオウム事件を真っ先に

思い出し、袖を通す事すらためらいました。

やはり、恐怖心です。それこそがテロリズムの影響。

神秘なる存在と恐怖行動。この日本では20世紀末

世界に先駆けてその段階へ突入していたんですね。

パリで襲撃された方達を追悼する気持ちは100%

共感しますが、私達の国には未だにサリンで神経を侵された

被害者達がいる事も、しっかり思い出さなくてはならないの

ではないでしょうか。シリアで現在も苦しんでいる人が

いる事もまた然り。それこそが、テロリズム。



もっと大きく捉えれば、かつての世界大戦は恐怖の時代でしょう。

19世紀から、20世紀にかけて。どれだけの恐怖があったことか。

私的な話で恐縮ですが、私の曾祖父は日本統治下の台湾で商売

してましたが、店を先住民の部族に襲われ従業員が殺されてまった

そうです。もう一方の曾祖父は満州の鉄道設計に携わってましたが

敗戦後、ソビエト兵に袋叩きにされ命は取り留めましたが廃人同様

になってしまいました。大叔母は長崎で原爆に合い、瓦礫に

埋もれていたところを救い出されました。お腹の子供は亡くなって

しまいました。原爆とかいって、どんだけの恐怖だっつーの。

マジで。でも私はそんな歴史を聞かされつつ、リーバイスの

大戦モデルを着る訳さ。このディティールがどうのってね。

1944年、自分の祖先がどんな想いで生き抜いたかを。

知ってか知らずか、どうしてもアメリカを崇拝してしまうんだ。

かっこいいから。実際、マジでかっこいいよ。リーバースの

ヴィンテージは。色なんか、最高ですよね。オリジナルがあんだけ

高値で売買されるのは当然だ。でもね。歴史的に考えると

僕たち、とっても滑稽な民族だってことを忘れてはいけないと思う。

かっこいいアメリカに挑んだ祖先が馬鹿なのか。祖先を忘れ去って

その敵を崇める私達が馬鹿なのか。私には分からない。

当時のミリタリー、喜んで着ている私達ってある意味すごいな。

だって、イスラム国は十字軍の時代にさかのぼって怒ってるんだぜ。

日本人はさ、数十年前に、原爆っていう画期的な攻撃をくらってる

ことすら忘れている。そのすごさ、あるいは、恐ろしさ。

はっぴいえんどの名曲、「はいからはくち」まさにそうだね。

原爆も、地下鉄サリンも、福島原発も、全部忘れられるんだよね。

そんな国民だからこそ、AKB48の「恋するフォーチュンクッキー」

あのノリになれるのか。あのPVで、イスラム国のテロリストたちが

あれを踊る勇気があるだろうか。勇気?そんな話は不謹慎だろうか。

パリで今、シリアスになってるフランス人達が一緒にフォーチュン

クッキー踊れるだろうか。それをイメージするだけでも、いけない

ことなのだろうか。わからない。平和って、なんなんだろう。



私はイギリス軍の迷彩が大好きで、よく着ています。上下でね。

靴はUS NAVYなんだけど、NATO軍も使っているらしく、矛盾は

ない。そんな服を今着ているとさ、すごい意思表明みたいでね。

さらっとファッションでアーミープラス、なんかじゃ済まない

レベル。ガチです。そんで、うちのマンションにはモハメッドさん

っていうアフリカ系の人が住んでまして、彼の視線が気になるんです。

めっちゃいい人なんですけどね。毎年年明けに彼のつとめる会社の

カレンダー、くれるんです。



ここまで文打っといてなんですが、やっぱり昔の欧米の服ひっぱり

だして、執拗にディティールを誉め称える人たち(私も含め)は

狂ってる。人っつーのは、命のリレーでつながってて、それを

つないでくれた家族たちと断絶している時点で豊かな文化は

育まれない。欧米カルチャーにのっとった疑似的豊かなライフ

スタイルを送ってる「しがない」日本人達、全員、滑稽ですよ!

まったく心が豊かじゃないんだ!親が子をおもう心。愛。

そういうのがあっての豊かさなんじゃないでしょうか。

そういう思いをつないでくれた祖先達がいて、その祖先達を

恐怖にたたき落とした欧米がある。



そこをしっかりと踏まえてほしい。それを踏まえて、だがしかし

かっこいいから着るんだ!という。日本製よりアメリカ製がいい。

かっこいいから!という決断。反骨精神(誰へのだ!?)

大叔母は僕に言ったよ。戦後、米兵がジープを乗り回していて

その姿を見たときに、あのチノパンの光沢感、素敵!って思った

んだって。センスってそんなものかもね。彼女がそのとき見た

チノパン、きっと今見てもオレもかっこいい!って思うだろうね。

欲しい!って思うだろうね。そん時日本人が履いていた哀れな

へんてこな服なんて、目も当てられないだろう。それがファッション。

尖ってるんですよ。本来のファッションは。残酷でもある。

豊かじゃなくていいんだし、破滅でいい。かっこいいんだから。



テロリズムってのに焦点を当てると、なんかこの日本って国の

正体がよく見える気がしますね。いかれてますよね。かなり。

そこがまた、いいんだろうし、世界はもう少しこのずれた国の

存在に注目した方がいいのかも。ルーツを軽々とぶった切る

テキサスチェーンソーばりの狂気。ジーンズひとつとって

その細部までなめる様にみつめ、さらにそれを再現してしまう

執拗さ。世界のどこにそんな人種がいるのでしょうか。日本

にいます。俺たちの子や孫がさ、後に欧米トレンドが

終わっちゃって、そしたらもう、全然違う価値観で

生きてんだろうね。そしたら今のものすべてが無かった事に

なるんだよ。きっと。俺たちのよしとしてきたものなんか

無かった事になる。そこにはつながりはない。きっと。

あっさりと、捨てられる。それが日本人というものだ。きっと。



無かった事にされるって、めちゃめちゃ悲しい事ですね。

自分で言っといてなんですが。

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【フイナム版NS】 YOKOHAMA

2019-11-03 | イラスト
横浜。

横濱。

ヨコハマ。



僕が生まれ育った町。

横浜。



ここは、とても悲しい町です。



江戸時代の終わりに、欧米からの圧力で

突貫工事で産まれた町。横浜。



圧倒的な文化がなだれ込み

租借する間もなく、異文化を

受け入れて行った町。



その開かれた港に佇むと

文明開化が明るいものだったとは

思えない。



それはまるで女性が無理矢理



赤い靴を履いていた女の子は

異人さんにつれられて

どうなったんだろう。



BLUE LIGHT YOKOHAMA



根岸のドルフィンという店を

ユーミンが歌った。

とても横浜らしい歌。

悲しい歌。



本牧という場所がある。

ゴールデンカップスというバンドが

米兵によって注入される音楽を

巧みに演じた。とても生々しい

文化交流がそこにあった。

今もブギーカフェやIGには

その空気が宿っている。

CHIBOさん。本牧そのものといった存在。

ネオンの明かりの下で食べる

アメリカンな料理は、あの店でしか

味わえない、食事を超えた

文化交流。

そしてそれは、大きな断絶を常に

感じさせる悲しさがある。

今の本牧、ほとんど廃墟ですから。

ブギーカフェのちょっと先に

ステーキガスト。家族持ちになってからは

もっぱらそちらに行く様になりました。

あの能天気な空間でサラダを山盛りよそう

空虚感。店内のインチキ・アメリカンテイスト。

それはそれでいいんですけれど。

米軍の住宅があった記憶。

マイカル本牧というバブル経済の記憶。

ひっくるめると、どうにも、切ないのです。

最近、マイカルのキッズタウンによく行くが

なんとも、また痛々しい。あの煌めく本牧が・・・。

ポワトリンってテレビ番組のロケ地としても有名。

初めて映画館のナイト・シアターに行った記憶。

あれはマイケル・ジョーダンとバックス・バーニー

が共演した映画だったな。もうその映画館はない。

ベイホールだってもうないし。

そこからすぐのユニクロ。

まだユニクロが珍しかった時代でした。

そのユニクロももうない。



石川町というJRの駅がある。

私の学生時代はバナナレコードとタワーレコード

が2件ありおおいに学んだ。数時間はその2件で

ゆうにすぎていった。今はどちらもない。

元町っていう商店街の入り口には初期のマクドナルド

があった。そこは1981年にオープンしたマクドナルド

国内300号店を記念した特別な店だったはず。

私なんかだと、マックっていったらあの店だった。

今はもうない。



関内。

ヴァージンメガストアとディスクユニオンという

二大巨頭があった。もう降り立った時点でアガル!

ディスクユニオンは今でも小さく営業している。

でもそこへ行くと、小さい店内にひしめく

音楽好き達がかつてのように鋭い視線で

棚を覗き込んでいて、和む。

2020年に横浜市庁舎が移転すると

関内も本牧の様に廃墟と化すのかな。

切ない。



明日、とある雑誌の

取材を受ける予定でして。

横浜特集。

仕事なので対応は丁寧にさせて頂きますが

本心は、横浜に対し

とても深い悲しみに包まれています。



もっと悲しい内容が盛りだくさん

なので、また次回、お届けします。

皆さんのメンタルに作用するような

文を届けられたら。

そんな思いです。


BLUE BLUE YOKOHAMA



裏のロータス。最近始まった

ハンバーガーは絶品です。

それをほおばりながら

港を眺める。横浜を感じる

ひとときです。



「読み返せOSAMU TEZUKAを」

これはラッパー、般若の詩。

強烈に残りまして、実家から

手塚作品を持ってきたのでした。

「陽だまりの樹」

幕末の物語。



手塚作品って、読後なんともいえない

カタルシスを得るんですね。

あるいはその手前の絶望感?

「陽だまりの樹」もすごく感じさせる

物語。もう何遍読み返したか。

読む年齢に応じて、感じ方が違うって

よくある話で。



文明開化ってなんだったんだろう。

そこで開かれた港、横浜。



自分の育った町について考えずには

いられなくなった。特殊な場所だなと、

改めて、思う訳。

歴史を思えば、あまりに悲しい町です。

大砲を撃ち込まれる事は無かったけれど

文化的には、すごいものを打ち込まれ

たんですよね。きっと。



それ以前の日本のお城とか、いろいろ

文化財ってあると思うんですが

横浜の山手周辺に残る欧米の遺物のほうが

断然、かっこいいと思うのは私だけかな。

フランス山ってのがあって、その領事館跡

のあのタイルとか。煉瓦なんかも。

まさに今風なんですよね。欧米に行けば

それこそ、慣れ親しんで、そういったものを

リノベーションして再生している。

横浜でも大桟橋奥の赤レンガ倉庫がいい例

かもしれない。歴史と現在の融合。



そんな具合に、アメリカもここも同じ

みたいに思っちゃうけど、ちょっと待てよ。

「陽だまりの樹」を読み返す。

もともとここにあった文化。江戸の文化

ってすごい奥深いですよ。よく知りませんが。

国を想った志士達の存在。彼らの理想。

その子孫なんですよね。私達。

欧米と同じ、訳が無い。

第二次世界大戦なんて、祖父の時代ですよ。

まったく最近の出来事ですよね。当時は

アメリカ人を鬼畜呼ばわり。で、そのこと

は「しれっ」と忘れちゃう。そこがとても

怖いんです。今。



私にはアメリカ人の友人が何人かいます。

先日、そのおじいさんが一人亡くなった。

やっぱり、彼らの家族の歴史がかっこいい

んですよ、これが。ロシアから移民で

アメリカに渡り、ニューヨークで成功した

祖父。ヒッピーで心理学者の父。

ロシアの祖先がウォッカを製造していたのに

思いを馳せて、地元でウォッカを作る友人。

めちゃかっこいいじゃないですか。



うちなんかだと、敗戦でベトナムから逃げ

帰ってきた祖父。この国が嫌で1965年日本

を出て、病気で帰国した父。日本にいながら

アメリカに憧れる私。

そんな一家族が住む横浜。

祖父は他界しましたが。

悲しい歴史です。

でもまだましなのは、祖父も父も欧米カルチャー

に浸っていた事。だから、彼らのスタイルは

かっこいいと思える。この3世代はかろうじて

つながっているかな。祖父のロレックスは

バブルバックでイカしてますし、ツイードの

キャスケットハットもまだまだ現役。

父が海外生活中、肌身離さず着ていた

チェスターコートは私の宝。悲しい日本人

の歴史だけど、欧米カルチャーでのみ

辿れる部分がある。



母方の祖父は特攻隊員だったので、なかなか

カルチャーでつながるのは難しい。もともと

のこの国の文化を考えるとその祖父が

正しいのかもしれないけれど。分からない。

ゼロ戦の魅力が私には分からない。

欧米文化に毒されているのか。

分からない。



BLUE BLUE YOKOHAMAが好きなのは

父と同じく大桟橋からアメリカへ旅立った

垂水氏の存在が大きいです。あの場所

には強い思いがあるってどこかで読んだ。

すっきりメガネ源、かなり気になるんですけど。


横浜南部のローカル。

家系ラーメン発祥の地。

吉村家っていえば、知ってる人

多いはず。



吉村家、昔はうちの近所の

JR新杉田駅付近にありました。

もう、30年以上前から名店でした。

私が物心ついたときにはすでに

いつも行列のラーメン屋でしたから。

母の味じゃないですけども

あの「ぐっ」とくる醤油とんこつが

私にとっての落ち着く味です。



2chで今も裏ビデオがネタみたいに

語られていますが、地域の私達にしたら

その現場のアゲインBOOKSだって

古本の名店でした。文化的なパワースポット?

個人的には、ラーメンよりも古本屋の方が

思い入れがある。弓月光の「みんなあげちゃう」

そこで買って興奮していた青春時代。裏ビデオ

は知りませんでしたが、文学からエロまで

同人誌もあった。値付けセンスが抜群で。

「分かってる」感じがすごかった。レジの

おじさんはキツネ目の男みたいな人でしたが

私がエロコーナーに入るとき

よく目が合いました。

チラ。ニヤ。みたいな。

その古本屋も今では中華料理屋で、面白くない。

その横の銭湯も去年の夏でやめちゃった。

深みのある場所が消えて行くよ。

雑誌POPEYEで、若いのに一人で銭湯きりもり

している人の話があったね。京都の。

頑張ってほしい。難しいと思うけど。



ラーメンの話に戻りますと、吉村家

今は中心地へ移ってしまいましたが

杉田家という直系の店が道路隔てて

あるので寂しくはありません。

杉田家、朝5時から開店してるんで

パッと目さめて、行くとき結構あるよ。

勝負かける日なんかさ、朝、喰う訳

バリかたで。くぅ〜ってなる。

で、食後はセブンでプリン。

最高だよ。



吉村家関連で最近なんだか騒がしい。

直系の店が続々と閉まっている。

めちゃ繁盛店の環2家の閉店は驚いた。

そしたら、またやってる。え、なに?

ってなりますよね。で、随分前に

直系から外れた王道家が、ついに

横浜南部へ進出してきまして。先日行ったら

え?環2家のスタッフのみなさんが!

なにかが、動いてますね。水面下で。

王道家、初めてだったんですけど

そのホスピスタリティ、すごい。

吉村家で育った私には、驚き。

どちらも好きですが。

でも、その王道家の少し先には

これまたラーメン界のレジェンド

がんこ亭があり

そのがんこ亭の斜め前で昨年

私は事故ったという

どうでもいい話。



壱六家も美味しいですよ。

横浜が生んだスター「ゆず」

が通ったというラーメン屋。

本店はやはり横浜南部です。



近所に名店が揃ってるのって

とても幸せな事だと思う。


昨日、娘と横浜の山下公園で遊んでました。すごく天気

良かったです。1930年に桜木町で作られた氷川丸って

船があって、開放されてるんです。僕たちそこが大好きで

よく行くんです。



入って、すぐに時空を超えた空気感に包まれます。

近所のアンティークショップのKiyaの古木さんが、

氷川丸のすごさを語ってました。いや、実際その

通りですよね。



でmまあ、船から横浜を見るわけです。

船上から、この私たちの町を臨むわけです。

一生懸命欧米化目指して頑張って

挙句、関東大震災で焼け野原になって

その瓦礫で作った山下公園。



今の位置よりもグランドホテルは少し

本牧寄りにあって、地震前は。

その元あった場所に親が経営する

カフェがあって、今はもうないんだけど

でもオレにとってそこはかけがえのない場所で。

山下埠頭の福利施設にあったカフェも

今はもうないんだけどどうしても忘れられない

店だったな。ウミガメの剥製が秀逸でね。

HALCALIのギリギリサーフライダーだっけな

あのPVでつかわれてましたよ。

マイケルのパロディ具合と相まって

最高だった。もうないんだけど、あの店は。



バーニーズニューヨークに入り浸っていたのは

俺が20歳くらいのころ。ミレニアムって騒いでた

18年くらい前のこと。カルペディウムはやっぱ

今見ても冴えてるよね。今風じゃないけど。

あぶない刑事はロケ地がまさにその辺で。

バーニーズ六階の試着室で何度か

中村トオルさんとでくわしたり。

穏やかな平日の昼下がりだったな。



全ては過去のこと。もう遠い昔のこと。

氷川丸の船上から、記憶の染み付いた

自分が生きた町を見つめる。そう遠くない

将来、役割を終えるこの町が愛おしい。



娘は無邪気に甲板を走り回るけど

俺はその後反対の空を睨んでいた。

2018年、この世の中はどうなっちまうんだ。



まあ、そんな気持ちで船を降り

腹でも減ったなってことで道路渡って

すぐのエッグシングスへ。

たまたますぐに入れた。パンケーキが

有名な店でして、あ、みんな知ってるか。

ここフイナムですしね。まあ、もう何年も前

だけどKen Kagami主催の俳句大会

お題パンケーキの会で、優勝したんだ、オレ。

だから、あの店でパンケーキ食うのは未だに

すんごい神聖なことなんです。



モトヤさんて人がハワイであのパンケーキに

魅せられて、その後山下に店出して人気

出たのは有名な話。今はパンケーキリストランテ

って名前で、モトヤさんは店売っちゃったんだっけな?

やっぱりすごくいい店ですよ未だに。僕の妻は

そこのスタッフでってどうでもいい話。



まあ、パンケーキはおいしいですよ。

で、エッグシングス雰囲気もいいですよそりゃ。

お腹も満たされて、いい気分。



で久しぶりにブルーブルーのぞいて

いや混んでたね〜!店員のトラッド具合

に気合を感じる中年の僕。



神田のブルーブルー新店はトラッド一直線

のようですね。俺は正直もういいや紺ブレって感じ。

コーデュロイでいいや、かな。

トランプ大統領見てたら、アメリカ症候群が

治まってきた。



もう、古き良き時代なんかどうでもいいでしょ。

氷川丸だってそう。もう役割を終えたものに

価値はないんだよ。あるのは今を生きてる

僕ら自身。生身の人間が元気に生きてること

以上の価値って何だ!?



大観覧車のあるコスモワールドで遊んで

大道芸見て、で夕方になって妻と合流して

野菜ビュッフェの店で夕食、と思いきや

娘が体調不良になって、即直帰。

家で質素な夕食を済ませる。

娘が元気なくなると本当に気分が暗くなる。



横浜の風景。


横浜市、すごくインスタ映えな町です。



娘がインフルエンザB型にかかってしまいまして

父は大動脈解離で入院中です。何かとまあ

気が滅入る毎日です。朝、目覚めて

思うことは

「はたらきたくない」みたいな笑



いや、マジで布団からでれねんだよ。



鬱?



まあ、そんな具合で、昨日は

無理矢理飛び起きてさ、まだ暗いうちから。

杉田家に行きましたよ。オープンすぐに。

で、中盛りにネギどばってかけてもらって。

バリカタ。朝一はバリカタって決めてましてね。

で、杉田家の休み明け月曜日の朝一のスープは

もう、すごくて。ドカン!と。腹と脳にくるんです。



杉田家のあるJR新杉田駅周辺で、ファッションに

ついてかけって言われても困るんですが。

まあ、駅ビルにユニクロがありますわね。

入院中の父に母がフリースを買ってました。

そこのユニクロで。なんか紺色の。

今日、そういえば甥っ子がユニクロの

コーデュロイのジャケット、やっぱ紺きてたな。

彼、次の日曜からアメリカ、コロラド州ボルダー

ってところに行く予定。俺もマジで行きたい。



新杉田の駅ビルから繋がってるラビスタってとこに

ジーンズメイトがある。夜十一時まで無駄に開いてる。

この間見たとき、オリジナルが無駄に良かった。

買いませんでしたが。そのビルにあるキッチンバーグの

スタミナカレーは最高ですよ。中毒性があって。

俺たちのソウルフード。昨日は休みだったんだ。





京浜急行杉田駅まで行けば、また駅ビルがあって

その中にかなり古いジーンズ屋トップだったっけな

があるな。たまに覗くけど、ここで書くような

内容はない。オーナーには申し訳ないけど。



新杉田とかその周辺って、東芝とかのでっかい

工場がたくさんあって、その従業員たちがきてる

制服がこの国を象徴してていい。

日本人に一番あってるよ。ああいう変な色の

上下、仕事着。帽子。最高だね。



まあ、働く町なんですよ。ここは。基本。

早朝の杉田家だって、運ちゃんとか

夜勤明けの人たちがやっぱりいい味

出してるもんね。たまに商売のお姉さん

もいるよ。隣に座れるとラッキーだね。



ちょっと行くと、ベイサイドマリーナ

っていう三井のアウトレットがある。

昔はよく行ったものですが。

今度すごく大きくなるならしいよ。

そんなに売れ残っちゃてるんだね。

先月そこのビームスにあった

チャンピオンのスウェットじの

キャップ。欲しかったけど買わず。


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【フイナム版NS】イトーヨーカ堂

2019-11-03 | イラスト
はい。
ではフイナムからの文章を届けるよ。
確か2016年かな。



あなたの町にもきっとある?


イトーヨーカ堂。これを掘り下げたい。

現在午前4時。私にとっての

ヨーカ堂。



ヨーカ堂がない地方の方だって

近所にセブンイレブンはあるはずです。

同じ会社です。

セブンアンドアイホールディングス。

日本最強の小売り業者ですよね。



横浜南部に上大岡という町がありまして

そこが幼少期の私にとってのヨーカ堂でした。

そこは玩具からファッション、もちろん豊富な

食材、あと小さいながらアミューズメントも

併設された素晴らしい店舗でした。

デニーズの国内1号店があることでも有名です。



風邪をひいたりして小学校を休むと

父は私をそのヨーカ堂へ連れていってくれました。

そしてなんでも買ってくれたものです。

聖闘士星矢のフィギアみたいのを集めていたなあ。



それこそ、いろんな思い出が詰まっている

イトーヨーカ堂、上大岡店。あそこにはアメリカを

感じるものがありました。幼少期の私を育ててくれた

感もある。めっちゃ古い建物で、屋上駐車場なんて

うねうねしてるんですけど、そこはさすがヨーカ堂

普通に他店と変わらぬ運営で哀愁を感じさせません。

駐車場だけは守衛さん?の小屋?すごくレトロです

けど、あとは徹底的に普通です。



リーバイスの501なんかは近所のジーンズ屋さんで

しっかり選んで買ってたんだけど、コーデュロイとか

シャツだとか、ヨーカ堂でも買ってましたね。

店員に相談しなくてもOKな商品をGETしてたな。

アラスカシリーズとかいうシャツ。アメリカ製で

調子良かったですよね。1991年頃。私は12才。

フイナムブログの先達、栗原道彦さんの517にまつわる

あのお話。同時代であったと思います。

ジーンズ類は大切に長く愛用しましたが、ヨーカ堂で

買ったシャツやコーデュロイは使い捨てしていました。

これもアメリカンな感覚でしょうか。リアルアメリカ!



話はずっと最近になりますが、本牧にできたヨーカ堂。

本牧を代表する名店アロハカフェやリキシャルーム

どちらももうありませんが、その道路隔てた向かい側。

食品館本牧店。店内にはアカチャンホンポがあったり

トイレ設備等で、家庭を持ってからはこちらへ行く事が

増えた。本屋もやたら広くて、椅子が置かれているのが

良心的で、娘に絵本を読んであげている。たまに購入。

このブログでYOKOHAMAってタイトルで、横浜の哀愁を

伝えてましたが、このヨーカ堂でもすごく悶々とする。



アロハカフェは移転して営業しております。以前

ベイホールでご迷惑をおかけしましたので、あらかじめ

明記します。

なんですが、植竹さんや  さんといった

重要人物達が関わっていない時点で地域の私達から

するとそれはもう、それではんですね。

これが本音です。

その点で、ヨーカ堂には鈴木さんがいらっしゃる。

世襲問題で騒がれていますが、やはり大物の存在は

大きいです。ブレブレの日本において、ドスンと鎮座

するセブンアンドアイホールディングスは鈴木さん

あっての。



友人が本牧ヨーカ堂で一時アルバイトしてて

「マニュアルめっちゃきびしいよ〜」

なんてこぼしてたな。その彼は今、親が

開いた中華料理店でゆる〜く働いてる。

中国人です、彼。

杏仁豆腐は彼の担当です。



本牧ヨーカ堂からそう遠く無いところにムーンアイズ

というこれまたアメリカンなところがあります。

車関連だけでなく、ショップやカフェ、雰囲気

抜群ですね。カリフォルニア!って感じです。

西区の伊勢町商店街のそばにあったでっかい

オフィスやピンストライプ作業場も最高でしたが

そこはもうありません。建物だけは当時のまま

残っていますが。



ヨーカ堂がこの先どうなっていくのか。

私に分かるはずありません。

でも、今とても便利に利用させて頂いている

ことだけは心から感謝していますし

続々と消えて行く店や会社のなかで

筋を通す唯一無二の存在。

気がつきゃバーニーズニューヨークも

傘下にありますし。無敵です。



たいがいのものは、5年後残っているか

すら不安な状況じゃないでしょうか。

商売の環境ってますます厳しくなって

いきますからね。来年の2月には本牧の

ヨーカ堂は閉店するそうですし、上大岡も

どうなるか分かりません。ヨーカ堂に

とって、横浜南部のローカルはすでに

重要な市場ではないはずです。



人口減、高齢化。

四面楚歌。



私達を魅了するのは既視感プンプンの

焼き直しトレンド。



あるいはシュプリーム。



現代的解釈ですって?フィットが?



それはもう、それではない。



言ってはいけないことを

言ってしまい失礼しました。
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