人は、絶対的正義というものを 欲しがる。
しかし、そもそも、絶対というものは、存在しないし、正義というものも、実はでたらめの虚飾でしかない。
そもそも、正義というのは、自分たちの利益に合っているかどうかという自分たち目線での価値観でしかない。
分かりやすく言い換えよう。
例えば、キリスト教を信じている人にとっては、イエス様こそが絶対の正義である。
だが、キリスト教を信じていない人にとっては、イエス様が絶対の正義にはならないのだ。
国連というものに対して、日本は中立の立場を求めた。
国連は中立であるべきである。と言うのだ。
だが、ここに、日本人の純粋さがある。
そもそも、中立とは、何か?
という定義が、ない。
自分たちにとっての中立は、「ここらへんかな・・・」という。
それこそ、自分の利益に合っているかどうかという視点からの中立に過ぎない。
誤解しないでもらいたいのは、私は 潘 基文を擁護しているのではない。
いや、むしろ、嫌いだ。
大嫌いな人だ。
だが、言いたいことは、中立とか、絶対的な正義 なるものは、私たちの住む欲にまみれた世界には、一切 存在する余地はないということだ。
そのことを、米国はとっくに気が付いていた。
そこで、国連を、冷戦時のソ連との対話できるツールの一つとしてのみ利用できることを考えた。
今では、中国と対話できるツールとしか考えていない。
分かりやすいのは、米国にとって絶対の正義とは、米国の利益=米ドルの国際通貨としての地位 を守ることに他ならない。
したがって、米国の作った新しい国連ともいうべきものがG7であり 形骸的にG20なるものまで、作りだした。
さらにTPPを作ろうとしているのであり、あるいはまた、戦後レジームの脱却と日本が喜びそうな新しい同盟秩序を作ろうとしているのだ。
絶対的正義なるものは、ない。
ましてや、潘 基文 あたりにそれを期待するほうが、どうかしている。
国連を脱退する必要はないが、少なくとも、期待はしてはいけない。
あれは、年に何回か、顔を合わせるパーティーのようなものだと理解しておくべきものなのだ。
それでは、世界平和を守る精神を遂行できないではないか
というお叱りの声があるかもしれない。
しかし、国連が、ただの一度でも、世界平和に貢献したことが、あったのかどうかを逆に聞いてみたい。
国連には、自分たちの軍隊すらないのだ。
なにをもって、どこを守るという一本筋の通ったものもない烏合の衆が国連なのである。
言い換えれば、そこらへんお商店主のおっちゃんのほうが、よほど きちんとしたストラテジーを持っている。
少なくとも、明日からどういうものを仕入れるのか、何を売っていくのかを考えて、果敢にビジネスにチャレンジしている。
しかし、国連は、何か利益を得るための努力をするわけでもなく、誰かを守るために体を張るわけでもない。
じゃあ、要らないじゃないか
と言われる人もいるだろう。
その通りだ。
要らない。だが、要るのだ。
それは年に何回かの、パーティーを催すという意味においてだ。
つまり国連は、パーティー会場なのである。
儀式のない、宗教のよなものだ。
あるいは、神のいないと言い換えてもいい。
今日の結論・・・
今後ともども・・・
国連がどこかの国に対して、非難決議を採択しても、あるいは、しなかったとしても、誰も痛くもかゆくもない。
そういう、麩菓子のような存在に、かじりついているネズミが潘 基文である。
しかし、そもそも、絶対というものは、存在しないし、正義というものも、実はでたらめの虚飾でしかない。
そもそも、正義というのは、自分たちの利益に合っているかどうかという自分たち目線での価値観でしかない。
分かりやすく言い換えよう。
例えば、キリスト教を信じている人にとっては、イエス様こそが絶対の正義である。
だが、キリスト教を信じていない人にとっては、イエス様が絶対の正義にはならないのだ。
国連というものに対して、日本は中立の立場を求めた。
国連は中立であるべきである。と言うのだ。
だが、ここに、日本人の純粋さがある。
そもそも、中立とは、何か?
という定義が、ない。
自分たちにとっての中立は、「ここらへんかな・・・」という。
それこそ、自分の利益に合っているかどうかという視点からの中立に過ぎない。
誤解しないでもらいたいのは、私は 潘 基文を擁護しているのではない。
いや、むしろ、嫌いだ。
大嫌いな人だ。
だが、言いたいことは、中立とか、絶対的な正義 なるものは、私たちの住む欲にまみれた世界には、一切 存在する余地はないということだ。
そのことを、米国はとっくに気が付いていた。
そこで、国連を、冷戦時のソ連との対話できるツールの一つとしてのみ利用できることを考えた。
今では、中国と対話できるツールとしか考えていない。
分かりやすいのは、米国にとって絶対の正義とは、米国の利益=米ドルの国際通貨としての地位 を守ることに他ならない。
したがって、米国の作った新しい国連ともいうべきものがG7であり 形骸的にG20なるものまで、作りだした。
さらにTPPを作ろうとしているのであり、あるいはまた、戦後レジームの脱却と日本が喜びそうな新しい同盟秩序を作ろうとしているのだ。
絶対的正義なるものは、ない。
ましてや、潘 基文 あたりにそれを期待するほうが、どうかしている。
国連を脱退する必要はないが、少なくとも、期待はしてはいけない。
あれは、年に何回か、顔を合わせるパーティーのようなものだと理解しておくべきものなのだ。
それでは、世界平和を守る精神を遂行できないではないか
というお叱りの声があるかもしれない。
しかし、国連が、ただの一度でも、世界平和に貢献したことが、あったのかどうかを逆に聞いてみたい。
国連には、自分たちの軍隊すらないのだ。
なにをもって、どこを守るという一本筋の通ったものもない烏合の衆が国連なのである。
言い換えれば、そこらへんお商店主のおっちゃんのほうが、よほど きちんとしたストラテジーを持っている。
少なくとも、明日からどういうものを仕入れるのか、何を売っていくのかを考えて、果敢にビジネスにチャレンジしている。
しかし、国連は、何か利益を得るための努力をするわけでもなく、誰かを守るために体を張るわけでもない。
じゃあ、要らないじゃないか
と言われる人もいるだろう。
その通りだ。
要らない。だが、要るのだ。
それは年に何回かの、パーティーを催すという意味においてだ。
つまり国連は、パーティー会場なのである。
儀式のない、宗教のよなものだ。
あるいは、神のいないと言い換えてもいい。
今日の結論・・・
今後ともども・・・
国連がどこかの国に対して、非難決議を採択しても、あるいは、しなかったとしても、誰も痛くもかゆくもない。
そういう、麩菓子のような存在に、かじりついているネズミが潘 基文である。