
1月18日は私の60回目の誕生日だった。

前日の1月17日、これまで勤めていた会社を定年退職、その送別会があり、写
真のようなめでたくサラリーマン卒業の修了証書でもある薔薇の花束を頂いた。

昭和46年、22歳で社会に出でてから、38年間いろいろな出来事があったにせ
よ一昨日までよくこれだけの長い間無事、勤めて来れたものだと自分自身不思議な
くらいでもあった。
これからは、ゆっくり、時間を超えて生きてゆきたいと思う。
送別会には、山形の皆さんをはじめ、新庄、仙台からも多数出席していただいて、
申し訳なく思った。
22歳で大学を卒業、なぜか集団就職でもないのに,就職のために上京。
日本経済の最たる好景気の中での就職、私も漏れなく1部上場企業に就職出来た。
時は大阪万国博覧会が開催され、三島由紀夫が市谷の自衛隊で割腹自殺をはかった
年。
鉄鋼製造業の会社は、その年、全国の著名大学から四十数名の新卒者を採用。
大学出の私達は社員、その他の人は、工員、という扱いで、東大、東工大、大阪
大、慶応、早稲田、東北大、etc・・・・モチロン私の東北・・大学など無名中の
無名・・・で・・しかしながらどうですこの同期の出身大学名・・・将来のエリー
トコースは約束されたも同然だった・・・・・?。
ところが私のもくろみは配属になったその日のうちに見事に打ちのめされてしまった。
3泊4日で松戸での自衛隊体験入隊、その後日比谷公会堂での新人研修セミナー、そして最後の1週間、会社の経営するレジャーランドでの新人研修・・・・研修最後の日、配属先の辞令が渡された時のこと。
何百人といる工員さんの中から特に優秀と認められた4~5人が社員登用の辞令を
一緒にもらった。
私達は勿論社員入社で何の疑問も持ってはいなかったが、こうして一生懸命努力してやっと社員になる人たちが居ることを知ったその時はある意味で社会に出て初めてのショックでもあった。
勿論、私も本社勤務の辞令を。・・・が、なんと、なんと、本社施設部川崎駐在所勤務、日本橋にある本社勤務の夢は見事に破られてしまった。
本社には施設部はあっても勤務場所は川崎にしかなかった。
本社施設部勤務となれば勿論日本橋の本社ビル勤務と信じて疑わなかった。
何故東京の会社を選択したのか・・・・?
東京の中心街の日本橋のオフィスビルにネクタイ、スーツ姿の服装で出社するのが
自分の憧れの姿であったことが、その時初めて知った。・・・・その夢が違った形でやっと実現したのがそれから25年後だった。(・・・・・後述)
JR川崎駅から東の海沿いの工場地帯に向けて川崎大師線が出ている。その終着駅
が私達の職場の工場だった。
当時の川崎市は公害の真っ只中。
吉永小百合主演の映画「キューポラのある街」の正に現代工場版だった。
化学工場、火力発電所、製錬工場、至る所煙突が林立していた。
その煙突から出る煙で、昼でも日照が遮られ、街全体が工場の唸り声に包まれ、異
様な音と臭いが街中を覆っていた。
夜、川崎大師付近にあった寮から空を眺めても、当時の川崎の空は、星空など全く
見える筈はなかった。
その時、故郷の空が今更のようになんと美しく思えたことか・・・?
朝、寮を出て、夕方帰って来て、自分の机の上を手で拭うと、鉄粉がぎっしりと付
いてしまう。もちろん窓は鍵を掛けていくのだが・・・今考えてみると、当時のサッシはスチールサッシといって隙間だらけのものだから当然だったのだろう。
でもそんなつまらないことばかりだけでもなかった。
私達の仕事はグループ関連の全国にある工場、自社事務所、寮等の建設、増改築、
の設計、監理、で新入社員の何も分からない私達でさえ長野、福島、茅ヶ崎、大阪
静岡、など方々へ出張した。
中でも川崎の工場では、新たに製錬の生産ラインを建設中で毎日工事現場で設計監
理の仕事があり本当に勉強になった。
仕事が終わって、同期の数人と先輩と一緒に水道橋にある社交ダンスホールにダン
スに行った記憶がある。
美しいワルツの曲に乗って踊る男女、煌びやかなミラーボールの輝きと7色の光、
スポットライトの交錯、大勢の着飾った美しい若い女性・・・
しかし、残念ながら私は2~3度の練習しかしておらず、1~2度踊ったがうまく踊れず隅っこに立って指をくわえるだけの見学に終わってしまった。
又、休みの日は近くの鎌倉まで何度か一人で足を運んだ。
東慶寺、円覚寺、長谷寺、・・だいぶ鎌倉には通った思い出がある。
千葉に叔母が住んでいた。
その時お土産に持って行ったのが川崎大師で売っていた鯨餅だ。
値段の割りにガサ大きくてなんか得したような気持ちだった。
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この続きは徐々に書き加えていきます。
中略・・・・・・・・
さて翌日、私の60歳の誕生日でした。

初めのケーキは女房がバースデイケーキがなくて、ショートケーキ10個を買ってきて、丸く並べたもの。
上の写真のケーキは息子が別に買って来てくれた、バースデイケーキ。
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続き2008.3.9
だいぶ間が空いてしまったが、私の出来事の続き・・・・・
22歳で上京、ふと冷静に考えた時,やはり自分が何故今東京にいなければならないのか時々分らなくなっていた。
仕事の不満はといえば、ひとつにはやはり若気の至りであったのだろうか、他人の設計した図面ばかりを見ている自分が歯がゆくてしょうがなかった。
非力でもいい・・・何とかして自分の力で図面を描きたい・・・この根強い願望が
時々頭をもたげて来てしょうがなかった。
そんな時支えとなったのが、2級建築士の受験勉強だった。大学卒業した者は、実務経験無しで受験資格があり、その年の7月に学科試験が、9月に設計の試験が。合格発表は11月、ここで合格して帰ろうと決断。
その他に私にはもうひとつ大事な事がありました。
・・・・・・・・・早急に解決しなければならない際迫った状況に置かれてしまいました。
11月の試験発表は、めでたく合格、私はいよいよ帰る決心を。
しかし、せっかく私を大学まで出してくれて、東京の大手1流会社に就職し喜んで
くれたばかりの両親にどう説明をすればいいのやら、はたまた・・・・・・・・・
そんなこんないろんな事を全て解決出来ぬまま、翌年の昭和47年3月末、会社を退職し、無職となり、実家へ戻る。
当時東京での初任給は手取りで35000円位。
盆と正月とその他2度くらい帰郷したような記憶がるが、1年間で,12~3万位貯金をした。
東京の会社を辞め、実家に戻ったことに対して母は非常に残念がったが、父はそんな態度は全く見せなかった。今になって思うと、なんて親不孝なことをしてしまったのかなぁ~と反省する事しきりだ・・・。
その後、母校の大学へ行って就職活動。
幸い(以後17年近くお世話になる)山形のH設計事務所を経営している所長さん
と、東京工大(旧蔵前高専)で同じ研究室卒業だったS教授の紹介で、その年の新
規採用者2名はすでに決定していたのだが、とりあえず面接だけでもしていだけることになった。
当時の思い出だが、面接に伺がったところ、奥の6畳くらいの小さく薄暗い所長
室に通された。
暫らくすると、女の事務員の方が来て、画用紙1枚、鉛筆、消しゴムそして1枚のハンカチとガラスコップを持ってきて、所長が来られるまでこれをスケッチしておくようにとの事だった。
続きは又後日に・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・