「私が中国と日本のかけ橋になりたい」
まだ、日中に正式な国交がなかった頃、そう言った少女がいた。
愛新覚羅慧生(あいしんかくら えいせい)という少女だった。「智慧(ちえ)深き人間に育つように」と名付けられた名だったという。
彼女にまつわる話は、4,5年前、1度書いたことがある。
しかし、今、彼女の死にまつわる話は、当時までに、見聞きしていたものと違うものになっている。
今一度、日中関係に問題が起きている今、彼女のことに触れてみる。
愛新覚羅(あいしんかくら、満州国読み:アイシンギョロ)は中国最後の皇帝、溥儀(ふぎ)の名字から来ている。
そう、彼女は、溥儀の弟、溥傑(ふけつ)と日本の侯爵家嵯峨家の長女、浩(ひろ)との間に第1子としてこの世に生を受けた。
すでに、新王朝は滅亡し、溥儀は日本の傀儡国家である満州国の皇帝になっていく。
しかし、弟・溥傑は関東軍主導により、決まった政略結婚である。
溥傑は日本の陸軍士官学校を卒業し、千葉県に住んでいた。
当初、兄の溥儀は日本の皇女との結婚を望んでいたと言われるが、日本の皇室典範からいけば、満州国と言えど、日本の皇女との婚姻は制度上認められず、年齢的にも立場的にも弟・溥傑と釣り合う侯爵家、嵯峨家の長女、浩が候補にあがった。
見合いの席上、溥傑は浩に一目惚れし、浩も彼に悪い感情を抱かず、話はとんとん拍子に進んだと言われるが、この時代、選ばれてしまえば、いやだという意志表示は許されるわけはなく、選ばれた者同士、仲良くやっていくしかない時代でもあった。
せめて、本当に2人がお互いに気持ちを通わせていた存在であったと信じたい。
溥傑と浩の結婚は千葉県稲毛で新婚生活を始め1938年(昭和13年)に慧生を身ごもった。
その同年に9月に父が、10月には母が満州国の首都新京に渡航し、慧生が誕生した。
ここから、慧生の悲劇の人生の幕が上がる。
1940年(昭和15年)には妹、嫮生(こせい)が誕生する。
姉妹は皮肉にもその人生が大きく別れることになる。
姉妹は、日本と中国のハーフだということを、気にしていたという。普段口に出すことはなかったようだが、心の中では、やはり重荷として存在していたようだ。
誕生は満州国だった慧生だが、5歳から日本の嵯峨家で19歳の最期まで育つことになる。
母と妹は満州国が混乱に陥ってから、帰国の道につくことになる。
1年半の時間をかけ、帰国し母と姉妹は嵯峨家の浩の父が運営していた学校で書道教師として生計を立てた。
伯父である溥儀と父の溥傑はソ連軍に拘束され、慧生はそのあと2度と会うことができなかった。
慧生は中国語を勉強していて当時の中国の首相・周恩来に、兄と共に父の溥傑が撫順の労働改造所に収容されて全く連絡が取れなかったことから「父に会いたい」という趣旨の手紙を中国語で出し、感動した周恩来の許可を得、妻と姉妹と父との文通が許されることになった。
周恩来は慧生の勇気に感嘆したとのちに述べている。
この頃のことだろう。慧生が中国と日本の懸け橋になりたいというという話が出たのは。
しかし事実は違う所へあったようだ。
以前はそれが当たり前のように語られていたが、今はその話はない。
慧生は幼時期から通っていた学習院ではなく、高等科2年の時期で大学は東大に進みたいと言っていたようだ。ここで中国哲学を勉強したいと思っていたが、親戚から、哲学を勉強すると赤になる(思想活動家)になること、その年の女子の入学は彼女1人だった頃から、反対したようだ。
慧生はそのまま習院大学文学部国文科へ進むことになるが、ここで彼女を悲劇に導いた大久保武道と出会うことになる。
慧生は美人であること、家柄の良さで、男子学生のあこがれの的だった。
武道もそうして、慧生に惹かれていったのだろう。
しかし、嵯峨家では、武骨で、青森県から出てきた青年を、まるで集金人のようだと相手にしていなかった。
慧生と同学科にいた大久保武道の父は、軍人で、その後、鉄道会社の重役を務めていた。
この父が、女性関係が激しく、浮気を繰り返し、外に子どもを産ませていたようだ。
武道にすると、この父の血を引いていることから将来自分もそうなるのではないかという恐れを感じ、厭世的な人生観を持っていた。いつも死にたい、その気持ちが彼の心を支配していたらしい。
慧生と武道は本当に交際をしていたのか?
当初、慧生は全くその気もなく、交際を迫る武道の住む寮長に間に入って、そのつもりはないと言ってほしいといっていたという。しかし、その年の半年後、2人は、静岡県の天城山でピストルを使った心中という最期を迎えている。
この半年の間に、慧生の心にどんな変動が起きたのだろうか。
女性には大きくわけて2タイプいる。
交際してほしいと求められると断れず、交際に踏み切るタイプ、自ら求め交際を求めるタイプ。慧生が前者であったなら、武道の情熱にほだされたという考え方もできる。
武道は意外に嫉妬深く慧生が他の男子学生と話しているだけでも、なにを話していたと詰問したり、相手に決闘を売る所が合ったらしい。
慧生は学内でも武道との交際はないと長く否定していたようだ。
それは当時は越えることのできなかった家柄から来るものであったのか、ある時点まで本心であったのか、今は推測することしかできない。
恋とは、いつから始まったと言えるものでもないし、彼女自身、いつからということは言えないのかもしれない。
しかし、2人の文通は続いており、その手紙も残っている。慧生と武道の間に何らかの心の繋がりが生まれたことは確かなのだろう。
父の問題で悩んでいた武道。同じく、父に会えず悲しんでいた慧生、それが重なれば、2人の間に何らかの心の絆が生まれたとしてもおかしくはない。
2人は1957(昭和32年)12月4日頃に天城山に入り、武道が持っていたピストルで、心中を図った。10日に発見されたようだが、当時の新聞は「天国で結ぶ恋」とセンセーショナルな見出しで、ラストエンペラーとなった愛新覚羅の姪、慧生と日本人男子学生の死を伝えた。
慧生は武道に腕枕をされ、こめかみを撃ち抜いて雑木林の中のサルスベリの木の下に横たわっていたと伝えられた。
しかし真実はどうだったのか?
『流転の王妃ま流転の王妃』(文藝春秋新社、1959年) 1992年に文庫化『流転の王妃の昭和史』(新潮文庫)のちに出された物の中に天城山心中と呼ばれるようになった部分が触れらている。しかし両書とも、家柄から来るものか真実が書かていない部分が多く、信ぴょう性に欠けるという意見もある。
嵯峨家としての見解は武道による無理心中、今風に言えば、ストーカーだったという説を曲げていない。
のちに大学の同級生が1961年に出した『われ御身を愛す―愛親覚羅慧生・大久保武道遺簡集』
大久保 武道 (著), 愛親覚羅 慧生 (編集) を出している。
同級生としては、武道が無理心中をしたということにまとめて欲しくなかったから、その反論本として出したようだ。
さて、真実はどこにあるのか。
のちに判ってくる事実をまとめる。
ドラマになったり、歴史を取り上げるバラエティ等で取り上げられているためか、その後、いろいろな人物が調べている。
ここから当時は出てこなかった話が出てきている。
12月4日頃、2人は天城山にタクシーで入ったが、車が行き気する場ではなかったため、2人を乗せた運転手が、待っていようかというのを断っている。しかし乗っている最中、女性が、しきりに男性にここまできたんだからもういいでしょうと説得していた。
実際に遺体を見つけた人物は、慧生はサルスベリの木にもたれかかり、武道とは離れて倒れていた。とてもぱっと見た目は心中とは思えるように2人が近づいていなかったという。
そして12月1日にも自由が丘で慧生が武道にピストルを突きつけられ、死んでほしいと言われたが、そのときは説得し、喫茶店で話をして、思いとどまらせた。隙を見て、武道の寮に電話を入れたが、その様子に気付いた武道に電話を切られた。友人にも、2,3日前に…と武道のことを話しかけて止めたという友人もいる。
1日の慧生は熱があり、予定を変更して伏せっていた。そこへ誰からか電話があり、家に来るというを止めて家を出たという記述もある。
かなり後になってから、身内からあれは銃の暴発だったという話も出ている。
恐らく武道が持っていたのは軍人をしていた父のものだろう。だったら、戦時中に使われていたものだ。ろくな手入れもされず、ただ持っていたのなら、暴発をしてもかしくない。
しかし、暴発して上手くこめかみに当たるだろうか?
これも単に頭を撃ったという表記になっている所もある。
しかし、どちらにしても普通銃の手入れをしていて暴発する場合、弾が飛びこむのは胴体になるだろう。
短銃という話もあるが、これについてははあまり判らないが、例えばリボルバ―式(ルパン三世の次元が持っているような、弾が入っている所が回って判るものならのか、今の警察が持っている形のものなら、弾が入っていても銃の持ち手の部分になるので、入っているかどうかは判らない。
これなら、弾は入っていないということもできる。
弾は入っていないと言って、真似だけさせてくれということはできたかもしれない。
この時代の短銃が、特に武道が持っていたものがどちらを差しているのかは判らない。
それでも暴発という言葉を信じるなら、確実に小さい頭を狙うのは相手の何らかの意志をとらないと難しいような気がする。
手紙の中に、武道の考えはおかしいと思うが、話を1,2日聞いている内に、武道さんの言うことが正しいように思うようになったと綴っている部分がある。
しかし、それだけの時間がかかれば、女性は混乱する。悪いいい方をすれば、信じるように仕向けさせられる可能性は高い。
どちらにしろ、天城山に向かっている最中も慧生は武道を止め、帰りのバスを気にしてたいという証言は残る。
仮に2人が帰りのバスを逃し、夜を山で過ごすうちに慧生が再び説得され、死を選ぶ道を選んだとしても、当時はできないが、今なら科学的に引き金をどちらが引いたか判るだろう。武道が先に撃ったらなら武道の指紋が下にあることが判るだろう。そして慧生の指紋は残らない。先に撃たれた慧生の指紋が残るわけはない。
普通の覚悟を決めた心中なら、それぞれがそれぞれを撃ちあって死ぬ。
そうすれば、2人の指紋が順番に残るはずだ。
最期の力があれば、2人は寄り添うこともできるだろう。
しかし、すぐに絶命すればの話であって、見つかるまで6日間近くかかっている。その中で負った傷から出血多量で亡くなるなら苦しみ抜いて2人の身体はばらばらな位置になるだろう。
それが発見されたときの姿として、ストーカー、無理心中を伝えられているのなら、哀れな話になってしまう。
もだえ苦しんだ挙げ句、本当のことが伝わらなかったことになる。素人が撃ったなら、1発で綺麗に亡くなる可能性は低い。
どちらにしろ、2人の選んだ死は苦しんだ挙げ句、純愛という言葉が吹き飛ぶ苦しみの中で亡くなった可能性は高い。
だったらせめて、事実を打ち明けられる相手がいたなら…。それが2人の取る道が変わらなくても本当の気持ちはどこかにきちんと届いていただろ。
昔、同じ学習院の教授が、学校に伝わる話としてだろうが…時期的に同時期に学習院にいた可能性もある…慧生は孤独だったんじゃないかということを言っている。
5歳から慧生は嵯峨家で暮らしている。
母と妹は1年半をかけて満州から帰国している。
その後、一緒に住むようになっても、苦労を共にした母と妹の間に入りこめない絆を感じ、疎外感を感じていたとしても無理からぬ話だ。
女3人というのは、その気がなくても付き合いが難しい。
そこに強引な武道が入ってくれば、彼に頼る気持ちも生まれたのかもしれない。
そして、母が慧生は中国に帰ってくれるものと思い、中国語を習わせていたが、彼女にはそのつもりはなかった。産まれたのはあちらでも、日本で育っていれば、アイディンディはこちら側にあったのかもしれない。(実際他国で産まれても、日本で過ごす時間が長いとアイディンディティは日本人だという人もいる)ただ母に事実を言って悲しませたくなかったから、言わすにいたということかもしれない。
友人に、日本に居たいというのは、打ち明けていたが、武道のこととは関係のない慧生の意志だったようだ。
その本心を家族にも語ることができず、その心の隙間に武道が入って来たなら、それが、恋となったのか、恋と似たものとなったのか。
私は、あくまで心中する2人は純粋な関係のまま結ばれないことを悲観してするものかと思っていたが、昔から、肌を合わせても、結ばれることがないと諦めて選ぶものだという説もあるそうだ。
この2人が結ばれていたという可能性はない。
遺体の指にはにエンゲージリングらしい、指輪が合ったという。
しかし、死を選ぶことではないだろう。
時代性を反映しているとどうしようもない選択になってしまったのかもしれないが…。
いつでも真実はのちになって、言えなかったことも言えるようになる。
また10年も経てば驚くような事実が発表されるかもしれない。
それまで、事実は今言われているものとなるのだろう。
関連、母とその娘達のこと
↓
http://blog.goo.ne.jp/h_inagiku5/e/d47e73e7cbc24ff006ff536344cd3c34?utm_source=admin_page&utm_medium=realtime&utm_campaign=realtime