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出生名はカミラ・ローズマリー・シャンド
出生日 1947年7月17日午前7時
出生地 ロンドンのキングズ・カレッジ・ホスピタル
両親 父・元元英国陸軍将校だったプルース・シャンド(のちにワイン商に転身)
母・ロザリンド・モード(母は第3代アシュコーム男爵ローランド・キューピットの娘)
長女として生を受けた。
兄妹 妹、アナベル・エリオット、弟、マーク・シャンド
曾祖母 アリス・ゲッペル(母方のロザリンドの母のソニアの母に当たる)は1898年から1910年までエドワード7世の長い間の公妾だった。最愛の女性ではあったようだ。
それ以前の家系 チャールズ2世とルイーズ・ケルアイユの私生児だったリッチモンド公チャールズ・レノックス※1の血筋
皮肉なことにダイアナ妃の実母のフランセスはダイアナ妃の父のスペンサー伯爵と離婚後にシャンド家のピーター・シャンド・キッドと再婚している。
幼少時代 少女時代
1947年11月1日に、カミーラはサセックス州フィール教会でバプテスマを受けた
父の影響もあり多くの本を読んで過ごす。
イーストサセックスのカントリーハウスとサウスケンジントンの第2の家である3階建ての家で育つ。
犬と猫を飼っていた。ポニークラブのキャンプでポニーの乗り方を覚えた。
伝記作家のGyles Brandrethはあらゆる面でカミラは完璧な存在だったと現わしている。
5歳 共同教育学校へ入学(家から離れた可能性がある)
10歳 サウス・ケンジントンのクイーンズ・ゲートのクイーンズ・ ゲート・スクールへ入学※2
この頃彼女の呼び名は「ミラ」だった。
16歳 海外のトゥロチェナズ ( スイス)の Mon Fertile フィニッシングスクール入学 コースを修了
その後自分の意志で6ヶ月間パリのロンドン研究所でフランス語とフランス語の文学を学ぶ
フランス語を教えていた教師は「明るく活発な子だった」と記憶している。
1965年にロンドンで社交界デビューした。
成人後
ロンドンの中(心部の様々な企業の秘書をし(特に有名なものは装飾会社のSibyl Colefax&John Fowlerでは受付係)の勤務している。
開いている時間、カミラは乗馬に熱狂した。他に絵画、園芸に親しんだ。
また彼女の学校の同級生などに作家、政治家などがいる。1人はのちにチャールズ皇太子の特別補佐官をした者もいる。
最初の結婚
英国軍兵士アンドリュー・パーカー・ボウルズ(1973年ー1995年まで)
Daily Mail(出典) 8月24日にある
1960年後半に弟を通じて、出会ったようだ。しかし、ボウルズが人気者でアン王女とも付き合いがあり、その間はカミラとは関わり合いがなかった。
のちに王女と別れて、カミラと再び交際を始める。
結婚式には800人あまりの出席者があり、その中にエリザベス女王も含まれていた。
この結婚で1974年にトム(1974年生まれ)、1979年にローラ(1979年生まれ)の2児に恵まれてた。
Daily Mail(出典)
左からカミラ夫人、娘のローラ、元夫のボウルズ氏、息子のトム
夫は旅行好きでいろいろな所へ赴いたが、妻のカミラと子どもはロンドンに残っていた。
★元々チャールズ皇太子はボウルズ氏の友人でカミラはチャールズ皇太子と出会う。2人には狩猟とポロという共通の趣味があった。
しかしはっきりとプロポーズしないチャールズ皇太子に業を煮やしたようにカミラはボウルズ氏と結婚した。
チャールズ皇太子はダイアナ妃の姉のセーラとも結婚相手候補として付き合っていた時期があるが、やはりはっきりしないチャールズ皇太子に姉は「愛してくれる人と結婚する」とマスコミに話し他の人と結婚を決めた。
ボウルズ氏とは趣味が合わなかったようだ。それにより離婚になる。
ダイアナ妃はチャールズ皇太子との離婚を望んでいなかったが、不仲により別居となる。
カミラ夫人の離婚の1年後、女王の許可があり、それを待っていたかのようにチャールズ皇太子とダイアナ妃の離婚が成立する。
彼女の少女期を時系列で並べてみました。
特に多くを述べる人もおらす、彼女の少女時代は恵まれていたのか、違うのかははっきりとは判りません。十分な教育は与えられ、自らフランス語を習おうという意志を持つまでになったようです。
※1リッチモンド公の子孫にはダイアナ妃、セーラ妃がいる。
※2入学としましたが、あちらの貴族の通っている学校は日本のそれとは感覚が違うらしいので、数か月で辞めたりすることがあるため、日本の入学の基準とは違うようだ、