浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

恩師の歌集「愛」より

有難や米一粒の一粒に
神の御命 我給わらん

「御垂訓」

2020-05-27 00:07:47 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の御著書「愚か者の独り言」より ~

                  講演集 一

          「お茶、ご飯、線香、経文の供養」


さて皆さんもご経験あるかも知れませんが、霊が入って来て、
お茶が欲しいとか、水が欲しいとか、経文を唱えてくれとか言われます。
その殿様ともいろいろと話をいたしましたが、
「わしはお茶が欲しいんじゃ」と言われるのですけど、
「あなたにはお茶は差し上げません。
いくらお茶を召し上がっても、
それによってあなたは救われません」と言ったのです。
「今日まであなたの子孫が、数え切れないぐらいの
お供物をしてくれたでしょうが、
それによってあなたは救われていますか」と言うと、
救われてはいないのです。
「ああ供えてくれたなあ」という一時の心の納得というか、
供えてくれたという思いはあるのですけれども、
いつまで経っても満足を得ることはできません。
この世の物質、物によって救われることはできません。

だからご先祖様にお茶を供え、炊きたてのご飯を供えるのは、
「先祖様のお陰で、こうして今日も熱いお茶やご飯を頂戴できます」
と言って感謝の気持ちを形として表すのです。
それが本当のお供えです。
そうでなくて、「ご先祖様、食べて下さい」と言って供えてはいけませんよ。
多くのご先祖様が取り合いをして「俺の飯もうないわ」と、
必ずそういうことになると思います。
しかし極楽へ行くと「ご飯、お茶」と思えばすぐに出て来て、
何の不自由もないのです。
本当の帰るべき世界、正しい教えというものを知っておりますと、
そんな供物はいりません。

さて、先程の話のように霊がかかりますと、
熱いお茶を丼に二杯三杯は見る見る飲み干してしまいます。
意識なしにです。
或る場合は線香が欲しいと言って、煙を外に逃がさないようにして
皆吸ってしまったりします。
臭くて煙たい線香を嗅いで自己満足するのですね。
でもお茶も線香も救われる為には何の役にも立たず、
そういう迷っている方は何回も出て来られます。
「お坊様の唱える経文の供養によって救われましたか」と聞きますと、
「あれは何にもならん。意味が難しくて訳がわからんわい」とおっしゃいます。
だからいくらお経をあげても何にもならないのです。
お経文の有難いのは、その意味を理解して、
そして日々の生活にそれを実践してこそ、経文の功徳があるのです。


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