浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

恩師の歌集「愛」より

偉大なる光の王に導かれ
我が身は動き口は語らん

「御垂訓」

2020-06-16 00:45:33 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の「講演集」より ~

          講演集、 一

    「真の神様と人間が作った神様」


このような不思議な自然の力、それが神の力であり、
この地上を見た時、
万象万物すべてがお互いにお互いを生かし合いながら
生きているのです。
お互いが持ちつ持たれつの法則の中に生き、
又生かされています。
この大自然の力が私の言っている神様です。大宇宙を支配し、
この地球上にあらゆる生物を育ててくれる力、
これこそ真の神様です。

この偉大な神の御業の中に生かされているということを
自覚するだけでも、今までとは人生観が変わります。
どこそこの神様が有難い、
あそこの神様に参らなかったら罰が当たるなどと言いますが、
私達が神様と思っていたのは、
常識としまして神社、仏閣、或いはお社、
祠の中にお祀りした神様ですね。
あれは皆、人間が拵えた神様で、それに私達はお参りしているのです。
ほんどうの神様とは、
人間をお造りなったその力、その力こそがほんとうの神様です。
人間が作った神様ではありません。


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「御垂訓」

2020-06-15 00:02:29 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の御著書「講演集」より ~

             講演集、 一

       「太陽系に見る調和の姿」


太陽系では太陽を中心として九つの惑星が回っております。
地球をはじめ火星、木星など九つの惑星と、三万何千個の
小惑星とが寄って、一秒の狂いもなく太陽の周りを動いています。
私達は気付かずに地球に立たせてもらっていますが、
時速二万数千キロの速度で太陽の周りを回っています。
そして地球は自転して二十四時間で一回転します。

先日四国で港から船に乗りました時、
ちょうど日の出前で朝日が糸を引いたように出て来ました。
ああ有難いなあと見ているうちに、
太陽は躍り出るが如くに山の上に昇って来られたのです。
その時私はまざまざと地球の自転の早さを見せてもらいました。
あの昇って行くスピードだけ地球が回っているのです。
地球一つを見ても、
太陽の周りを地球は自転しながら回っていることを
見せてもらうことができます。
もしも太陽を壊して地球をこしらえたとしたら、
何と三十三万個ぐらいできるそうです。

それ程太陽は大きいのですね。
太陽が仮にドッジボールの大きさとしましたら、
地球の大きさはどのくらいかと言いますと、米粒か、
米粒の半分ぐらいで、その距離はドッジボールの十メートル先に
米粒があるというのが、太陽と地球との関係に当たるようです。
その地球が道もない宇宙を三百六十五回と四分の一回転した時に、
ピタッと元の位置に戻って来るのですね。
百年間に一秒の狂いもなしに回っております。
これは地球がひとりで動いているのではありません。
九つの惑星が動くことで他を動かしているのです。
他の動きによって自分が動かされているのです。


Livedoor のブログを再開しました。
皆さまのご訪問をお待ちしております。
下記のURLです。
Livedoor Blog タイトル:浄心庵「長尾弘」先生垂訓
http://37sun4970hiroeikawa.blog.jp/
Livedoor Blog タイトル:浄心庵「長尾弘」先生法話
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「御垂訓」

2020-06-14 00:31:51 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

 ~ 恩師のご著書「講演集」より ~

          講演集、 一

     生きる目的「調和」とは


私達は何の為にこの世に生まれて来ているのか、
そして一体どこからこの世に生れさせてもらったのか――――。
これはお母さんのお腹から生まれたのですが、なるほど、
肉体は両親の縁をいただいてこの世に生れて来ておりますが、
しかし私達の心、
魂は一体どこからこの世に招いて戴いたのでしょうか。
それは、すばらしく調和された光輝くあの世の世界(内界)から、
自分の魂を広く豊かにする為に、
この世に生れて来ているのです。
この世は、
私達の魂の研修会場と思って戴いたら間違いないですね。

では一体この世で何をするのかといいますと、
私達はこの世においてお互いに手を取り合って、
助け合い補い合いながら、
調和することを目的として生まれて来ております。
「調和」に背いたら、背いた分だけ、
苦しみを戴くようになっています。
病気も、貧乏も、不幸もすべて調和からはみ出した分だけが
苦しみとして現れて来るのですね。

「調和」というのは、お互いに相互依存する中で、
他を生かす行いをすることです。
キリスト教では「愛」といいます。
この自然の世界はすべて調和されております。
私達が幸せになるには三つの柱が要ります。
まず「調和された健康」、次に「調和された経済」、
そして「調和された心」です。


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「御垂訓」

2020-06-13 00:15:36 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師のご著書「講演集」より ~

           講演集、 一


       「強く願えば再び夫婦に」


質問

この世で成し得なかったことを、次に生れて来た時に
成し遂げたいという願いを持った場合、私どもの一念が
心を支配する力を持つでしょうか。

実はこれはあるのですね。
強く願いましたら、
自らの意識でそこへ生まれてくる場合があるのですね。
しかし、そのご本人がすぐ出られるには、
短い時間では無理です。
六つの意識を持って一人一人の人格を構成していますから、
どの方が出られても皆共通しているのですけれど、
名前が違います。

中国に生まれれば、李とか王とか、
日本では私はたまたま長尾ですけれど、
イスラエルでは又別の名前になります。
生まれ出た方達の名が皆違うのですね。
もしも自分が強く出たいと思われても、
順番として次の自分の守護霊をしていられた方が出て来られます。
そして六人の順番のあとに自分がつかれる場合もありますが、
一人七十年としても五人分三百五十年待たなくてはいけませんけどね。
強く願えば再び夫婦として、或る場合はこの世で母娘であったのが、
次には姑嫁の関係で生まれでることがあります。




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「御垂訓」

2020-06-12 00:41:13 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師のご著書「講演集」より ~

             講演集 一

        「自殺者さえ救われる」


これは本で読んだ話でなく、私の体験したことです。
まだ二十七、八歳の若い方が服毒自殺をされました。
青酸カリですからものすごくきついですね。
寝ている身体の下の部分はすぐに変色してきます。
二時間ぐらいで真黒になり、五、六時間もすると全身が腫れあがって、
鼻、口など穴という穴から汁が出てきます。
もう見られた姿ではありません。
鼻、口に綿を詰めるのですが、細胞が腐っているから、
穴が広がっていよいよお化けです。
胸をかきむしって断末魔の苦しみのまま目をむいて
死んでおられたのです。

私が寄せてもらった時は、
池の底の泥といった状態に全身が変色していました。
紫色になり、身体は腫れあがり、目をむいて、
硬直していて指一本動きません。
石よりも堅い有様です。
余りの気の毒なお姿に、家族のご諒解を得てから、
「どうか神よ、この方の罪をお許し下さい。
どうか許して下さい」と私は泣きながら許しを乞いました。
それから、その方に向かって「あなたは、どんな事情があったのか
知らないけれども、何ということをしてくれましたか。
自らの命を自ら断つとは何事ですか。
神は生きよ生きよと言われます。
あなたはその神のご意志に背いて何ということをしてくれましたか」
「その過ちに気付けば、ほんとうの神様に心からお詫びを言いなさい。
私も共にお詫びします。
その過ちに気付いて、心からお詫びして下さい」
と話させてもらいました。

私も泣きながらだったのですが、目を開きますと、
真黒になって腐りかけたその方の顔が綺麗になっているのです。
白くなってピンクがさしてきています。
目は剥いていましたが、手で触るとさっと閉じてくれました。
一瞬にしてお化粧をしたような顔に変わっておられるのです。
家族の方も親戚の方も驚いておられました。
硬直していた腕が柔らかくなっていて指を組ませましたら、
今度は倒れてしまうので、座布団を二つに折って肘につっかいをして
合掌してもらいました。
もしも普通の宗教が言うように、神に背いて命を絶った者は
永遠に救われない、神が怒って救われないのだったら、
いくら私が泣き叫んでも祈っても救われる筈はありません。

この体験をさせてもらうことによって、
神は自分に対して最も背いた行為をした人にさえ、
救われなさい、自らに目覚めて救われなさいと、
慈愛を与えて下さったことが分かりますね、
なぜ、
その方の硬直がとけて観音様のようなお顔に変わったかと言いますと、
その方が自らの過に気付いて、私が泣き叫んだように、
その方も神に泣き叫んでお詫びをされたからだと思います。
この現象を見せてもらうことによって、
神仏の御心をはっきりと自分が体得しました。
「神の名において許しません」という宗教がありますが、
あれは嘘です。
神は無限の許しです。
無限の許しの意識です。
罰は絶対に当てられません。

皆さんも時間があれば、心が落ち着いた時に、
或いは夜寝床に入った時でも結構です。
朝起きた時でも結構です。
「ありがとうございます」という感謝のひとときを持って下さい。
そうすれば心に安らぎをいただきます。
幸せとは心の安らぎです。


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「御垂訓」

2020-06-11 00:05:45 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師のご著書「講演集」より ~

           講演集 一

    「自殺は神に最も背いた行為」


宗教の中には、
自殺した者は救われないと説いている者が多いですね。
「自殺者は永遠に地獄へ落ちる」と言いますが、
自殺した者でも悔い改めたら救われるのです。
なぜかというと、
神の御心、仏の御心は無限の許しです。
私達がどんな過ち、
罪を犯してもなお許してあげようという、
その無限の許しこそ神仏の心です。

では、なぜ自殺したら救われないかというと、
自らの心が神仏の心に近ければ悲しみは少ないのですが、
もし神仏の心から一メートル離れたら一メートルの苦しみを自ら
裁くようになっているのです。
「神様の罰が当たる」といいますが、
神仏は決して罰は当てられません。
それはあの太陽と同じです。
太陽は自らの身を燃焼させて他に熱と光、慈愛を与え給うている。
それに対して何も報酬をお求めになりません。
ただ与え給うのみです。

神の心は幸せになれ、健やかに生きよ、
自らを苦しめてはいけない、己を大切にして、
己を大切にするが如く他を大切にせよとおっしゃいます。
自殺という行為はその神仏の心から最も離れてしまうのです。
だから、永遠の苦しみを味わわなくてはいけないのです。
しかし、神仏はそれでも救ってやろうとおっしゃいます。
その証拠を私は見せてもらいました。



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「御垂訓」

2020-06-10 00:46:12 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師のご著書「講演集」より ~

             講演集 一

    「地獄の時間は長く天上界ほど短い」


質問 

地獄に落ちた場合は、
もう世界を代わることはできないのでしょうか。

先程も話しましたように、八百年も地獄におられる場合もあります。
地獄に落ちた場合、地獄では時間が非常に長いのです。
ピラミッドのように底が広がっていますので、
下の世界は時間が長いのですが、天上界に上がっていくにつれて
時間が非常に短くなってきます。
光の大天使がおられる所などは、一瞬の短さです。
時間そのものは、
つまり時計がコチコチと動く長さとしては同じことですが、
この時間が心で変わるのです。

例えば、若い時に好きな方があって、その方と会っている場合は
「もうこんな時間か、早く経ったなあ」とびっくりする程、
時間が経っていたという経験がおありでしょう。
家に帰って叱れて、今まで何をしていたと言われても、
何も話してはいないのに時間が過ぎてしまったなあ
ということがあります。
逆に、憎らしくて、嫌な人とここに一時間いなさいと言われたら、
それはもうたまりません。
十分でも何十時間にも感じられます。

また暑い夏にストーブを焚いて、
その中に十分間いなさいと言われた場合も、その十分間は
大変長い時間に感じられて、「早く経たないかな」と思われます。
そのように時間は意識によって、長くも短くもなります。
辛い中では時間はものすごく長く感じられますし、
喜びの世界の中にいたら、あっという間に時間は経ってしまいます。
だから地獄の世界に落ちたら、
無限に長い時間に感じられてしまうのですね。

この地上界の八百年というのは、地獄界の何万年、
何千万年にも相当します。
幸いこういうご縁をいただきましたら、地獄に落ちている人でも
上に上がっていただけますけど、
なかなかこういうご縁はいただけないですね。
私にご縁のありました皆さんはご先祖様に語りかける言葉を
お仏壇の前で唱えてください。



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「御垂訓」

2020-06-09 01:17:44 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の御著書「講演集」より ~

             講演集 一

     「一瞬一瞬を満たされて生きる」


私達は生きている間に悲しみや苦しみをたくさん体験します。
しかしそれも私達の魂を磨く学びの材料として体験させて
もらっているのです。
だから過ぎた悲しみ、苦しみにいつまでも囚われてはいけません。
苦しみは見方を変えて早く捨て去り、
しかもまだ来ていない未来を思い煩ってもいけません。
先はまだ来ていないのです。

現在の一瞬一瞬の積み重ねが一時間となり二十四時間となり一カ月、
一年となっていきます。
その今の一瞬を満たされた時として生活を積み重ね、
人生を笑って過ごされる方はやがて満たされた一生を終って、
その時必ず上に昇って行かれます。
今を大切にしたいと思います。
今に感謝し、今を安らいで生きた時、
私達は必ず幸せになれると思います。
ここまでの話で納得していただけなかった点について、
ご質問がありましたら受けさせていただきたいと思います。


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「御垂訓」

2020-06-08 00:25:00 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師のご著書「講演集」より ~

              講演集 一

         「守護・指導霊」について


この世に生れてある時期は母親の慈愛を戴いて育ててもらうのですね。
特に母親の愛がなくては生きられません。
その愛を戴いてやがて成長しましたら伴侶を得ます。
これからが本当の修行になります。
子供を授かりますと、これで更に修行が厳しくなります。
やがて子供を独立させまして、うまくいったらこの世の執着駅です。
ここに至ってうまく天上界に行けたら、しめたものですが殆どの方は
地獄のほうへ行かれます。
ワット数がないのです。
「私は三十ワットですけど、五十ワットに高めてきます。
安心して下さい」と言ってこの世に生まれてくるのですが、
生まれた瞬間に全部忘れてしまって、だんだんワット数が減って
真黒になって終着駅に着いた時には、
停電して天上に帰ることができなくて、
地獄のほうへ行ってしまうのです。

この時、私達は気が付きませんけれど、
常に感謝しなくてはいけないことは、
私達の側には守護指導霊が必ず付いていて下さるということです。
皆さんにも全部付いて下さっています。
私たちを守りながら、
やがて自分がこの世で生きる為に現象の世界に馴れる
勉強をしておられる私達の魂の兄弟が五人おられます。
魂の本体(自分)があり、
太陽と同じようにその周りに五人の分身があり、
自分を含めて六人をもって「私一人」の人格を構成しています。
この中から選抜されて、皆さんの分も頑張って来ますといって、
この世に魂の修行をしに生まれてまいります。
わたしは或る時、肉体を持ちながらにして、
ふるさとである天上界へ帰らせてもらったことがあります。
するると五人の者が迎えに来て下さいました。
五人の服装はさまざまです。

中国服の方や、或いは布を纏っておられる方、
洋服の方などいろいろな姿の方が出迎えに来て下さって、
ほんとうに懐かしいというか、もう泣けて泣けて仕方がないのです。
「この地上に出られて、その間よくぞ私達の所に帰って来て下さいました」
と迎えて下さいました。
大変すばらしいことです。
さて私達の兄弟五人を仮にABCDEとしますと、
私がこの五人から離れて地上界に出て来ました時、
次の順番の方Aが私の守護霊として付いて下さるのです。
そして私を守りながら、この現象界に出る準備をして、
やがて私がこの世を去ります時、私がこのAにバトンタッチをして、
Aがこの世に出て来られます。

するとまた次の順番のBが、Aの守護霊となって付いて下さるのです。
このようにして順番に誰にも皆守護霊が付いていますので、
守護霊に対いて感謝しなくてはいけません。
例えば、交通事故に遭って車がぺちゃんこになっても、
かすり傷一つ受けていないという記事を見ることがありますね。
また五階、六階から落ちたのに傷がなかったという場合もありますが、
あれは目に見えない守護霊のお守りがあるのです。
しかし、私達はその記事を見て「ああ奇蹟がなあ、良かったなあ」
ぐらいにしか思いません。
そこでこの世を去ります時には、下の世界に行きませんように、
少しでもワット数を上げて天上界へ行きますように、
その為には現在の生活が大切になってきます。
今をいかに生きるかです。
過ぎ去った過去は帰ってきません。


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「御垂訓」

2020-06-07 00:27:34 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師のご著書「講演集」より ~

              講演集 一

     「内在する智慧に至るのが魂の修行」


この世に生れて、魂の修行をし、
自分を高めて来ますと言って、魂の兄弟と約束をして
生まれてきますが、この世でのいろいろの事情によって
心を真黒にしてあの世帰りますと、本当のふるさとである天上界には
帰ることはできません。
あの天上界から地上界を見ましたら、
断崖絶壁のとても危険な場所です。
一歩足を踏み外したら底の見えない谷底へ落ちたり、
霧が立ち込めたら、
一歩も進めないような全く危険極まりない地上の現象世界です。
天上の実在界から見ましたら、この地上界は危ない所ですが、
そこで自分の魂の修行をする為に降りて来ているのです。

オギャーと生まれて来た時、私たちの魂が百パーセントあるとしますと、
九十パーセントまでは潜在してしまいます。
残る僅か十パーセントが私達の表面意識です。
そして心の奥底に内在されている沈んだ部分が「般若心経」に
説かれている「パニャーパラミター」です。
心を開くと、この潜在している部分が分かってきます。
「般若心経」がなぜ尊いかと言いますと、内在された偉大な智慧に
到達する教えだからです。
この潜在している智慧に至ることができるのです。
そうすると、極楽へも地獄へも自分の意識で自由に行けます。
昔から「般若心経」は尊いと言われている理由は、ここにあります。
僅か十パーセントの意識をもって私達は危険極まりない地上の
現象世界において魂の修行をするのです。


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「御垂訓」

2020-06-05 23:59:07 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師のご著書「講演集」より ~

          講演集 一

   「循環を繰り返して神仏に近づく」


水は太陽の熱エネルギーによって蒸発して天に昇るのですが、
熱作用によって冷たくなれば収縮して固体化し、
やがて凍って固まり重くなって下に降りて来る。
その途中で溶けて雨になるのですが、
下へ降りては上昇して、又下へ降りて来ます。
水も循環しています。
例えばここに池があるとして、その池の水が蒸発して
再びこの池に降りてくるかと言うと、そんなことはなく、
上に昇ってしまえばどこへ飛んで行くか分かりません。
水蒸気は成層圏へ上がってしまえば、
アメリカに雨となって降りるかも分かりません。
反対にヨーロッパに行くかも知れません。

それと同様に私たちも命が終わって、
私達の意識が無事天上の世界に帰りましたら、
今度は自ら望む自分の魂の修行しやすい場所へまた降りて来るのです。
日本人は日本人として生まれ代わるかと言えば、それは違います。
日本の国に代々生まれているから言っても、
それはとんでもないことで、
世界中のあらゆる国に転生輪廻しているのです。
その場所で自分の魂の修行をしているのです。
魂の修行とは何かと言いますと、自分の心の曇り、
自分の持っている悪い癖、欠点を払っていくことです。
やがて循環の繰り返しをして最後に神仏の心に到達していくのですね。
それが私達のこの世に生まれた目的です。



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「御垂訓」

2020-06-05 00:58:01 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の御著書「講演集」より ~

          講演集 一

     「過去世の自分が分かる」


私は千三百年前にはチベットでラマ僧をしていました。
先日心を開いてくれた人で、当時私の弟子だった人が出てくれて、
その当時の中国の言葉で当時と同じような礼儀でもって
挨拶をされました。
また六百年前にには私はイスラエルで、
イエスの教えを人々に伝えていました。
あの砂漠をロバの背中に食糧やら水やらを大きな皮袋に詰めて、
人々にしっかり教えを伝えながら歩いていました。

また今から四百二十六年前にもやはり、
イスラエルで伝道の仕事をしていましたが、
それはその当時、私の娘だった人が当時の報告をしてくれて、
そうだったことが分かりました。
人間はこのように繰り返し繰り返し生まれ代わって生きています。
ただ私達は実証できないから皆、分からないと言っています。
専門の方でも分からないものを追究しても仕方がないといって
携わらないのですけれども、
心を開きましたら、自分の過去が自然と分かってくるのです。

私はインドの地において、
やはりお釈迦様の教えをいただいた時もありました。
そしてイスラエルでは、あのパウロの妹を、
何回も助けています。
そのような不思議なことが、自分の心に目覚めた時に
分かってくるのです。
しかも他の方から証明してもらえたりもします。
私はあの当時は、こういう仕事をさせてもらっていたのだなあ
ということが分かってきます。
次々と他の方が証明して分からせて下さるので、
自分というものが、どういう者だったかを知ることができます。
これは循環の法則に従っているのです。



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「御垂訓」

2020-06-04 00:31:46 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の御著書「講演集」より ~

             講演集 一

      「釈迦は自ら目覚めよと説く」


私共はこの世を去りましたら、
天上の世界に帰れますようにと思いますが、
この世の生活が幸せであれば、必ずあの世へ行っても幸せです。
続きの世界ですから何ら変わった所へは行きません。
腹ばかり立てていたら、腹立ての世界へ行きます。
そういう世界へ自分ではまりましたら、
なかなか出て来られません。
これは、子孫がいくら拝んでも、お祀りしても、
いい戒名をつけてもらっても救われません。

なぜかと言いますと、お釈迦様がおしゃっていることで話しますと、
お釈迦様が弟子と共に説法の旅に出ておられた時、
池のほとりで休憩されました。
その時弟子が、時に先生、
西の方から来たバラモンの教えによればこの世において罪、
過を犯し、暗い世界に落ちた者でも、バラモンが来たりて、
供物を捧げ経文を唱えて、
その者の為に供養を積めば救われると聞きました。
先生もそのようにされるのですか」と質問したのです。
するとお釈迦様が「それでは私からそなたに一つ質問をさせ欲しい」
とおっしゃって、池のほとりにあった一つの大きい石を指して
「この石を前の池に投げ込んだら、この石はどうなるか」
と聞かれたのです。
これは、子供でも分かることで、石を池にはめたら沈んでしまいます。
弟子が「石は沈みます」と答えました。
するとお釈迦様は「まさにその通である。
それでは今沈んだあの大きな石に対して、
この池の周りに祭壇を組んで、よき戒名をつけ、
石に対して供物を捧げ、
バラモン衆が来たりて石を上がれ、
石よ上がれと経文を唱えて踊れば石は上がるだろうか」と
聞かれました。

いくら石を拝んでも上がって来ることはないのは、
子供でも分かります。
「それは無理でしょう」と弟子が答えると、
「まさにその通り、私らは、自ら汚れ、自ら重くなり、
自ら沈むものである。
では、そのような沈んだお方でも救うことができるのは、
その方の心が目覚めてくれた時です。
その時、ほんとうに救われます。
その方に対して「この地上で生活した時のことを反省しなさい。
あなたは原因結果の法則によって、
あなたが作ったこの世での原因によって、
今暗い世界に結果としておられるのです。
だから原因を徹底的に追及して懺悔、反省をしなさい。
心の底から泣いて泣いて神に許しを乞うたその時、
自分の心は安らかになって救われます」と話しかけますと、
心が軽くなるから、自然と浮き上がって来るのです。
こういうことがお釈迦様の一つのお経の中に説かれています。


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「御垂訓」

2020-06-03 00:21:55 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の御著書「講演集」より ~

             講演集 一

     「般若心経」の一節「観自在菩薩」


何事が起きても悪く見る見方と、喜びに見る見方とがありますから、
このことを般若心経の中に「観自在菩薩」と説かれた教えに沿って
考えてみたいと思います。
まさに読んで字の如し、観ることが自由自在のことです。
菩薩はインドのボサターといって、仏を目指して修行する人のことを
言ったのですが、私たちがこうして正しい教えを学んで、やがては仏に
至らせてもらおうという方へ心を向けることができれば皆菩薩です。

仏道を行じる者を菩薩といいます。
「菩薩」はのちに大乗佛教になり、観世音菩薩とかいろいろな名前で
呼ぶ特殊なお方に限定されましたけれど、
本来は仏道をめざして修行する者を言ったのです。
「観自在」とは、例えばここに一つの灰皿がありますね。
上から見るとタバコを置く窪みがあってボコボコの面、
横から見ると梯形で角ばった面、
底のほうから見ると丸く調和した面というように、
一つの灰皿を見ても見る面を変えるとそれぞれ違って見えます。
これと同じで、私たち人間を見ましても、大層嫌な面、角の立った面、
人を見たら突っかかって行くような面を持っている反面では、
調和されたすばらしい心を持っているのです。
こんな簡単な灰皿一つを見ましても、いくつもの面を持っていますのに、
私達人間のこの複雑怪奇の心は、あらゆる心を持っていて、
それで一人一人の人格を構成しています。

私達は自分にとって都合の悪い、角のある、デコボコの面を見て、
あの人はいやらしい人だと評価します。
ところがその人の或る面には、
すばらしい調和された心が備わっているのです。
これは、すべての人が持っているのです。
私達はこの良い面を見ることができないのですね。
特に夫婦の場合、何十年と経った時に、
そういう良い面を見るに至るのですが、
その道中に嫌な面ばかりを見るのです。
そして苦しむのです。
「観自在」とは、人を見ても自由自在に見通す能力を言います。
人に会った時に、自分にとって都合の悪いことをされても、
この人は今こんなことをしているけれども、
反面ではすばらしいものを持っている、
とその良い面を見て褒めてあげるのです。
その時、角ばったことを言われたら人は怒りますが、
その人自身も知らない良い面を見つけて褒めてあげれば、
必ず「あの人は何とすばらしい人だなあ、
私のこんな面を知ってくれている。
あの人の為だったら私の命を捧げてもいい」という程、
その人の心を掴むことができます。

その人の隠れたすばらしいものを取り上げることができず、
愚かな私達は、つい嫌な面ばかり見詰めて、
しかもそれがその人であると決めつけようとします。
これは大きな苦しみの原因を作っていますね。
「般若心経」は、私達が生まれ変わり生まれ変わりして転生輪廻を
繰り返して、心の奥底に内在する偉大な智慧に
達するということを言っています。
近代佛教思想では、「あの世は無い」と説かれていますが、
実際あの世はあります。
これは私自身が掴んでおります。
今見せてもらった金でも、
あの天上の世界から降らしてもらっているのです。
あるから出て来るのです。
無かったら出て来ません。


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「御垂訓」

2020-06-02 00:05:43 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

~ 恩師の御著書「講演集」より ~

           講演集 一

   「心を苦しめると必ず不幸が来る」


人は誰でも過ちを犯します。
過ちを犯し易いものです。
しかし、
その過ちによって自分を苦しめることは正しくありません。
それは悔い改めることです。
「悔い改めた時、汝の罪は許される」
これも本当の神の心です。
ですから、「過ちを改めるに憚ることなかれ」
過と気付けば、心を素直にして悔い改めていけばよいのです。
そして、
いつまでもその過ちを心の中に持って自分を苦しめないことですね。

絶対に自分の心を苦しめてはいけません。
これを今日のご縁として
精進して戴きたいと思います。
自分の心を苦しめたら必ず不幸が来ます。
たとえ他から与えられた苦しみであっても、その苦しみを自分が
受けてしまったら自分のものです。
その見方、思い方を喜びに変えて
感謝できる見方をさせてもらうように、
その時この世の苦しみから自分が解脱していけます。

「私達は思いの中に生きさせてもらっている」と言いますのは、
このことです。
「思いの中に自分の人生を築いている」のです。
他から与えられたものと違います。
だからまず感謝して
喜ばなくてはいけません。
「結構の源やん」のように思い方を変えて
自分が感謝し喜びに満たされていれば、その方ご自身の心は
苦しみから解放されて安らいでおります。


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