生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

メタエンジニアリングのすすめ(14) 第13話 小冊子にまとめること

2015年03月31日 07時50分59秒 | メタエンジニアリングのすすめ
第13話 小冊子にまとめること


私が所属する日本経済大学大学院からメタエンジニアリング・シリーズという小冊子が発行されました。内容は、次のHPに掲載されています。
http://shibuya.jue.ac.jp/gsnews/index.html?id=33388
今後、継続的にシリーズの充実を図ってゆく計画でおります。




何故、このような形式の小冊子を纏めるに至ったかの経緯を、すこし説明をしようと思います。
私は、開発設計技術者として40年間を企業の中で過ごしました。所謂、生涯一エンジニアの気分で今も過ごしています。航空機用エンジンの開発は、1970年以来継続的に国家の補助金を頼りに進められており、現在もその性格は変わっていないように見えます。
現役当時は、標準化せよ、教訓をLessons & Learnedの形で残すように、などと常に言われたし、自ら言いもした。しかし、振り返ってみると全て紙くずとしてでも残っていればよい方で、跡形も無く消えている。後半生のものはデジタルデータだが、再び見られることは無いであろう。
退職を数年後に控えたある時から、大先輩から繰り返し、「貴重な体験をしたのだから、きちんとした形で書き残しなさい。」と何度も言われた。20年以上の年月と膨大な補助金により、独力でのジェットエンジンを開発し、その経験を以て国際共同開発に参画して、エアバス320(ドイツで副操縦士のために墜落した、現代のベストセラー機)やボーイング777(GEとの共同開発で世界最大の出力エンジンを搭載)のエンジンの開発設計のチーフエンジニアなどを務めたことを言われているのだった。

書き残す目的は、なるべく長期間多くの関係者に見てもらうことなのだが、前述の経験から従来の方法では無意味なことが分かってきた。そこで考え付いたのが、A5サイズの小冊子だった。この方法だと、自前で印刷製本が可能だし、持ち運びも便利である。また、紙と違って、むやみに捨てられることも無い。そこで、ジェットエンジンの設計開発シリーズを17冊纏めた。条件は、100ページ前後を確保することで、これだと背表紙に題名を書き込むことができる。これが無いと、紙と同様の扱いを受けることになる。

メタエンジニアリングは、支離滅裂と云えるほどの多分野に亘る知識と経験を必要としている。しかし、その為に費やすことのできる時間は限られている。そこで、このシリーズでは敢えて過去の名著や優れたエンジニアリングの業績をなるべく多く紹介したいと考えている。日本のエンジニアリングは、マニュアル第3世代問題と、Design Review Syndrome(設計審査症候群)という大問題を抱えている。つまり、技術者自らの意思で深く考えることをしなくても、物事が設計できる環境が出来上がっている。このことは、技術先進国とそれを支えた企業が必然的に辿る道のように思えるのだが、この問題を解決しないと、新技術への信頼度は逓減するばかりであろう。


メタエンジニアリングのすすめ(12) 第12話 閑話休題(1)

2014年07月25日 14時45分57秒 | メタエンジニアリングのすすめ
第12話 閑話休題(1)

メタエンジニアリング的な思考で新聞記事を読んでいると、共感を覚える記事にかなりの頻度で出あうことになる。7月19日の日経新聞の最終頁に「私の履歴書」が連載されているが、今月はインドの大富豪のラタン・タタ氏で、その半生の話は面白い。この日は第⑱で、バラバラだった一族の企業群をどうやって統一に導いたかの見事な戦略が語られている。同じことが日本では、独立した元子会社の株式を買って、再び完全支配下に置くやり方で行われ始めて、多くの場合に企業群の総合力を増すことに成功しているが、彼のやり方はもっとスマートだった。これらもメタエンジニアリングの考え方なのだが、今回の注目は、その隣の「文化」という記事だ。
 記事の筆者は、文化部記者の千場達矢氏とある。見出しは、「思考停止へ警鐘、現代に響く」「哲学者アレートンに脚光」「原発や企業不祥事 読み解くヒントに」とある。はじめの2段抜きの部分にはこの様にある。

全体主義や公共性をテーマに思索したドイツ出身の政治哲学者ハンナ・アレートン(1906~75)への関心が高まっている。意味を深く考えない行が 大きな破局を引き起こすという指摘は、企業不祥事や原子力発電など現代の問題を読み解く視点も与えてくれる。関連書籍の刊行も活発で、その思想にふれる好機だ。気になった個所のみを取り出してみる。

  ・自分のやっていることの意味を考えない普通の人が、途方もない災厄を引き起こす
  ・大衆社会の到来が全体主義を生み出す契機となったと分析
  ・「複数性」という概念を提唱した。
  ・それぞれが違った意見をぶつけ合っている状態の方が正常である
  ・アレートンは現代の巨大な科学技術との向き合い方についても思索を重ねた


 ここまで読むと、何冊か読んでみたいとの衝動にかられる。そこで、手っとり早く図書館で検索をすると、最近刊行の多くは予約で詰まっている。幸い3冊が在庫中で、その分だけを読むことにした。そして、メタエンジニアリングと共通する言葉をいくつか知ることができた。以下は、それらからの抜書きであるが、最大の共通語は次の文章にある言葉である。
「アレートンは、事物や現象の背後に潜む根源的なものを追求することに格別の情熱を抱いている思想家である。そしていったん捉えられたこの根源的なものから逆に事物や現象を眺め返してみると、その光景は、普段私たちが見馴れて居るものとまるで異なって見え、ある場合には逆立ちして見える。」
                                                                 
1.精神の生活(上),佐藤和夫訳、岩波書店1994)



・私は、「悪の動機になったのは、私がイエルサレムのアイヒマン裁判に傍聴に行ったことである。その報告の中で、私は「悪の陳腐さ」について述べた。その背後には、テーゼや評論が合ったわけではない。しかしながら、ぼんやりとはいえ、私はそれが悪という現象についてわれわれの思想伝統―文学・神学・哲学上のーとは違っているものだという事実に気付いていた。

・私は、この犯罪者の行いがあまりにも浅薄であることにショックを受けた。ここでは彼の行為の争う余地のない悪を、より深いレベルの根源ないしは動機に遡って辿ることができないのだ。やったことといえばとんでもないことだが、犯人(今、法廷にいる、少なくともかつては紀和寝て有能であった人物)は、まったくのありふれた俗物で、悪魔のようなところもなければ巨大な怪物のようでもなかった。彼には、しっかりしたイデオリギー的確信があるとか、特別の悪の動機があるといった兆候は無かった。過去の行動及び、警察による予備尋問と本審の過程での振る舞いを通じて唯一推察できた際立った特質と云えば、全く消極的な性格のものだった。愚鈍だと云うのではなく、何も考えていないということなのである。

・「人間の条件」というのは出版社がつけた巧みなタイトルであって、私はもっと控えめに「活動的生活」の研究とするつもりであった。

・ハイデガーは、哲学と詩とはきわめて密接に結びついているのだと切り返している。二つは同じというのではないが、同じものに起源を持っており、思考がその起源なのである。アリストテレスについて、彼がただ「たんに」詩だけを書いているといって非難する人はいないが、彼も同じ考えで、詩と哲学は同じものに属しているという意見だった。

解説;

・ナチズムに代表される全体主義的傾向がけっして20世紀の例外的突発的事件ではなく、むしろ、20世紀という時代全体にもっとも深く結びついた現象だということを捉えて分析した。

・現代ヨーロッパの深刻な現状、フランス、オーストリア、ドイツ、ベルギー、イタリアといった国々でいずれも急速な極右勢力の進出があり、選挙によって20%を上回る得票率を獲得しているような地域も珍しくない。ファッシズム、全体主義は過去の問題ではない。ことによったら、近代民主主義そのものと深くかかわった問題かも知れない。


2.人間の条件、志水速雄訳;ちくま学芸文庫(1994)



文末の解説より;

・彼女の全著作に流れている暗流は、現代社会に対するかなり切迫した危機意識である。

・人々は自分を他人から区別するために活動するのではなく、他人にならって行動する。大衆社会とは公的領域も私的領域も完全に消滅した社会にほかならない。

・アレートンは、事物や現象の背後に潜む根源的なものを追求することに格別の情熱を抱いている思想家である。そしていったん捉えられたこの根源的なものから逆に事物や現象を眺め返してみると、その光景は、普段私たちが見馴れて居るものとまるで異なって見え、ある場合には逆立ちして見える。

・彼女の場合、根源的なものへの遡及は、しばしば古典古代への復帰を採っているからである。

・本書の中心的テーマは、「私たちが行っていること」を考えることである。いいかえると「人間の条件の最も基本的な要素を明確にすること」であり、・・・。


3.アーレトンーハイデガー往復書簡、大島かおり・木田元共訳、みす書房(2003)



 この本の内容は割愛する。教師と生徒間の恋愛感情がからまった1925~1975の手紙やメモの中味がそのまま記されている。アレートンの学生時代から死の直前までの長い付き合いのようが、愛情を一方的に告白しているのが、あのM.ハイデッガーであり、翻訳者がその研究の第1人者である木田元氏であることに、驚きを感じた。


 これら3冊を通じて思うことは、彼女の人間の基本的条件とは、深く思考することであり、つまり「人は考える葦である」と同じことと感じた。また、近代の民主主義は大衆社会が基であり、この特質が、一般的な不安から全体主義への発展をもたらす危険性に富んでいると、主張しているように捉えられる。
 一般的な不安も、「背後に潜む根源的なものを追求」しないと、とんでもない負の遺産を生じるという主張は、正にメタエンジニアリングの主張と完全に一致する。

メタエンジニアリングのすすめ(11) 第10話 真正科学と疑似科学とエンジニアリングの関係

2014年02月27日 16時22分08秒 | メタエンジニアリングのすすめ
第10話 真正科学と疑似科学とエンジニアリングの関係

第1節 現代の疑似科学とは何か


第3話の冒頭でこのように書いた。一般の人からの科学に対する信頼が急速に低下している。福島第1原発の事故とその対応のまずさがそのことに油を注いでしまった。「科学技術の敗北」などという記事すら散見される。もはや、科学者の言動をそのまま信じる人は皆無であり、社会全体としてこの傾向は当分の間続いてしまうであろう。
 その理由は大きく二つに分けられる。第1は、科学と疑似科学が混在していること。第2は工学の分野での科学の具現化のそこここに誤りが存在すること。詳細は別途述べることにするが、インターネットの普及による情報の混乱と、技術の進歩の急速化が、従来さして問題にならなかったこの二つの問題を顕在化させてしまった。特に複雑な技術の進歩の急速化が現代人の脳の進化を大幅に超えていることは、生物学的には種の絶滅への方向を示しているとも云われ始めている。

 このような視点から、現代科学と現代工学の実社会への適用の最前線であるエンジニアリングについて、より根本的なことを考える分野として、メタエンジニアリングを始めた。このことは、云わば現代の形而上学とも云えるもので、その英語名であるMeta-PhysicsをもじったMeta-Engineeringとも云えるわけである。今回は、メタエンジニアリングの立場からもう一度現代の科学の有りようをみなおして、エンジニアリングとの関係を考えてみた。

「疑似科学入門」岩波新書1131,池内 了著(2008)という著書は、第3話でも紹介したが、お浚いをしてみよう。
著者は「はじめに」の中で、情報化時代になって、かえって世の中の考え方や受け取り方が一様化しつつあると判じている。情報の送り手と受け手の非対称性と述べているが、要は送り手にとって好都合な情報が、受け手側では自分の頭で考えることを放棄して、鵜呑みにする傾向がみられるという訳である。そこで疑似科学」に対する非合理性の認識が重要であるとして、それについて論理的な思考を試みている。


 池内氏は独特の方法で疑似科学を3種類に分けている。
第1種疑似科学は、「人間の心理(願望)につけ込み、科学的根拠のない言説によって人に暗示をあたえるもの」で実例としては、占い系に属する様々なものや超能力を挙げている。
第2種疑似科学は、「科学を援用・乱用・誤用・悪用したもので、科学的装いをしていながらその実体がないもの」で実例としては、永久機関やある種の健康食品、確率や統計を都合よく示して因果関係を特定する方法などを挙げている。
第3種疑似科学は、「複雑系であるがゆえに科学的に証明しづらい問題について、真の原因の所在をあいまいにする言説で、疑似科学と真正科学のグレイゾーンに属するもの」で実例としては、環境問題や電磁波公害、遺伝子組換え作物などを挙げている。つまり、科学的にはっきりと結論が下せないのだから、一方的にシロかクロに決めつけてしまうと疑似科学に転落してしまうものを指している。私は、この第3種疑似科学が現代の情報化社会の環境と相まって、結果として科学不信の傾向が強まっているように考えている。

しかし、メタエンジニアリングで考えると,第4種が現れるのである。それは、疑似科学とは云えないのだが、果たして「真正科学」と云われている現代科学は、本当に真正なのだろうかと云った、疑問である。このことに関しては、The Essence of Engineering and Meta-Engineering: A Work in Progress、Nagib Callaos (2010)という論文が手掛かりを与えてくれるのだが、そのことについては,第2節で紹介をする。

 私がこの本を読んで先ず感じたことは、これは科学だけの話ではなくて、技術(エンジニアリング)の問題が間に存在するべきであるということだった。冒頭に述べたように、科学それ自身は自然界の現象を論理的に説明するもののであり、そのことを人間社会に反映させるには、何らかの技術が介在しなければ成り立たない。つまり、社会に適用する際のエンジニアリングに何らかの齟齬があるのではないかと云うことである。そこで、メタエンジニアリングの登場となるわけである。


第2節 メタエンジニアリングと疑似科学、あるいは真正科学について

 メタエンジニアリングの目的の一つは、Meta-Engineeringの語が示すとおりに、エンジニアリングの根本を形而上学的に考えることになる。少なくとも私は、そのように考えている。

 現代は、科学不信の時代と云われている。そして、その一般的な感覚は科学者が否定すればするほど、ますます広がりを見せているように感じられる。最近の事例では、原子力発電の近い将来の依存度に関する世論だ。なにがなんでも、ゼロ%が良いとする意見が、数としては圧倒的に多い。ある調査では70%を超えるという。原因は、福島原発の事故当時に適切な判断を下せなかったためとも云われているが、それだけではない。地震予知(私は、予知と云う言葉は使うべきではなく、あくまでも予測とか予想と云うべきと思うのだが)の曖昧さに加えて、天気予報は相変わらずに外れることが多いし、地球温暖化の真の原因の議論も決着が見えない。これらの根本的な原因は、何であろうか。

 私は、その根本を科学と技術の基本機能の不徹底さに求める。つまり、サイエンスとエンジニアリングの違いと役割とが混乱しているのだ。例えば、原発が予想外の被害を受けたときに、まず緊急対策を考えて実行するのは、科学ではなくエンジニアリングであろう。何故ならば、現代の全てのものはエンジニアリングによって、その機能を果たしているからである。科学は個別分野ごとの真実であり、総合判断はできない。何故、科学に総合判断をゆだねるのかが、理解できない。
 もう一つの問題は、日本独特の「科学技術」という言葉にある。科学と技術を直結する表現としては、いかにも日本人好みなのだが、欧米人は合理的だと理解してくれているのだろうか。原発問題に関しても、科学技術の立場からの発言は、圧倒的に科学者、つまりアカデミアからのものである。しかし、彼らが末端のエンジニアリングに精通しているとは考えられない。そして、想定外の問題に直面したときに、最も大切なことは、末端のエンジニアリングであることは、間違えないのではないだろうか。

ここで、先に紹介した論文に戻ることにする。全文は36ページに亘るので、全てを紹介できないが第1頁のみを示す。


http://www.iiis.org/nagib-callaos/engineering-and-meta-engineering/engineering-and-metaengineeringpdf  
この中で彼は、大略次のことを述べようとしている。(以下は、「 」内で筆者が訳した文章を記する)

「私たちは、科学とエンジニアリングとを区別し、重要な側面で互いに対向していることを示す。
この対向は正反対でだが、両立しないものではない。(中略)これら2つの統合的な視点は、エンジニアリングの役割を科学と産業の「サイバネティック架け橋」として、更には社会との懸け橋であると示す。」


はじめの「Motive and Purpose」では、現代の基本的な問題として、多くの発表例を挙げている。そのうちから二つを紹介する。

「王立工学アカデミーのフェローのSir.ロバート•マルパス( 2000 )によると、「いわゆる新経済はエンジニアリングのプロセスを通じて形成され、かつ形成され続けてきた。エンジニアリングが社会と経済に浸透することが明らかになり、エンジニアリングが世界を変える上で重要な役割を持っている、しかし、エンジニアリングは、それによって変更されている世界に適応して変わりつつあるのだろうか?」

「ミシガン大学の名誉会長のジェームズ•ドゥーダーシュタット( 2008 )は、ミレニアム•プロジェクトに関連した報告書の中で、「グローバルな知識経済のニーズはengineeringの劇的な変化をもたらす。単純に習得されたscienceやTechnologyの分野よりもはるかに広範なスキルを必要とする。ここ数年の間に連邦国家のアカデミー、政府機関、経済団体、および専門学会では、多くの研究がおこなわれて、それらは、急速に変化する世界における21世紀の国家のニーズとして、Engineering practice, research, educationにおけるnew paradigmsの必要性を示唆している。」

などである。これらの現状認識がMeta-Engineeringを考える出発点であることは、筆者らと同じである。

 次に、“know-that” と “knowhow”についての多くの論文が引用されている。スタートのアリストテレスのニコマコス倫理学では、エピステーメ(ライルの表現では、theoretical knowledge; knowing-what)とテクネ(ライルの表現ではcraft or practical knowledge; know-how)である。これは、次の文章に要訳される。

「Maplas (2000 )は 、「エンジニアリングは2つのコンポーネントを有すると述べている。つまり、engineering knowledge, the ‘know what’, と engineering process, the ‘know how’である。エンジニアリングプロセスの教育と認識は、学界とかEngineering Institutionsで形成されるものではない。」

次にEngineering & Scienceの章を設けて、その関係と違いを明らかにしている。

「マッカーシー( 2006 )は、科学とエンジニアリングの区別の1つは、科学は、真の理論を構築することを目指しているが、エンジニアリングは、働きのあるものをつくりだすことを目標としている、とした。それぞれの分野は、異なる目的を持っている。科学は、世界を理解することを目的とし、一方、エンジニアリングは、 それを変更することを目的とする。」
「デイビス(1998)は、「テクノロジーは私たちのパンを焼く、科学はそれを理解する助けになる。科学とエンジニアリングは、お互いを補完するが、異なる目的を持っており、全く同じ種類の知識を使用しているわけではない。科学の論理は“what-is” の論理であり、エンジニアリングの論理は“what-might-be” または、“what-is-possible”の論理である。」
「科学は、“what-already-exists”を指向し決定するし、エンジニアリングは、“what-is-not-existent-yet”なものを指向する。真実は科学の目的であり、人間の利益を発生させる便利なものを生産ことが、エンジニアリングの真の姿である。」

などである。そして、結論としては次のような言葉が加えられている。

「科学とエンジニアリングは互いに依存しており、特にビジネス•プロセス•スキルに対して、知識と経験を便利なものに変換してくれます。したがって、一緒に、より緊密に協力する必要がある。(マルパス、2000)技術革新においては、科学、エンジニアリングおよびビジネス•プロセス•スキルが相乗的に組み合わされて、科学的知識を社会に役立つ製品やサービス、あるいは技術革新に変換する。」

 そして、いよいよ真正科学の問題が登場する。

「科学は知的にエンジニアリングよりも優れたものではありません。同時に、エンジニアリングは科学に対して、実践的またはpraxeologically に「優れた」ものでもありません。その観点から、マッカーシー( 2006 )は、エンジニアリングが科学が不足している確実性を提供し得ることを示唆している。」
「科学史は、科学的理論が常に現在に至るまで、新しい理論によって否定されていることを証明している。ポパーは彼の科学の哲学と「反証真実」と呼ばれてきたものを基にして、「科学的なものは、それが将来的には改ざんされる可能性がある限りにおいて科学的である」としている。つまり、scientific truth is a falsifiable truthです。ポパーの「反証主義」は通常の見かたを逆転させるのですが、「蓄積された経験は、科学的な仮説につながるが、自由に推測された仮説が経験により試されている」としている。「伝統的な確実性の意味での知識、
あるいは現代的な感覚での正当化された信じるべきものは、手に入ることはない」とした。(ジャーヴィー、 1998)
ポッパーは、これを「悲観誘導またはメタ誘導“Pessimistic induction or Meta-Induction.”」と命名することにより大いに貢献した。」


「ピエール•モーリスマリーデュエム( フランスの物理学者、数学者であり哲学者、1914 ) 、およびクワイン(最も影響力のある論理学者であり哲学者、1951 ) は、「科学は真実を明らかにするという考えに深刻な歪みを示した 」 (リプトン、 2005 )「科学的真実に対する議論は、悲観的な序論であり、その証拠は
科学の歴史から示唆されている。」「事実は、科学理論には賞味期限があることを示している。科学の歴史は理論の墓場であり、ある期間は経験的な成功だが、時がたてば偽と知られてしまう。the crystalline spheres, phlogiston, caloric, the ether and their ilkとその同類は、今は全て存在しないことが分っている。科学は真実のための良い実績を持っていないが、単純な経験的一般化のための基礎を提供していると云える。大げさに言うと、過去の全ての理論は偽であるとも云える。従って、現在および将来のすべての理論はfalseとなる可能性が高い。」(リプトン、 2005)」


「マッカーシー( 2006 )は、「科学的真実に関してのこの不確実性に直面して、エンジニアリングプロセスとその成果が、確実性を達成するための代替手段となっている。」彼女は「哲学者がいくつかの理論にのみ焦点を当てるのではなく、代わりに応用科学とエンジニアリングの双方に注意を向ければ、知識の進歩[と確実性]についてはかなり異なる結論が得られたであろうと断言した。」

などである。聊か我田引水になってしまうが、確かに科学は全て真正であるとは云えないことは事実であろう。
そして、次の記述に繋がってゆく。

「科学と技術活動が相互に関連していると結論出来るであろう。それらは、より包括的な全体として統合される。科学が「 know-that 」を提供し、エンジニアリングの実践はその一つを必要と考えてプロセスや技術を産み、それが科学の進歩や、科学理論の認識論的立場に関しての哲学的な反映を提供する。このような観点によると、科学と技術活動が関連するかもしれない。(正と負)即ち、フィードバックとフィードフォワードループにより、全体として相互シナジーによりその部分、部分の合計よりも大きいものになるであろう。」

「暗黙知/個人的な知識とKnow-How/technêがエンジニアリング活動に必要な条件であることなので、実践や実習も必要条件であることは明らかである。これらは、ノウハウやプロセスの知識を得たり、新たなテクネを生成したり、技術的または人工的な物事、すなわち成果物を創造するための暗黙知/個人的な知識を獲得するために必要である。」

 このような考えを通過すると、現実社会における現代科学に対する信頼性の喪失の回復の為には、メタエンジニアリングが必要との結論に至ってしまうのである。

メタエンジニアリングのすすめ(10) 第9話 科学と哲学の関係とメタエンジニアリング

2014年02月24日 14時48分02秒 | メタエンジニアリングのすすめ
第9話 科学と哲学の関係とメタエンジニアリング

様々な科学と工学がとてつもないスピードで進化してゆく中で、昨今の社会情勢の変化に対して、哲学者からの科学的な発言がめだつようになってきたように思う。一方で、科学者や、特に工学者、中でも最も社会情勢への影響度が高いと思われるエンジニアからの哲学への発信は皆無である。
 メタエンジニアリングの中でこの命題を考え、過去の関連図書をあたってみた。そこで出会ったのが、「そもそも、哲学と科学とはお互いに助け合うべきである。」との言葉だった。著者は、京都大学総合人間学部教授の有福孝岳さん、哲学の京都学派のおひとりであろう、ハイデッガーやカントの有名な論文の訳本を出版されている。

「哲学の立場」晃洋書房(2002)には、多くの示唆に富む記述が見受けられる。そして、その多くにメタエンジニアリングの考え方との共通点を見出すことができる。



 著書は、中世まで隆盛を誇った形而上学からの科学の分離が宣言をされた17世紀の第一哲学の話から始まる。
「ニュートンもまた、「自然哲学の数学的原理(Philosophiae naturalis principia mathematics,1687)」において、運動の公理としての自然物体の三つの根本法則、つまり慣性の法則、運動方程式、作用・反作用の法則を呈示することによって、宇宙物体の物理学的自然哲学を完成した。」
である。
 現代に生きるエンジニアとしての私は、ここで二つの疑問に出会う。「自然哲学」と、「完成した」、の二語である。しかし、このことは読み進むと自然に解消されて、正しい哲学的な解釈であることに気が付かされる。

 哲学的な論証の説明が続き、アリストテレス、カント、フッサール、ハイデッガー、サルトルなどの著書の説明の後で、「哲学と科学」の章が「科学とは何か」で始まる。
「もともと、「科学」という漢字は、中国語「科挙之学」の略称として用いられ、明治十年以前においては、日本においてもその語彙を継承して「分化之学」「個別学問」の意味で用いられたものである。(中略)scienceやWissenchaftはともに「科学」と訳されると同時に「学問」とも訳されるように、もともとは、もっぱら「知識」を意味するラテン語Scientiaに対応するものである。この言葉は、元来感情や信仰からは区別されて、人間の知識活動一般を意味したが、このような最も広い意味での科学は、人類の出現と共に始まったものに他ならない。(中略)現代においては、科学という言葉は、一般的には全体的思弁的な学としての「哲学」からは区別された、経験的個別的な諸学問を意味し、最もせまい意味においては「自然科学」を意味する場合が多い。」

とある。私は、ここにメタエンジニアリングの入口を感じる。

 コペルニクス、ケプラー、ガリレオ、ニュートンに言及したあとで、科学については次の記述がある。
「以上の如き意味を持つ科学の特質は「合理性」と「実証性」にある。あくまで、原理原則に基づいて理論的体系的に知識を探究すると同時に、その知識が事実と実験によって検証されねばならない。この検証の場が実験である。実験的方法は仮説を必要とする。科学者は、仮説によって、自然を再構成し、自然法則的自然、自然科学的自然を構築するのである。それはありがままの生の自然ではなくて、自然科学的に規定された自然であって、混沌と多様が入り交じった無規程的自然ではない。科学的自然は統一と体系を保った自然である。しかし、自然そのものは、科学者の手からこぼれ落ちるであろう。ここには、人間としての科学者の有限性がある。」

この言葉には、現代の先端科学者からは、大いに反論が出されるかもしれないが、一般常識的にはもっともなことに思える。昨今の、科学に対する不信感も「それはありがままの生の自然ではなくて、自然科学的に規定された自然であって、混沌と多様が入り交じった無規程的自然ではない。科学的自然は統一と体系を保った自然である。」と述べられたように、現代科学者が「混沌と多様が入り交じった無規程的自然」を完全に自らの科学の中に再現したと思いあがっているのかもしれない。
そして、メタエンジニアリングが哲学に固執する意味もこの言葉に含まれている。

 次の「哲学と科学」の節は、つぎの記述で始まる。
「ともあれ、個別科学は己の前提を疑わずに、その前提に基づいて自らの知の体系をたいていの場合築き上げることができる。しかしながら、もしひとたび、その前提が怪しくなりくずれかけたときには、最初の出発点に立ち返って、原点から考えてみなければならなくなる。そのときに初めて、各個別科学の哲学的反省が始まる。」である。

 少し引用が長くなるのだが、いよいよ結論である。
「そもそも、哲学と科学とは互いに助け合うべきである。西洋近代以来、現代のハイテク技術、コンピュータ、原子力等々を中心とした現代の科学技術の時代においては、多くの人々は、哲学者までもが科学的知識へのコンプレックスに陥り、科学に対して奴隷的態度をとるに至っている様相さえ呈していると同時に、他方においては、科学への拒絶反応を示して原始時代への逆行、自然的生活への願望を抱く人々もいる。しかるに、哲学が現代に適応した、現代の哲学であろうとするならば、現代の科学の長所と短所を弁別しなければならない。科学をむやみに信ずることもなく、また反対にむやみに拒絶することもなく、科学のもたらした、信頼するに足るような、確実なる知識を哲学的思索に生かさなければならない。
    哲学的問いにとって特徴的なことは、その徹底性である。すなわち、これやあれやの因果関係が探究されているのではなく、全体一般に付与されうる意味が探求されているのである。なぜなら、哲学する人間にとってはそのつど決定的なことであり、全ての哲学的思索はそのかぎりにおいて「実存的」である。ところで、科学者も人間であり、一定の時代に生まれ生きる存在者であり、歴史的文化的制約下にある。つまり、科学者もすでに何がしかの世界観人生観によって、言い換えれば自らの哲学によって科学を始めているのである。」


また、「しかしながら、科学はつねに進歩し、進歩すればするほど、科学は自己独自の特異性のある立場とパースペクティブをもって新たに分化し、旧来とはちがったパースペクティブをもつべき科学の一学科へと変換しつつ進歩するであろう。それゆえ、常識をいつも追い越してゆくこところに科学の本質と宿命がある。だが、進歩しなくなったときには、それはもはや科学ではなく、単なる常識にすぎないものになってしまっているのである。常識を批判し反省するところから、新たな哲学と科学が生まれるであろう。」
 
ここに至って、現代社会における、あるいは現代科学と現代工学の中でのメタエンジニアリングの必然性が見えてくるのではないだろうか。
しかし、このような状況は福島原発事故に始まる、いわゆる「科学のむら組織化」の異論から大きく変化してきたように思える。つまり、前出のこの部分が明らかに変わってきた。

「現代の科学技術の時代においては、多くの人々は、哲学者までもが科学的知識へのコンプレックスに陥り、科学に対して奴隷的態度をとるに至っている様相さえ呈していると同時に、他方においては、科学への拒絶反応を示して原始時代への逆行、自然的生活への願望を抱く人々もいる。」

はじめに述べたように、昨今の社会情勢の変化に対して、哲学からの科学的な発言がめだつようになってきたのである。例えば、このことについては既にこのブログでも紹介したのだが、「ハイデガーの技術論」を著した加藤尚武氏の「災害論」でsる。

 「災害論―安全工学への疑問」加藤尚武著、世界思想社(2011.11)




H25年4月14日の日経の記事「科学の見直し、文化の視点で」では、下記の文章が引用されて紹介をされている。
「危険な技術を止めようというのは短絡的。今やるべきなのは多様な学問分野から叡智を結集し、科学技術のリスクを管理する方法を考えることだ」「合理主義が揺らぐ中で科学のありようが問われているだけではない。哲学もまたどうあるべきかを問われている」

更に、「哲学者は、認識のありようを考察するなかで、科学者同士のずれを調整する役目を担える」とも述べられている。これは正に、メタエンジニアリングの視点であり、メタエンジニアリングの役目でもあるように思う。
実際に読み始めてみると、「まえがき」の最後は次の文章で結ばれている。

学問と学問の間の接触点に入り込んで問題点を探し出す仕事を、昔は、大哲学者がすべての学問をすっぽりと包み込む体系を用意してその中で済ませてきたが、現代では、「すべての学問をすっぽりと包み込む体系」を作らずに、それぞれの学問の前提や歴史的な発展段階の違いや学者集団の特徴を考え、人間社会にとって重要な問題について国民的な合意形成が理性的に行われる条件を追求しなければならない。それが現代における哲学の使命である。」


とある。
 加藤氏は、いわゆる哲学の京都学派の重鎮で日本哲学会の委員長も務められた。私は、哲学の使命についてはコメントできないが、上記の「学問をすっぽりと包み込む」ことは、特に自然科学を基とする工学が、エンジニアリングを通じて現代社会におおくのものを提供する現状においては、むしろメタエンジニアリングの役目だと思う。つまり、哲学者の目とは異なる実社会に役に立つものを、考えて実践をしてきたエンジニアリングの目で見、かつ深く考える始めることが、メタエンジニアリングの最重要機能だと考えている。

メタエンジニアリングのすすめ(9) 第8話 持続的なInnovationにおけるメタエンジニアリングの「場」

2013年09月28日 09時10分45秒 | メタエンジニアリングのすすめ
第8話 持続的なInnovationにおけるメタエンジニアリングの「場」

メタエンジニアリングの一つの目的はイノベーションの持続性の確保である。しかし、現時点において、それは思考過程のみのことであって総合的なことではない。イノベーションの持続性とは、実際のものやことのデザイン(企画を含む広義での)に関するエンジニアリングを総合的に考えるもので、思考過程はその一部分にすぎない。技術経営的な側面から考えると、その条件は既に多くの著書で述べられている。
そこで、一般論ではなく、あくまでも設計技術者としての経験から追加項目とでもいうべきでものを考えてみる。

① 特定分野のプロの技術力を伝承する仕組みを維持すること
② 技術的なチャレンジ精神を途切れさせないこと、この為にはかなり高度な夢の共有
③ 集中が途切れて、分散を余儀なくされた期間の資金他のリソースの確保
④ いざという時のリーダーシップが発揮できる土壌を維持すること
などであろうか。

また、思考過程については、発想法に問題があるといわれているのだが、私は工学的な発想については日本人独特の左右脳の使い分けと優れたスイッチング機能から、むしろ世界レベルからはずば抜けて優れているように思える。このことは、40年間に亘る国債共同開発の経験から思い当たることが数々ある。従って、問題は全く別のところにあると思う。その一旦は、次の著書に著されていた。

「なぜ、日本企業は「グローバル化」でつまずくのか」ドミニク・テュルパン/高津 尚志著 日本経済新聞出版社発行



この著書は、スイスの国際的ビジネススクールであるIMD学長で、日本への留学経験を持つドミニク・テュルパン氏が、日本企業への提言をまとめたものである。評者 内山 悟志が、日経コンピュータ 2012年7月5日号で述べた書評には以下のようにある。

 「日本の驚異的な成長に学びたい」──。そんな思いを抱き1980年代に来日したテュルパン氏は、その後の日本の凋落ぶりも内と外から見てきた。IMDが毎年発表する世界競争力ランキングで、日本は1980年代半ばから1992年まで首位を保っていたが、最新の2011年調査では59カ国中26位まで順位を下げている。その過程で自信を失ったためか、多くの日本企業が中国やインド、ブラジルなど新興国への進出で立ち遅れたと指摘する。
 著者はこの凋落ぶりの原因を、過度な品質へのこだわりやモノづくり偏重による視野狭窄、地球規模での長期戦略の曖昧さなどにあると分析する。根源には異文化に対する日本人の理解力不足があり、打開するには真のグローバル人材の育成が急務だと警鐘を鳴らす。
 スイスのネスレや米GEなどのグローバル人材育成の先進事例とともに、既に中国やブラジルなど新興国の企業でも人材育成に多大な資金と労力を投じている事実を紹介している。
著者はこれらの事例を踏まえ、日本企業が取り組むべき人材育成策を次のようにまとめている。人事異動をもっと効果的に使う、幹部教育を手厚くする、外国人も人材育成の対象にする、英語とともにコミュニケーションの型を学ぶ、海外ビジネススクールを有効に活用する、の5点である。特に「人材育成に国籍の区別はない」との考え方には強く共感した。日本人だけを集めて研修したり、特定の日本人を海外に赴任させたりするだけでは、本当の意味で多様性は芽生えない。異文化を理解する力は、様々な国や地域の多様な人材と共に学び、切磋琢磨するなかで育まれるものだ。」


ここには、従来の個別のエンジニアリングに加えるべきメタエンジニアリング的な項目が示されている。即ち、エンジニアの視野を社会科学的な範囲に広げる必要性を示している。
① モノづくり偏重による視野狭窄
② 地球規模での長期戦略の曖昧
③ 異文化に対する日本人の理解力不足
などで、何れも「これらに関して、日本の技術者ないしは、技術の指導者の知識と見識が足りなかった」と云うことではないだろうか。
 私は、エンジニアリングの立場から、これらについてエンジニアリング脳を使って根本的に捉えなおすことがメタエンジニアリングであると考えている。そして、これら7項目(前出の3項目プラス後出の4項目)がイノベーションの持続に関して従来以上に研究を進めなければならないことだと考えている。

 著書のまえがきで著者はこの様に述べている。
「当時(1980から1990年代前半)、日本の企業の多くはもう海外から学ぶものは無いという態度が強く見受けられました。どの企業も自信に満ちあふれ、どこかしら傲慢な雰囲気も漂っていた。結果的に日本企業は、工場管理に「よい常識」を持ちこんで非ホワイトカラーのマネジメントには成功したものの、それ以上の成果を出すことはできませんでした。さらにもっと苦手なのがダイバーシティー(多様性)のマネジメントでした。いまだに男女平等とは言えず、マイノリティー(少数派)の採用や活用には消極的です。
(中略)東洋と西洋の間の難しい異文化マネジメントをも相互理解に努めることで乗り越えようとしています。中国は急速学んでおり、今後十年間で世界経済において確たる地位を占めるであろうことは言うまでもありません。」
 著者は、自分以外の他者や異文化に心を開くこと、加えて、共感性(Empathy)を養い、おもいやり(Sympathy)をもって他を尊重することが不可欠と断じています。一見当たり前のことのようですが、実際に日本のエンジニアは、業務の遂行にあたって、或いは新製品の開発に際してそのような心持を持っていたでしょうか、おおいに疑問です。この様なことから筆者は、日本語での「グローバル化」とか、「グローバル人材育成」といった表現に疑問を呈しています。安易にカタカナにせずに、正確に「全地球的」とか「全地球的人材」という表現だと、もっと広範囲な思考に至るのではと指摘をしています。その意味において、日本企業のグローバル化におけるつまずきの原因を以下のように挙げているのです。
① もはや競争優位ではない「高品質」にこだわり続けた
② 生態系の構築が肝心なのにモノしか見てこなかった
③ 地球規模の長期戦略が曖昧で、取り組みが遅れた
④ 生産現場以外のマネジメントがうまくできなかった

以上は、すべてがエンジニアリングとは言い難いが、エンジニアリングが深くかかわることと、従来の日本人のエンジニアリングの視野が狭く全地球的戦略に疎かったことが主要原因であり、メタエンジニアリングの領域の話が大きな位置を占めているように思えるのだが、いかがであろうか。

(蛇足)
日本では、国際化とグローバル化という二つの言葉の意味が、全く異なるにもかかわらず混用されている。例えば、ある製品をどこかへ輸出したり、どこから輸入したりするのは国際化の観点で、当該品の全世界での流通の現状と将来性の解析からスタートするのが、グローバル化と言えるのではないだろうか。
そのことから出発をしないと、戦略は立てられない。(その場考学半老人 妄言)


メタエンジニアリングのすすめ(8) 第7話 比較文明学から見えてくるメタエンジニアリングの「場」

2013年09月26日 12時56分01秒 | メタエンジニアリングのすすめ
第7話 比較文明学から見えてくるメタエンジニアリングの「場」

「近代世界のおける日本文明、比較文明学序説」梅棹忠夫著、中央公論新社 2000という著書がある。
国立民族学博物館で1982年から1998年まで開催された谷口国際シンポジウム文明学部門での梅棹忠夫氏の基調講演の内容が纏められているものだ。第10回のテーマは「技術の比較文明学」であり、その中で興味深い記述がいくつかあったので、メタエンジニアリングの研究の一部として考察を試みる。


 その前に、比較文明学について少し触れておこう。
梅棹は「比較文明学というような学問領域は、純粋に知的な興味の対象になり得ても、どのような意味でも、実用的な、あるいは、実際的なものにはならないであろう」と言い切っておられる。なんと工学と対照をなす領域ではないか。文明と文化の関係についての見かたは「時間的な前後関係をもつものと考えてよいのかどうか、すこし違った見かたをしています。(中略)文化というものは、その全システムとしての文明のなかに生きている人間の側における、価値の体系のことである。」としている。また、システム学とシステム工学の違いを、「システム工学は目的があるけれども、システム学は必ずしも目的を持っていない。「目的なきシステム」というものもあるのではないか」と記している。メタエンジニアリングは勿論目的を持つエンジニアリングであるが、その中に目的のないエンジニアリングを想定することが可能だと思い始めたところだったので、この言葉には深い印象が残った。どんなことになるのであろうか、興味が湧く。

 本論に戻る。従来の技術論の在りていに触れたあとで、「工学的な技術論では、原理や材料、性能の評価に重点が置かれております。現実の社会に生活している人びととの関係からとらえるという観点が抜けていたのではないでしょうか。」とある。技術者はそんなことは無いと否定するだろうが、確かに20世紀の技術の生産物にはそのようなものが多かったように思われる。一方で21世紀には入ってからの所謂イノベーションと評価されるものには、「現実の社会に生活している人びととの関係からとらえるという観点」が深く盛り込まれているのではないだろうか。逆の言い方をすれば、現実の社会に生活している人びととの関係からとらえていない新製は持続性に乏しいと云うことなのだろう。
 
続いて、日本の文明と技術に対する欧米の見かたを批判した後に、日本独特の事情についての評価が続く。そこには、工学者と異なる独特の見かたが存在する。
 現代日本はベンチャービジネスが不得意とされている。その為に色々な政策や方策がとられているのだが、彼の見かたは異なる。「日本の場合、19世紀前半までに小経営体がひじょうに発達していました。(中略)小経営体というのは藩だけではありません。旗本領、寺社領などもあります。ものすごい数です。それによって組織の運営というものがどういうものかということを200年以上にわたって経験してきた。」とある。当時の社会では同じような傾向はドイツに見られるが、その他の国々では顕著ではなかった。現代でも日本の中小企業は健在だが、江戸時期の様な地域の殖産興業にはなかなか結びつかない。これは経営論だけの問題ではなく、文化という視点から見ると、工学と技術の力が昔ほど旨く社会(特に地域社会)に及んでいないということではないだろうか。勿論、現在でも事例は多数あるのだが、それによって一国(今でいえば県だろうか)の財政が豊かになるほどのものは無いようである。
 また、総合技術についても、「日本の技術がうまく展開してきた背後には、総合技術の存在があったということも重要な要素ではないかと考えております。大仏建立や道路網の建設においても、総合技術がすすんでいたのではないかと考えます。」このような人文科学的な見かたからは、通常のイノベーション論とは全く異なった見かたが出てくる。メタエンジニアリングでの考え方に、大いに取り入れるべき方向性ではないだろうか。

 個人主義と集団主義についての見かたは、「欧米と日本では個人主義のありかたがちがうのだと考えています。(中略)欧米の個人主義は豆つぶをあつめたみたいなもの。豆と豆との間には空気しかない。日本の個人主義は粒と粒のあいだを柔軟に拘束するものがあり、全体がゲル状態になっているのではないか。個人と個人をむすびつける文化的、心理的な要素がひじょうにたくさんあるのです。」
この見かたはその通りだと思い当たるふしがあるのだが、必ずしも利点とは言い切れないと思う。論理的な議論を正しく進める為には、マイナスに働くこともある。

 技術の移転については、「部分的技術の導入はできます。しかし、全体の文明システムとして移転しようとおもったら、まずできないのではないでしょうか。」と断言されている。中国は、皇帝と官僚による非常に長い支配体制があり、インドのカーストと女性解放問題、韓国の両班組織の問題など、基本的な社会の伝統を較べて日本が有利であると結論している。「中国のひとは人間操縦術みたいなものにたいへん熱心です。それは中国文化全体をつらぬくひとつのプリンシプルであると思います。人倫の話です。日本は人倫のことはあまり興味を持っていないようです。物をどうするか、これが日本技術の根底にあるのではないかとおもいます。」
 技術の情報化についても示唆に富んでいる。比較文明学の見かたでは「差異化とか付加価値化とかいろいろな表現がありますが、それらをすべてひっくるめて「情報化」ということばでくくれるのではないでしょうか。いまや技術は必要を満足させるという話ではなくなっています。(中略)技術の芸術化、あるいは技術の自己目的化が始まっている。日本技術はそこへきております。」である。1990年代の初頭にすでにこの様に技術のゆく先を見極めておられたことには驚きを感じる。

 大分引用が多くなってしまったが、以上が比較文明学者の日本の技術についての見かただとすると、メタエンジニアリングが取り組むべきいくつかの問題が見えてくる。
① 「現実の社会に生活している人びととの関係からとらえるという観点」
② 「目的なきシステムというものからスタートをする」
③ 「技術の芸術化が始まっている」
④ 「技術の自己目的化が始まっている」
などのキーワードになると思う。
 
これらをメタエンジニアリング的に捉えるならば、次のようになるであろう。
① 「現実の社会に生活している人びととの関係からとらえるという観点」
⇒人文科学や社会心理学などの見かたを取り込み、これをエンジニアリング的論理性で解釈を進める。

② 「目的なきシステムというものからスタートをする」
⇒目的なきシステムは工学の新分野になり得るのか? 形而上学的な発想との関連が想定されるので、メタエンジニアリングの根本としての研究対象になると考える。

③ 「技術の芸術化が始まっている」
⇒人間国宝の工芸家は、芸術の側で優れた工学を取り入れている。その逆はまだ不十分なので、考える余地は大いにある。

④ 「技術の自己目的化が始まっている」
⇒様々な技術論の中には、技術のための技術論もある。手段の目的化が進んでいるのであろう。あくまでも、最終目的をただ一つの目的として追求せねばならない。

以上のように、比較文明学という視点から技術を見ると、新たな切り口を見つけることができる。このプロセスがメタエンジニアリングの一つの特徴となっている。現代の機械化文明は、多くの工学という文化が、その時々の社会の要請に従ってほど良く調和をして文明としての形態を作りだしている。しかし、一部の工学が自己目的化すると、その調和が破られることになり、文明の衰退が始まるとも考えられる。そのような考えに至ると、従来とは別の視点からもメタエンジニアリングの必要性が明確になってくる。

メタエンジニアリングのすすめ(7)第6話 科学と工学と技術を繋ぐ「場」

2013年09月18日 10時02分59秒 | メタエンジニアリングのすすめ
第6話 科学と工学と技術を繋ぐ「場」

メタエンジニアリングの場について、最近発行された3冊の書籍からの発想を試みる。福島の原発事故の直後に発行された本は、科学と工学と技術の関連の明確化、従来よりも広範囲の分野に思考範囲を広げる必要性の認識など、メタエンジニアリング的な視点からの記述が目立つ傾向にある。そこで次の3冊を選んだ。

① 「災害論―安全工学への疑問」加藤尚武著、世界思想社(2011.11)


 この本は、4月14日の日経の記事「科学の見直し、文化の視点で」で紹介されている。著者の加藤尚武氏は、原子力委員会専門委員として有名であるが、あの「ハイデガーの技術論」の著者・編集者であり、哲学的な見方の代表例として紹介されている。記事には「危険な技術を止めようというのは短絡的。今やるべきなのは多様な学問分野から叡智を結集し、科学技術のリスクを管理する方法を考えることだ」「合理主義が揺らぐ中で科学のありようが問われているだけではない。哲学もまたどうあるべきかを問われている」などが引用されている。哲学者は、認識のありようを考察するなかで、科学者同士のずれを調整する役目を担えるそうだが、それはメタエンジニアリングの役目でもある。
実際に読み始めてみると、「まえがき」の最後は次の文章で結ばれている。
「学問と学問の間の接触点に入り込んで問題点を探し出す仕事を、昔は、大哲学者がすべての学問をすっぽりと包み込む体系を用意してその中で済ませてきたが、現代では、「すべての学問をすっぽりと包み込む体系」を作らずに、それぞれの学問の前提や歴史的な発展段階の違いや学者集団の特徴を考え、人間社会にとって重要な問題について国民的な合意形成が理性的に行われる条件を追求しなければならない。それが現代における哲学の使命である。」とある。
 加藤氏は、いわゆる哲学の京都学派の重鎮で日本哲学会の委員長も務められた。私は、哲学の使命についてはコメントできないが、上記の「学問をすっぽりと包み込む」ことはやはり、メタエンジニアリングの役目だと思う。このことを、哲学者の目とは異なる実社会に役に立つものを考え、実践してきたエンジニアリングの目で見ることが、メタエンジニアリングの最重要機能だと考えている。

②「あらためて学問のすすめ」村上陽一郎著、河出書房新社(2011.12)



村上氏は、東大教養学部で科学史、科学哲学を収め、多くの大学で教授を務めた後、東大と国際基督教大の名誉教授で趣味の多様さで有名な方だ。第4章の「環境問題の難しさ」に興味をひかれる。やはり、「まえがき」の最後の言葉にはこの様にある。
「メッセージの主題は、世間の「通説」を簡単には受け入れず、ものごとをできるだけ色々な点から見ては、ということの「すすめ」を目指して書いておきます。それがどこまで成功しているか、は、読者のご判断にお任せします。」とある。これも、まことにメタエンジニアリング的な発想だと思う。

③「サステイナビリチー・サイエンスを拓く」大阪大学イノヴェーションセンター監修(2011.5)



 大阪大学が題名にある名前のCOEを2006-2010にわたり行った結果の纏め。イノヴェーションと特に環境問題についていくつかの論文が体系的に纏められている。メタエンジニアリングとの接点は、第5部の「オントロジー工学によるサステイナビリティー知識の構造化」に見られる。曰く、
「オントロジィーの重要な役割は、知識の背景にある暗黙的な情報を明示するという点にある。(以下略)」
又、終章の中では「社会のビジョン(マクロ)と、個々の科学技術シーズ(ミクロ)を効果的につなぎ合わせるための理論的・実践的研究、すなわちメゾ(中間)領域研究の開拓である。(中略)学術的に見ても、このメゾ領域を対象とした理論的研究は未開拓であり、ビジョンと科学技術シーズを有機的につなぐための学術領域を発展させることが求められるのである。」

 そのコンセプトは異なるが、目的とするところはメタエンジニアリングと同じであろう。


・メタエンジニアリングの定義について

かつてメタエンジニアリングは、「様々な顕在化した或いは潜在的な課題を抱える地球社会、及び各分野が個々にあるいは複合的に活動する科学・技術分野を俯瞰的にとらえ、個々の科学技術分野の追究・及融合、あるいは社会価値の創出ばかりでなく、地球社会において解決すべき課題の発見、そしてより的確な次の社会価値創出へとつながるプロセスを、動的且つスパイラルに推進していくエンジニアリングの概念」として定義された。しかし、「現代の地球社会が様々な顕在化した或いは潜在的な課題を抱える、」に至った過程を考えると、この前ばかりに注目する姿勢だけでは根本的とはいえないように思えてくる。即ち、上記の定義だけでは顕在化した或いは潜在的な課題が増えつづけてしまう可能性が否定できない。
根本的ということは、事前に「将来の地球社会が様々な顕在化した或いは潜在的な課題を抱えることを防止する」という機能が必要である。つまり、課題を発見してそれを解決すのではなく、予防をすることがより根本的であると云えよう。これは、品質管理の歴史において、検査による管理から、その上流の原因を排除する工程管理に移行したことと同じ道筋である。そしてなにより、この追加の定義は当初の提言にある「社会課題と科学技術の上位概念から社会と技術の根本的な関係を根源的に捉え直す」ということと全く矛盾しない。
この様に考えた上で、もう一度定義を見直してみよう。「地球社会において解決すべき課題の発見、そしてより的確な次の社会価値創出へとつながるプロセス」における「解決すべき課題」の中に、予防という概念を込めれば、そのままでも良いという結論も導くこともできるであろう。

そこで、次のような新たな定義を試みる。
「様々な顕在化した或いは潜在的な課題を抱える地球社会、及び各分野が個々にあるいは複合的に活動する科学・技術分野を俯瞰的にとらえ、動的且つスパイラルに推進していくエンジニアリングの概念の基に、次の二つの方向を目指す。
① 個々の科学技術分野の追究・及融合、あるいは社会価値の創出ばかりでなく、地球社会において解決すべき課題の発見、そしてより的確な次の社会価値創出へとつながるプロセスの確立。
② 社会課題と科学技術の上位概念から社会と技術の根本的な関係を根源的に捉え直すことを通じて、将来の地球社会が様々な顕在化した或いは潜在的な課題を抱えることを防止する。」

メタエンジニアリングの概念は未だ生まれて間が無いので、定義というよりは目指すべき目的と方向とするべきであろう。





メタエンジニアリングのすすめ(6)第5話 メタエンジニアリングの主機能

2013年09月17日 08時33分03秒 | メタエンジニアリングのすすめ
第5話 メタエンジニアリングの主機能

 日本工学アカデミーが2009年11月に出した提言によれば、
「社会課題と科学技術の上位概念から社会と技術の根本的な関係を根源的に捉え直す広義のエンジニアリング」を『根本的エンジニアリング(英語では、上位概念であることを強調して Meta Engineering と表現)』と名付ける、である。従ってその主機能は、「俯瞰的視点からの潜在的社会課題の発掘と科学技術の結合あるいは収束を根源的に捉え直す」との命題に答えるための広義のエンジニアリングの実践ということになる。

 この主機能に沿って様々な機能を列挙してみよう。「科学技術の上位概念」とは何であろうか。「俯瞰的視点」とは、「潜在的社会課題の発掘と科学技術の結合」とは、「科学技術の収束」とはなにかなどの中味を推測するところから始めてみる。

・「科学技術の上位概念」とは、

 科学技術という4文字熟語は、日本語独特の表現のように思う。科学と技術の連続性を強調するためだろうか。だとするならば、その目的は人の役に立つ技術の創造であろう。すると社会科学と人文科学は、科学技術の上位概念とも考えることができる。特に、ことエンジニア(ここでは、工学者と技術者の総称)にとっては、その成果が活かされる場であるとして、上位概念にあたる場合が多いように思う。また、その中にあって、特に社会学、生理学、比較文明論などは上位概念として捉えるべきであろう。更にその上位概念としては、哲学と形而上学が挙げられる。特に、哲学は今後エンジニアがイノベーションなど全世界の文明に影響を及ぼす可能性を秘めた新たなもの・ことを考える場合には、もっとも重要な上位概念にあたると考えられる。

(蛇足)
科学技術という熟語に関しては、その記述に関して様々な意見が見受けられる。科学と技術とか、科学・技術とかがその例となっている。私は、現代日本におけるイノベーションの停滞の一つの原因が、この熟語の定義の曖昧さにあると考える。つまり、科学の範疇に留まって、技術の実践に至っていないものまでも科学技術と表現をすることが多いようである。
福島原発の事故原因やその後の処理についても、科学、科学者といった言葉が頻繁に登場する。しかし、現実の問題を引き起こしたのも、これからの事後処理を行うのも技術の力が圧倒的な重要度を占めるはずである。科学なのか、技術なのか、実践の最後まで責任を持つ科学技術なのかを明確にする必要性を強く感じている。

・「俯瞰的視点」とは、
 
科学も技術も複雑化が進む中で、もの・ことを纏める為には必然的に俯瞰的な視点が必要になってきた。しかし、世の中の諸事情は単に俯瞰的では済まされなくなった。最大の理由は変化のスピードだと考える。俯瞰的な見方から出発しても、そこに留まる限りに置いて、これからの変化のスピードとグローバル競争には勝つことができない。俯瞰的の次のステップが重要になる。それが、融合・統合といった形になる。
俯瞰的視点については、科学技術振興機構の研究開発戦略センターが2010年に発行した「研究開発戦略の方法論」のなかで詳しく述べられている。具体的には、「領域俯瞰図」として一章を設けて説明されている。しかし、その章でも述べられているように、これは全てを包含する俯瞰図ではなく、JSTが目下研究対象としている学問分野であるやに見受けられる。メタエンジニアリングを語る場合には、前出の上位概念を含むさらに広範囲の俯瞰であるべきであろう。


・「潜在的社会課題の発掘と科学技術の結合」とは、

昨今の世の中の繁忙の中で、潜在的社会課題の発掘はさして難しいことではない。そのことは、専門分野の常識に拘らずに、俯瞰的な視点に立てば、おのずととめどもなく現れてくる。問題は、課題の選択方法と科学技術の結合にある。この場合の科学は自然科学だけではない。社会科学も人文科学も同じ土俵にあると考えるべきであろう。この意味は、次に示されるMECIサイクルの①と②のプロセスが全てを表している。

・「科学技術の収束」とは 
かつての社会は、新たな機能を付加されたこと・ものの技術の収束を限られた専門分野の中で判断をしてきたと思う。メタエンジニアリングにおける収束は、あくまでも俯瞰的な視点での収束であるべきと考える。
これも、MECIサイクル図の③のプロセスで示されている。つまり、次のステップである「社会価値の創出と実装」に連続して進まなければ、その価値は認められない。


・メタエンジニアリングの諸機能(順不同)

(1)個々の科学技術分野の追究及び融合、あるいは社会価値の創出
(2)地球社会において解決すべき課題の発見
(3)より的確な次の社会価値創出へとつながるプロセスを、動的かつスパイラルに推進してゆく
(4)科学技術分野を超えた上位概念の追究及び融合、その結果としてのより正しい社会価値の創出
(5)社会と技術の根本的な関係の現状を根源的に捉え直す
(6)様々な公害の発生や地球環境の劣化、更には文明の衰退を防止する

 それでは、これらの機能を充分に果たすために必要不可欠な準備とはどのようなものであろうか。順不同で列挙する。

(1)エンジニア自身のより高度な責任感の認識
(2)エンジニア自身の認識過程における、社会学、生理学、比較文明論などの上位概念の導入
(3)思考過程の最終段階における、哲学(将来にわたって普遍的に正しいと云えるのかどうか)に基づく推敲
(4)異文化への理解と自らの文化に対する より合理的な判断

以上の議論は、やや抽象的であるというご批判は甘んじて受けなければならない。抽象的な事柄をはっきりと認識したうえで戦略を練り、具体的な戦術を展開してゆかなければならない。
その場考学半老人 妄言

メタエンジニアリングのすすめ(5) 第4話 工学の上位概念としての「場」

2013年09月16日 08時01分25秒 | メタエンジニアリングのすすめ
第4話 工学の上位概念としての「場」

工学(Engineering)は、従来「社会にとって必要とされるものをつくるためのもの」と考えられてきた。Wikipediaには次のようにある。

概要 日本の国立8大学の工学部を中心とした「工学における教育プログラムに関する検討委員会」の文書(1998年)では、次のように定義されている。工学とは数学と自然科学を基礎とし、ときには人文社会科学の知見を用いて、公共の安全健康、福祉のために有用な事物や快適な環境を構築することを目的とする学問である。[3]工学は大半の分野で、理学の分野である数学・物理学・化学等々を基礎としているが、工学と理学の相違点は、ある現象を目の前にしたとき、理学は「自然界(の現象)は(現状)どうなっているのか」や「なぜそのようになるのか」という、既に存在している状態の理解を追求するのに対して、工学は「どうしたら、(望ましくて)未だ存在しない状態やモノを実現できるか」を追及する点である[4]。あるいは「どうしたら目指す成果に結び付けられるか」という、人間・社会で利用されること、という合目的性を追求する点である、とも言える。

Engineeringのもう一つの意味である技術は、工学の成果を用いて様々な社会の要求に答えて現代社会を作り上げた。即ち、近代工業文明である。一方で、約2世紀間にわたるこの文明の発展により、地球環境問題をはじめとする多くの問題が生じてしまった。現代では、世の中の全ての人間の活動は工学の成果なしには成り立たない。政治、経済、文化、宗教、生活等、すべてエンジニアリングの成果を用いて成り立ち、かつ持続的発展の可能性を保っていると云うことができる。そして、遂には地球の未来にまで影響を及ぼすことが明らかとなった。
 このことは、第2次世界大戦の前後にドイツの哲学者のハイデッガーが「技術への問い」という論文の中で述べている。近い将来に技術が世界の全ての人間活動のもとになるであろうとの説であった。つまり、エンジニアリングというものが、社会の一部であったものから、世界全体を占めることになってしまったわけである。 

そのような状態下で、エンジニアリングは従来の考え方だけで良いのであろうか。つまり、そのときどきの社会が求めるものを実現させるものを、単に作り続けることの危険性の増大をどのように排除してゆくかである。極端な言い方をすれば、社会がエンジニアリングの内にある、と考えた場合のエンジニアリングの定義の問題が生じる。

 もう一つの大きな問題は、グローバル化による変化のスピードの問題だ。現在のイノベーションは、iPadなどに見られる如くに即日中に全世界に広がってしまう。もし、従来の数々の事例にあるごとくに、公害や副作用があった場合には、その影響はもはや限られた地域に留まることはない。したがって、この様な状態は、エンジニアリングの増長ばかりではなく、責任の重大さが以前にまして数十倍、数百倍になったことを示している。メタエンジニアリングにおいては、まずこのことの認識が必要であろう。

 このことを、古代ギリシアにあてはめてみた。ソクラテスやプラトンが社会現象を色々な見方で分析をした結果が、アリストテレスに引き継がれた。彼はその先を突き詰め、倫理的な考えを経て、全ての根源を考える学問としての形而上学を始めた。当時の自然学(Phisica)の元を解明するためのものとして、それはMeta-Phisicaと命名された。この形而上学は中世に至るまで学問と哲学の分野で進展をしたが、現実世界とのかい離が大きく近代社会では重要視されなくなってしまった。しかし、現代社会は再び根本に戻らなければならない時を迎えているのではないだろうか。


 この様な経緯から私は、これからのエンジニアリングは、従来のEngineeringと並行して、Meta-Engineeringという考え方が新たに必要であると考える。
 
・現代のエンジニアリングの流れ

社団法人日本工学アカデミーの政策委員会から、2009年11月26日に出された「我が国が重視すべき科学技術のあり方に関する提言~ 根本的エンジニアリングの提唱 ~」という「提言」では、「社会課題と科学技術の上位概念から社会と技術の根本的な関係を根源的に捉え直す広義のエンジニアリング」を『根本的エンジニアリング(英語では、上位概念であることを強調して Meta Engineering と表現)』と名付ける、としている。

この提言に基づいて発足したアカデミー内の部会では、メタエンジニアリングの実装を目的とした議論が続けられているが、私はその内容がやや狭い範囲に留まっているという印象を持っている。すなわち、メタエンジニアリングの主機能を新たなイノベーションの発見と持続にのみ求め過ぎているように思われる。それ自身は必要かつ、特に現在の我が国にとって大切なことなのだが、メタエンジニアリングという言葉はもっと広義の新たなエンジニアリングでなければならない。私は、提言にある「上位概念から社会と技術の根本的な関係を根源的に捉え直す広義のエンジニアリング」という部分を強調してゆきたいと考えている。

19世紀から盛んになった現代の工業化社会の文明は、20世紀終盤から一気に情報化社会、更には知識社会へと変貌をしている。知識社会文明という言葉はまだ一般的ではないが、早晩21世紀の文明の座を得るであろう。
その中にあって、現代の工業化社会文明の最も基礎的な部分を担ってきたEngineering(工学と技術)は、従来のままで良いはずはない。知識社会文明に対応した新たなEngineeringが必要となるであろう。それをMeta- Engineeringと定義してみようと思う。

この発想は、数年前に聞いたある先進的な学会での高名なパネリストの発言に端を発している。すなわち「私は自然科学者なので、社会科学者のおっしゃっている言葉が良く理解できません」というものだ。工学の多くは自然科学に依存している。そして、現代の全ての人間活動はエンジニアリングの生産物の上に成り立っているといっても過言ではないであろう。しかし、近年のグローバル化の急激な進展においては、エンジニアリングの特に広義の設計(デザインというべきか)の結果は、社会科学的、人文科学的かつ哲学的にも正しいものでなければならない。そうでなければ、人間社会の持続性が危ぶまれる事態になりつつある。過去における様々なEngineering Schemeが引き起こした、副作用や公害や更には地球の持続性を脅かすような経験は、もはやこれからのEngineeringには許されない場面がより多く存在することになるであろう。そして、知識社会文明における新たなエンジニアリングとしてのMeta- Engineeringは、先ずは、現在の社会に存在する様々なイノベーションの結果をMeta- Engineeringの眼で見なおしてみることから始めてはどうであろうか。

・メタエンジニアリング導入後の流れ


例えば、便利さを求めてひたすらデジタル化を進めることにより、連続的(つまり、アナログ的)にものごとを捉えて深く考える習慣の欠落、日本の品質という名のもとに、ひたすら品質の完全性を求める姿勢、競争に勝つための技術的な進化の過程におけるWhat優先の弊害としてのWhyの伝承不足などは、「上位概念から社会と技術の根本的な関係を根源的に捉え直す広義のエンジニアリング」という見地から観察をすると、考察の余地が身の回りのそこここにあるように考える。

これらの例はごく卑近なものなのだが、技術の上位概念を人文科学、社会科学、心理学、生態学、さらには哲学にまで広げると、メタエンジニアリングに付託すべき新たな課題は現代社会に無数に存在しているのであろう。



メタエンジニアリングのすすめ(4) 第3話 現代社会における科学とエンジニアリングの大問題

2013年09月03日 14時36分16秒 | メタエンジニアリングのすすめ
第3話 現代社会における科学とエンジニアリングの大問題

 一般の人からの科学に対する信頼が急速に低下している。福島第1原発の事故とその対応のまずさがそのことに油を注いでしまった。「科学技術の敗北」などという記事すら散見される。もはや、科学者の言動をそのまま信じる人は皆無であり、社会全体としてこの傾向は当分の間続いてしまうであろう。

 その理由は大きく二つに分けられる。第1は、科学と疑似科学が混在していること。第2は工学の分野での科学の具現化のそこここに誤りが存在すること。詳細は別途述べることにするが、インターネットの普及による情報の混乱と、技術の進歩の急速化が、従来さして問題にならなかったこの二つの問題を顕在化させてしまった。特に複雑な技術の進歩の急速化が現代人の脳の進化を大幅に超えていることは、生物学的には種の絶滅への方向を示しているとも云われ始めている。



 この問題を根本的かつ持続的に解決するために、科学と工学 (即ち、エンジニアリング)の間に、メタエンジニアリング(根本的エンジニアリングとも云われている)という新たな学問分野を置いてみることを試みてみようと考えている。科学の成果は自然界に存在するあらゆる現象なりものごとを論理的かつ合理的に説明することであり、それ自身に悪は存在しない。なぜならば、この宇宙は127億年の歴史があり、この地球は46億年の歴史がある。その間に全体が最適になるように変化してきた結果が、現在なのだから。従って、純粋に正しい科学を信頼しないことは、明らかに不合理なことに思える。つまり、科学への信頼性の欠如は、正しくない科学を科学と信じてしまうか、科学の使い方(即ち工学)に誤りがあるかのいずれかであろう。その二つの事柄を、より明確にして間違えを正す方法を考えてゆくことに、新たなエンジニアリングを適用する試みが、メタエンジニアリングの狙いである。なぜエンジニアリングという言葉に固執するかと云うと、産業革命に始まる現代の工業化文明下では、かのドイツの哲学者ハイデッガーが明言したように、エンジニアリングが全てを凌駕する時代が続いているからである。知的社会の到来と言われているが、当分の間はエンジニアリングが知的社会においてもその座を奪われることは無いであろう。

 更に欲張ってもう一つ「科学・メタエンジニアリング・工学」というテーマでメタエンジニアリングの主機能を提案しようと思う。それは、現代の工学分野に関する分類と纏め方についての新しい考え方である。
 工学は約2世紀に亘って様々な分野での専門化が急速に進んだ。そして、その細分化の弊害が顕著になり、境界領域とか俯瞰的統合化や融合・連携など色々な工夫が実際に試まれ始めている。しかし、工学の基本が「人の役に立つものことを、広い意味で設計すること」とする限りにおいて、この傾向には聊か疑問を感じてしまう。それは、私が長年にわたって航空機用エンジンの国際共同の設計開発の現場で色々な変化を見て来たからかもしれない。
 
世の中のもの作りの産業界は、随分前から技術指向(すなわちシーズ・オリエント)から顧客志向(ニーズ・オリエント)に急速に変化をした。もはや懸命な新技術の研究によるシーズ・オリエントで一時をリードをしても、最終的にはニーズ・オリエントを徹底する企業に負けてしまうという事例には事欠かない状態にあると云えるであろう。
 この様な見方で工学の学問分野をみると、依然としてシーズ・オリエントに固執しているように見えてしまう。そこで、メタエンジニアリングの機能との関連が出てくる。
 メタエンジニアリングは、工学的な発想や創造を従来以上の範囲に広げてゆこうという思想である。人⇒人間⇒文明・文化⇒哲学⇒人文科学・社会科学⇒自然科学⇒工学⇒技術という流れの中で、現代のエンジニアリングは、末端の3つのステップに集中して進化を遂げてきた。つまり、自然科学⇒工学⇒技術という流れである。しかし、このことが多くの公害や環境異変をもたらす結果となってしまった。好むと好まざるとによらずに、この傾向はグローバル競争時代にはますます激しくなることが予測されている。そこで、それを正す一つ方法として考えられるのが、エンジニアリング自身の思考範囲を「文明・文化⇒哲学⇒人文科学・社会科学」という上流まで遡らせるという考え方である。
 つまり、工学の価値の原点を科学分野から直接に求めるのではなく、「文明・文化⇒哲学⇒人文科学・社会科学」という場に置いて、そこから生じる価値を上位に置いて括りなおしてみてはいかがなものであろうか。
 例えば、幸福度・安心度・環境の向上・文明の進化といった具合である。この価値は、便利とか安いとか簡単にとか、より合理的にといったものとは異なり「文明・文化⇒哲学⇒人文科学・社会科学」という場から生じるものでなければならない。工学は現状の延長上にあるとして、科学と工学の間に思考の場を持つ新しい工学の考え方として「メタエンジニアリング」の主機能を定義する試みを、第2の狙いとしてみようと思う。
 このことは、例えばここ半世紀に亘って色々な視点から検討が行われている地球環境問題を例にとると、より明らかになるのだが、詳細は別の話に譲る。更に、大きく考えると、優れた文化の文明化といった命題が見えてくる。文化は本来固有のものであり、文明の視点から見ると不合理な要素が多々存在する。しかし、優れた文化は人類共通の貴重な資産である。そこで、すぐれた文化を文明化することにより、より好ましい持続的社会を構築してゆくための広義のエンジニアリングとしての機能を考えてみようと思う。
この問題は、一見社会学のテーマとも思われるのだが、かのハイデッガーの言葉の通り、現代の技術社会においては、エンジニアリングがその具体化を果たす機能を有すると考えられるのではないだろうか。

 聊かドンキホーテ的な発想なのだが、数えてみると今日は私が産まれてから24637日目である。つまり、後1年足らずで目標とする人生3万日に対して5000日を切ることになる。残りの期間にかける一つの夢として、この問題を追いかけてみることにした。