生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

メタエンジニアリングのすすめ(11) 第10話 真正科学と疑似科学とエンジニアリングの関係

2014年02月27日 16時22分08秒 | メタエンジニアリングのすすめ
第10話 真正科学と疑似科学とエンジニアリングの関係

第1節 現代の疑似科学とは何か


第3話の冒頭でこのように書いた。一般の人からの科学に対する信頼が急速に低下している。福島第1原発の事故とその対応のまずさがそのことに油を注いでしまった。「科学技術の敗北」などという記事すら散見される。もはや、科学者の言動をそのまま信じる人は皆無であり、社会全体としてこの傾向は当分の間続いてしまうであろう。
 その理由は大きく二つに分けられる。第1は、科学と疑似科学が混在していること。第2は工学の分野での科学の具現化のそこここに誤りが存在すること。詳細は別途述べることにするが、インターネットの普及による情報の混乱と、技術の進歩の急速化が、従来さして問題にならなかったこの二つの問題を顕在化させてしまった。特に複雑な技術の進歩の急速化が現代人の脳の進化を大幅に超えていることは、生物学的には種の絶滅への方向を示しているとも云われ始めている。

 このような視点から、現代科学と現代工学の実社会への適用の最前線であるエンジニアリングについて、より根本的なことを考える分野として、メタエンジニアリングを始めた。このことは、云わば現代の形而上学とも云えるもので、その英語名であるMeta-PhysicsをもじったMeta-Engineeringとも云えるわけである。今回は、メタエンジニアリングの立場からもう一度現代の科学の有りようをみなおして、エンジニアリングとの関係を考えてみた。

「疑似科学入門」岩波新書1131,池内 了著(2008)という著書は、第3話でも紹介したが、お浚いをしてみよう。
著者は「はじめに」の中で、情報化時代になって、かえって世の中の考え方や受け取り方が一様化しつつあると判じている。情報の送り手と受け手の非対称性と述べているが、要は送り手にとって好都合な情報が、受け手側では自分の頭で考えることを放棄して、鵜呑みにする傾向がみられるという訳である。そこで疑似科学」に対する非合理性の認識が重要であるとして、それについて論理的な思考を試みている。


 池内氏は独特の方法で疑似科学を3種類に分けている。
第1種疑似科学は、「人間の心理(願望)につけ込み、科学的根拠のない言説によって人に暗示をあたえるもの」で実例としては、占い系に属する様々なものや超能力を挙げている。
第2種疑似科学は、「科学を援用・乱用・誤用・悪用したもので、科学的装いをしていながらその実体がないもの」で実例としては、永久機関やある種の健康食品、確率や統計を都合よく示して因果関係を特定する方法などを挙げている。
第3種疑似科学は、「複雑系であるがゆえに科学的に証明しづらい問題について、真の原因の所在をあいまいにする言説で、疑似科学と真正科学のグレイゾーンに属するもの」で実例としては、環境問題や電磁波公害、遺伝子組換え作物などを挙げている。つまり、科学的にはっきりと結論が下せないのだから、一方的にシロかクロに決めつけてしまうと疑似科学に転落してしまうものを指している。私は、この第3種疑似科学が現代の情報化社会の環境と相まって、結果として科学不信の傾向が強まっているように考えている。

しかし、メタエンジニアリングで考えると,第4種が現れるのである。それは、疑似科学とは云えないのだが、果たして「真正科学」と云われている現代科学は、本当に真正なのだろうかと云った、疑問である。このことに関しては、The Essence of Engineering and Meta-Engineering: A Work in Progress、Nagib Callaos (2010)という論文が手掛かりを与えてくれるのだが、そのことについては,第2節で紹介をする。

 私がこの本を読んで先ず感じたことは、これは科学だけの話ではなくて、技術(エンジニアリング)の問題が間に存在するべきであるということだった。冒頭に述べたように、科学それ自身は自然界の現象を論理的に説明するもののであり、そのことを人間社会に反映させるには、何らかの技術が介在しなければ成り立たない。つまり、社会に適用する際のエンジニアリングに何らかの齟齬があるのではないかと云うことである。そこで、メタエンジニアリングの登場となるわけである。


第2節 メタエンジニアリングと疑似科学、あるいは真正科学について

 メタエンジニアリングの目的の一つは、Meta-Engineeringの語が示すとおりに、エンジニアリングの根本を形而上学的に考えることになる。少なくとも私は、そのように考えている。

 現代は、科学不信の時代と云われている。そして、その一般的な感覚は科学者が否定すればするほど、ますます広がりを見せているように感じられる。最近の事例では、原子力発電の近い将来の依存度に関する世論だ。なにがなんでも、ゼロ%が良いとする意見が、数としては圧倒的に多い。ある調査では70%を超えるという。原因は、福島原発の事故当時に適切な判断を下せなかったためとも云われているが、それだけではない。地震予知(私は、予知と云う言葉は使うべきではなく、あくまでも予測とか予想と云うべきと思うのだが)の曖昧さに加えて、天気予報は相変わらずに外れることが多いし、地球温暖化の真の原因の議論も決着が見えない。これらの根本的な原因は、何であろうか。

 私は、その根本を科学と技術の基本機能の不徹底さに求める。つまり、サイエンスとエンジニアリングの違いと役割とが混乱しているのだ。例えば、原発が予想外の被害を受けたときに、まず緊急対策を考えて実行するのは、科学ではなくエンジニアリングであろう。何故ならば、現代の全てのものはエンジニアリングによって、その機能を果たしているからである。科学は個別分野ごとの真実であり、総合判断はできない。何故、科学に総合判断をゆだねるのかが、理解できない。
 もう一つの問題は、日本独特の「科学技術」という言葉にある。科学と技術を直結する表現としては、いかにも日本人好みなのだが、欧米人は合理的だと理解してくれているのだろうか。原発問題に関しても、科学技術の立場からの発言は、圧倒的に科学者、つまりアカデミアからのものである。しかし、彼らが末端のエンジニアリングに精通しているとは考えられない。そして、想定外の問題に直面したときに、最も大切なことは、末端のエンジニアリングであることは、間違えないのではないだろうか。

ここで、先に紹介した論文に戻ることにする。全文は36ページに亘るので、全てを紹介できないが第1頁のみを示す。


http://www.iiis.org/nagib-callaos/engineering-and-meta-engineering/engineering-and-metaengineeringpdf  
この中で彼は、大略次のことを述べようとしている。(以下は、「 」内で筆者が訳した文章を記する)

「私たちは、科学とエンジニアリングとを区別し、重要な側面で互いに対向していることを示す。
この対向は正反対でだが、両立しないものではない。(中略)これら2つの統合的な視点は、エンジニアリングの役割を科学と産業の「サイバネティック架け橋」として、更には社会との懸け橋であると示す。」


はじめの「Motive and Purpose」では、現代の基本的な問題として、多くの発表例を挙げている。そのうちから二つを紹介する。

「王立工学アカデミーのフェローのSir.ロバート•マルパス( 2000 )によると、「いわゆる新経済はエンジニアリングのプロセスを通じて形成され、かつ形成され続けてきた。エンジニアリングが社会と経済に浸透することが明らかになり、エンジニアリングが世界を変える上で重要な役割を持っている、しかし、エンジニアリングは、それによって変更されている世界に適応して変わりつつあるのだろうか?」

「ミシガン大学の名誉会長のジェームズ•ドゥーダーシュタット( 2008 )は、ミレニアム•プロジェクトに関連した報告書の中で、「グローバルな知識経済のニーズはengineeringの劇的な変化をもたらす。単純に習得されたscienceやTechnologyの分野よりもはるかに広範なスキルを必要とする。ここ数年の間に連邦国家のアカデミー、政府機関、経済団体、および専門学会では、多くの研究がおこなわれて、それらは、急速に変化する世界における21世紀の国家のニーズとして、Engineering practice, research, educationにおけるnew paradigmsの必要性を示唆している。」

などである。これらの現状認識がMeta-Engineeringを考える出発点であることは、筆者らと同じである。

 次に、“know-that” と “knowhow”についての多くの論文が引用されている。スタートのアリストテレスのニコマコス倫理学では、エピステーメ(ライルの表現では、theoretical knowledge; knowing-what)とテクネ(ライルの表現ではcraft or practical knowledge; know-how)である。これは、次の文章に要訳される。

「Maplas (2000 )は 、「エンジニアリングは2つのコンポーネントを有すると述べている。つまり、engineering knowledge, the ‘know what’, と engineering process, the ‘know how’である。エンジニアリングプロセスの教育と認識は、学界とかEngineering Institutionsで形成されるものではない。」

次にEngineering & Scienceの章を設けて、その関係と違いを明らかにしている。

「マッカーシー( 2006 )は、科学とエンジニアリングの区別の1つは、科学は、真の理論を構築することを目指しているが、エンジニアリングは、働きのあるものをつくりだすことを目標としている、とした。それぞれの分野は、異なる目的を持っている。科学は、世界を理解することを目的とし、一方、エンジニアリングは、 それを変更することを目的とする。」
「デイビス(1998)は、「テクノロジーは私たちのパンを焼く、科学はそれを理解する助けになる。科学とエンジニアリングは、お互いを補完するが、異なる目的を持っており、全く同じ種類の知識を使用しているわけではない。科学の論理は“what-is” の論理であり、エンジニアリングの論理は“what-might-be” または、“what-is-possible”の論理である。」
「科学は、“what-already-exists”を指向し決定するし、エンジニアリングは、“what-is-not-existent-yet”なものを指向する。真実は科学の目的であり、人間の利益を発生させる便利なものを生産ことが、エンジニアリングの真の姿である。」

などである。そして、結論としては次のような言葉が加えられている。

「科学とエンジニアリングは互いに依存しており、特にビジネス•プロセス•スキルに対して、知識と経験を便利なものに変換してくれます。したがって、一緒に、より緊密に協力する必要がある。(マルパス、2000)技術革新においては、科学、エンジニアリングおよびビジネス•プロセス•スキルが相乗的に組み合わされて、科学的知識を社会に役立つ製品やサービス、あるいは技術革新に変換する。」

 そして、いよいよ真正科学の問題が登場する。

「科学は知的にエンジニアリングよりも優れたものではありません。同時に、エンジニアリングは科学に対して、実践的またはpraxeologically に「優れた」ものでもありません。その観点から、マッカーシー( 2006 )は、エンジニアリングが科学が不足している確実性を提供し得ることを示唆している。」
「科学史は、科学的理論が常に現在に至るまで、新しい理論によって否定されていることを証明している。ポパーは彼の科学の哲学と「反証真実」と呼ばれてきたものを基にして、「科学的なものは、それが将来的には改ざんされる可能性がある限りにおいて科学的である」としている。つまり、scientific truth is a falsifiable truthです。ポパーの「反証主義」は通常の見かたを逆転させるのですが、「蓄積された経験は、科学的な仮説につながるが、自由に推測された仮説が経験により試されている」としている。「伝統的な確実性の意味での知識、
あるいは現代的な感覚での正当化された信じるべきものは、手に入ることはない」とした。(ジャーヴィー、 1998)
ポッパーは、これを「悲観誘導またはメタ誘導“Pessimistic induction or Meta-Induction.”」と命名することにより大いに貢献した。」


「ピエール•モーリスマリーデュエム( フランスの物理学者、数学者であり哲学者、1914 ) 、およびクワイン(最も影響力のある論理学者であり哲学者、1951 ) は、「科学は真実を明らかにするという考えに深刻な歪みを示した 」 (リプトン、 2005 )「科学的真実に対する議論は、悲観的な序論であり、その証拠は
科学の歴史から示唆されている。」「事実は、科学理論には賞味期限があることを示している。科学の歴史は理論の墓場であり、ある期間は経験的な成功だが、時がたてば偽と知られてしまう。the crystalline spheres, phlogiston, caloric, the ether and their ilkとその同類は、今は全て存在しないことが分っている。科学は真実のための良い実績を持っていないが、単純な経験的一般化のための基礎を提供していると云える。大げさに言うと、過去の全ての理論は偽であるとも云える。従って、現在および将来のすべての理論はfalseとなる可能性が高い。」(リプトン、 2005)」


「マッカーシー( 2006 )は、「科学的真実に関してのこの不確実性に直面して、エンジニアリングプロセスとその成果が、確実性を達成するための代替手段となっている。」彼女は「哲学者がいくつかの理論にのみ焦点を当てるのではなく、代わりに応用科学とエンジニアリングの双方に注意を向ければ、知識の進歩[と確実性]についてはかなり異なる結論が得られたであろうと断言した。」

などである。聊か我田引水になってしまうが、確かに科学は全て真正であるとは云えないことは事実であろう。
そして、次の記述に繋がってゆく。

「科学と技術活動が相互に関連していると結論出来るであろう。それらは、より包括的な全体として統合される。科学が「 know-that 」を提供し、エンジニアリングの実践はその一つを必要と考えてプロセスや技術を産み、それが科学の進歩や、科学理論の認識論的立場に関しての哲学的な反映を提供する。このような観点によると、科学と技術活動が関連するかもしれない。(正と負)即ち、フィードバックとフィードフォワードループにより、全体として相互シナジーによりその部分、部分の合計よりも大きいものになるであろう。」

「暗黙知/個人的な知識とKnow-How/technêがエンジニアリング活動に必要な条件であることなので、実践や実習も必要条件であることは明らかである。これらは、ノウハウやプロセスの知識を得たり、新たなテクネを生成したり、技術的または人工的な物事、すなわち成果物を創造するための暗黙知/個人的な知識を獲得するために必要である。」

 このような考えを通過すると、現実社会における現代科学に対する信頼性の喪失の回復の為には、メタエンジニアリングが必要との結論に至ってしまうのである。