第9話 科学と哲学の関係とメタエンジニアリング
様々な科学と工学がとてつもないスピードで進化してゆく中で、昨今の社会情勢の変化に対して、哲学者からの科学的な発言がめだつようになってきたように思う。一方で、科学者や、特に工学者、中でも最も社会情勢への影響度が高いと思われるエンジニアからの哲学への発信は皆無である。
メタエンジニアリングの中でこの命題を考え、過去の関連図書をあたってみた。そこで出会ったのが、「そもそも、哲学と科学とはお互いに助け合うべきである。」との言葉だった。著者は、京都大学総合人間学部教授の有福孝岳さん、哲学の京都学派のおひとりであろう、ハイデッガーやカントの有名な論文の訳本を出版されている。
「哲学の立場」晃洋書房(2002)には、多くの示唆に富む記述が見受けられる。そして、その多くにメタエンジニアリングの考え方との共通点を見出すことができる。
著書は、中世まで隆盛を誇った形而上学からの科学の分離が宣言をされた17世紀の第一哲学の話から始まる。
「ニュートンもまた、「自然哲学の数学的原理(Philosophiae naturalis principia mathematics,1687)」において、運動の公理としての自然物体の三つの根本法則、つまり慣性の法則、運動方程式、作用・反作用の法則を呈示することによって、宇宙物体の物理学的自然哲学を完成した。」
である。
現代に生きるエンジニアとしての私は、ここで二つの疑問に出会う。「自然哲学」と、「完成した」、の二語である。しかし、このことは読み進むと自然に解消されて、正しい哲学的な解釈であることに気が付かされる。
哲学的な論証の説明が続き、アリストテレス、カント、フッサール、ハイデッガー、サルトルなどの著書の説明の後で、「哲学と科学」の章が「科学とは何か」で始まる。
「もともと、「科学」という漢字は、中国語「科挙之学」の略称として用いられ、明治十年以前においては、日本においてもその語彙を継承して「分化之学」「個別学問」の意味で用いられたものである。(中略)scienceやWissenchaftはともに「科学」と訳されると同時に「学問」とも訳されるように、もともとは、もっぱら「知識」を意味するラテン語Scientiaに対応するものである。この言葉は、元来感情や信仰からは区別されて、人間の知識活動一般を意味したが、このような最も広い意味での科学は、人類の出現と共に始まったものに他ならない。(中略)現代においては、科学という言葉は、一般的には全体的思弁的な学としての「哲学」からは区別された、経験的個別的な諸学問を意味し、最もせまい意味においては「自然科学」を意味する場合が多い。」
とある。私は、ここにメタエンジニアリングの入口を感じる。
コペルニクス、ケプラー、ガリレオ、ニュートンに言及したあとで、科学については次の記述がある。
「以上の如き意味を持つ科学の特質は「合理性」と「実証性」にある。あくまで、原理原則に基づいて理論的体系的に知識を探究すると同時に、その知識が事実と実験によって検証されねばならない。この検証の場が実験である。実験的方法は仮説を必要とする。科学者は、仮説によって、自然を再構成し、自然法則的自然、自然科学的自然を構築するのである。それはありがままの生の自然ではなくて、自然科学的に規定された自然であって、混沌と多様が入り交じった無規程的自然ではない。科学的自然は統一と体系を保った自然である。しかし、自然そのものは、科学者の手からこぼれ落ちるであろう。ここには、人間としての科学者の有限性がある。」
この言葉には、現代の先端科学者からは、大いに反論が出されるかもしれないが、一般常識的にはもっともなことに思える。昨今の、科学に対する不信感も「それはありがままの生の自然ではなくて、自然科学的に規定された自然であって、混沌と多様が入り交じった無規程的自然ではない。科学的自然は統一と体系を保った自然である。」と述べられたように、現代科学者が「混沌と多様が入り交じった無規程的自然」を完全に自らの科学の中に再現したと思いあがっているのかもしれない。
そして、メタエンジニアリングが哲学に固執する意味もこの言葉に含まれている。
次の「哲学と科学」の節は、つぎの記述で始まる。
「ともあれ、個別科学は己の前提を疑わずに、その前提に基づいて自らの知の体系をたいていの場合築き上げることができる。しかしながら、もしひとたび、その前提が怪しくなりくずれかけたときには、最初の出発点に立ち返って、原点から考えてみなければならなくなる。そのときに初めて、各個別科学の哲学的反省が始まる。」である。
少し引用が長くなるのだが、いよいよ結論である。
「そもそも、哲学と科学とは互いに助け合うべきである。西洋近代以来、現代のハイテク技術、コンピュータ、原子力等々を中心とした現代の科学技術の時代においては、多くの人々は、哲学者までもが科学的知識へのコンプレックスに陥り、科学に対して奴隷的態度をとるに至っている様相さえ呈していると同時に、他方においては、科学への拒絶反応を示して原始時代への逆行、自然的生活への願望を抱く人々もいる。しかるに、哲学が現代に適応した、現代の哲学であろうとするならば、現代の科学の長所と短所を弁別しなければならない。科学をむやみに信ずることもなく、また反対にむやみに拒絶することもなく、科学のもたらした、信頼するに足るような、確実なる知識を哲学的思索に生かさなければならない。
哲学的問いにとって特徴的なことは、その徹底性である。すなわち、これやあれやの因果関係が探究されているのではなく、全体一般に付与されうる意味が探求されているのである。なぜなら、哲学する人間にとってはそのつど決定的なことであり、全ての哲学的思索はそのかぎりにおいて「実存的」である。ところで、科学者も人間であり、一定の時代に生まれ生きる存在者であり、歴史的文化的制約下にある。つまり、科学者もすでに何がしかの世界観人生観によって、言い換えれば自らの哲学によって科学を始めているのである。」
また、「しかしながら、科学はつねに進歩し、進歩すればするほど、科学は自己独自の特異性のある立場とパースペクティブをもって新たに分化し、旧来とはちがったパースペクティブをもつべき科学の一学科へと変換しつつ進歩するであろう。それゆえ、常識をいつも追い越してゆくこところに科学の本質と宿命がある。だが、進歩しなくなったときには、それはもはや科学ではなく、単なる常識にすぎないものになってしまっているのである。常識を批判し反省するところから、新たな哲学と科学が生まれるであろう。」
ここに至って、現代社会における、あるいは現代科学と現代工学の中でのメタエンジニアリングの必然性が見えてくるのではないだろうか。
しかし、このような状況は福島原発事故に始まる、いわゆる「科学のむら組織化」の異論から大きく変化してきたように思える。つまり、前出のこの部分が明らかに変わってきた。
「現代の科学技術の時代においては、多くの人々は、哲学者までもが科学的知識へのコンプレックスに陥り、科学に対して奴隷的態度をとるに至っている様相さえ呈していると同時に、他方においては、科学への拒絶反応を示して原始時代への逆行、自然的生活への願望を抱く人々もいる。」
はじめに述べたように、昨今の社会情勢の変化に対して、哲学からの科学的な発言がめだつようになってきたのである。例えば、このことについては既にこのブログでも紹介したのだが、「ハイデガーの技術論」を著した加藤尚武氏の「災害論」でsる。
「災害論―安全工学への疑問」加藤尚武著、世界思想社(2011.11)
H25年4月14日の日経の記事「科学の見直し、文化の視点で」では、下記の文章が引用されて紹介をされている。
「危険な技術を止めようというのは短絡的。今やるべきなのは多様な学問分野から叡智を結集し、科学技術のリスクを管理する方法を考えることだ」「合理主義が揺らぐ中で科学のありようが問われているだけではない。哲学もまたどうあるべきかを問われている」
更に、「哲学者は、認識のありようを考察するなかで、科学者同士のずれを調整する役目を担える」とも述べられている。これは正に、メタエンジニアリングの視点であり、メタエンジニアリングの役目でもあるように思う。
実際に読み始めてみると、「まえがき」の最後は次の文章で結ばれている。
「学問と学問の間の接触点に入り込んで問題点を探し出す仕事を、昔は、大哲学者がすべての学問をすっぽりと包み込む体系を用意してその中で済ませてきたが、現代では、「すべての学問をすっぽりと包み込む体系」を作らずに、それぞれの学問の前提や歴史的な発展段階の違いや学者集団の特徴を考え、人間社会にとって重要な問題について国民的な合意形成が理性的に行われる条件を追求しなければならない。それが現代における哲学の使命である。」
とある。
加藤氏は、いわゆる哲学の京都学派の重鎮で日本哲学会の委員長も務められた。私は、哲学の使命についてはコメントできないが、上記の「学問をすっぽりと包み込む」ことは、特に自然科学を基とする工学が、エンジニアリングを通じて現代社会におおくのものを提供する現状においては、むしろメタエンジニアリングの役目だと思う。つまり、哲学者の目とは異なる実社会に役に立つものを、考えて実践をしてきたエンジニアリングの目で見、かつ深く考える始めることが、メタエンジニアリングの最重要機能だと考えている。
様々な科学と工学がとてつもないスピードで進化してゆく中で、昨今の社会情勢の変化に対して、哲学者からの科学的な発言がめだつようになってきたように思う。一方で、科学者や、特に工学者、中でも最も社会情勢への影響度が高いと思われるエンジニアからの哲学への発信は皆無である。
メタエンジニアリングの中でこの命題を考え、過去の関連図書をあたってみた。そこで出会ったのが、「そもそも、哲学と科学とはお互いに助け合うべきである。」との言葉だった。著者は、京都大学総合人間学部教授の有福孝岳さん、哲学の京都学派のおひとりであろう、ハイデッガーやカントの有名な論文の訳本を出版されている。
「哲学の立場」晃洋書房(2002)には、多くの示唆に富む記述が見受けられる。そして、その多くにメタエンジニアリングの考え方との共通点を見出すことができる。
著書は、中世まで隆盛を誇った形而上学からの科学の分離が宣言をされた17世紀の第一哲学の話から始まる。
「ニュートンもまた、「自然哲学の数学的原理(Philosophiae naturalis principia mathematics,1687)」において、運動の公理としての自然物体の三つの根本法則、つまり慣性の法則、運動方程式、作用・反作用の法則を呈示することによって、宇宙物体の物理学的自然哲学を完成した。」
である。
現代に生きるエンジニアとしての私は、ここで二つの疑問に出会う。「自然哲学」と、「完成した」、の二語である。しかし、このことは読み進むと自然に解消されて、正しい哲学的な解釈であることに気が付かされる。
哲学的な論証の説明が続き、アリストテレス、カント、フッサール、ハイデッガー、サルトルなどの著書の説明の後で、「哲学と科学」の章が「科学とは何か」で始まる。
「もともと、「科学」という漢字は、中国語「科挙之学」の略称として用いられ、明治十年以前においては、日本においてもその語彙を継承して「分化之学」「個別学問」の意味で用いられたものである。(中略)scienceやWissenchaftはともに「科学」と訳されると同時に「学問」とも訳されるように、もともとは、もっぱら「知識」を意味するラテン語Scientiaに対応するものである。この言葉は、元来感情や信仰からは区別されて、人間の知識活動一般を意味したが、このような最も広い意味での科学は、人類の出現と共に始まったものに他ならない。(中略)現代においては、科学という言葉は、一般的には全体的思弁的な学としての「哲学」からは区別された、経験的個別的な諸学問を意味し、最もせまい意味においては「自然科学」を意味する場合が多い。」
とある。私は、ここにメタエンジニアリングの入口を感じる。
コペルニクス、ケプラー、ガリレオ、ニュートンに言及したあとで、科学については次の記述がある。
「以上の如き意味を持つ科学の特質は「合理性」と「実証性」にある。あくまで、原理原則に基づいて理論的体系的に知識を探究すると同時に、その知識が事実と実験によって検証されねばならない。この検証の場が実験である。実験的方法は仮説を必要とする。科学者は、仮説によって、自然を再構成し、自然法則的自然、自然科学的自然を構築するのである。それはありがままの生の自然ではなくて、自然科学的に規定された自然であって、混沌と多様が入り交じった無規程的自然ではない。科学的自然は統一と体系を保った自然である。しかし、自然そのものは、科学者の手からこぼれ落ちるであろう。ここには、人間としての科学者の有限性がある。」
この言葉には、現代の先端科学者からは、大いに反論が出されるかもしれないが、一般常識的にはもっともなことに思える。昨今の、科学に対する不信感も「それはありがままの生の自然ではなくて、自然科学的に規定された自然であって、混沌と多様が入り交じった無規程的自然ではない。科学的自然は統一と体系を保った自然である。」と述べられたように、現代科学者が「混沌と多様が入り交じった無規程的自然」を完全に自らの科学の中に再現したと思いあがっているのかもしれない。
そして、メタエンジニアリングが哲学に固執する意味もこの言葉に含まれている。
次の「哲学と科学」の節は、つぎの記述で始まる。
「ともあれ、個別科学は己の前提を疑わずに、その前提に基づいて自らの知の体系をたいていの場合築き上げることができる。しかしながら、もしひとたび、その前提が怪しくなりくずれかけたときには、最初の出発点に立ち返って、原点から考えてみなければならなくなる。そのときに初めて、各個別科学の哲学的反省が始まる。」である。
少し引用が長くなるのだが、いよいよ結論である。
「そもそも、哲学と科学とは互いに助け合うべきである。西洋近代以来、現代のハイテク技術、コンピュータ、原子力等々を中心とした現代の科学技術の時代においては、多くの人々は、哲学者までもが科学的知識へのコンプレックスに陥り、科学に対して奴隷的態度をとるに至っている様相さえ呈していると同時に、他方においては、科学への拒絶反応を示して原始時代への逆行、自然的生活への願望を抱く人々もいる。しかるに、哲学が現代に適応した、現代の哲学であろうとするならば、現代の科学の長所と短所を弁別しなければならない。科学をむやみに信ずることもなく、また反対にむやみに拒絶することもなく、科学のもたらした、信頼するに足るような、確実なる知識を哲学的思索に生かさなければならない。
哲学的問いにとって特徴的なことは、その徹底性である。すなわち、これやあれやの因果関係が探究されているのではなく、全体一般に付与されうる意味が探求されているのである。なぜなら、哲学する人間にとってはそのつど決定的なことであり、全ての哲学的思索はそのかぎりにおいて「実存的」である。ところで、科学者も人間であり、一定の時代に生まれ生きる存在者であり、歴史的文化的制約下にある。つまり、科学者もすでに何がしかの世界観人生観によって、言い換えれば自らの哲学によって科学を始めているのである。」
また、「しかしながら、科学はつねに進歩し、進歩すればするほど、科学は自己独自の特異性のある立場とパースペクティブをもって新たに分化し、旧来とはちがったパースペクティブをもつべき科学の一学科へと変換しつつ進歩するであろう。それゆえ、常識をいつも追い越してゆくこところに科学の本質と宿命がある。だが、進歩しなくなったときには、それはもはや科学ではなく、単なる常識にすぎないものになってしまっているのである。常識を批判し反省するところから、新たな哲学と科学が生まれるであろう。」
ここに至って、現代社会における、あるいは現代科学と現代工学の中でのメタエンジニアリングの必然性が見えてくるのではないだろうか。
しかし、このような状況は福島原発事故に始まる、いわゆる「科学のむら組織化」の異論から大きく変化してきたように思える。つまり、前出のこの部分が明らかに変わってきた。
「現代の科学技術の時代においては、多くの人々は、哲学者までもが科学的知識へのコンプレックスに陥り、科学に対して奴隷的態度をとるに至っている様相さえ呈していると同時に、他方においては、科学への拒絶反応を示して原始時代への逆行、自然的生活への願望を抱く人々もいる。」
はじめに述べたように、昨今の社会情勢の変化に対して、哲学からの科学的な発言がめだつようになってきたのである。例えば、このことについては既にこのブログでも紹介したのだが、「ハイデガーの技術論」を著した加藤尚武氏の「災害論」でsる。
「災害論―安全工学への疑問」加藤尚武著、世界思想社(2011.11)
H25年4月14日の日経の記事「科学の見直し、文化の視点で」では、下記の文章が引用されて紹介をされている。
「危険な技術を止めようというのは短絡的。今やるべきなのは多様な学問分野から叡智を結集し、科学技術のリスクを管理する方法を考えることだ」「合理主義が揺らぐ中で科学のありようが問われているだけではない。哲学もまたどうあるべきかを問われている」
更に、「哲学者は、認識のありようを考察するなかで、科学者同士のずれを調整する役目を担える」とも述べられている。これは正に、メタエンジニアリングの視点であり、メタエンジニアリングの役目でもあるように思う。
実際に読み始めてみると、「まえがき」の最後は次の文章で結ばれている。
「学問と学問の間の接触点に入り込んで問題点を探し出す仕事を、昔は、大哲学者がすべての学問をすっぽりと包み込む体系を用意してその中で済ませてきたが、現代では、「すべての学問をすっぽりと包み込む体系」を作らずに、それぞれの学問の前提や歴史的な発展段階の違いや学者集団の特徴を考え、人間社会にとって重要な問題について国民的な合意形成が理性的に行われる条件を追求しなければならない。それが現代における哲学の使命である。」
とある。
加藤氏は、いわゆる哲学の京都学派の重鎮で日本哲学会の委員長も務められた。私は、哲学の使命についてはコメントできないが、上記の「学問をすっぽりと包み込む」ことは、特に自然科学を基とする工学が、エンジニアリングを通じて現代社会におおくのものを提供する現状においては、むしろメタエンジニアリングの役目だと思う。つまり、哲学者の目とは異なる実社会に役に立つものを、考えて実践をしてきたエンジニアリングの目で見、かつ深く考える始めることが、メタエンジニアリングの最重要機能だと考えている。