生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

メタエンジニアの眼シリーズ(60)「草枕」1906年(明治39年)

2018年02月10日 18時57分11秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼シリーズ(60) TITLE: 「夏目漱石と文明」 KMB3427

書籍名;「草枕」[1906年(明治39年] 
著者;夏目漱石(夏目金之助) 発行所;岩波書店

発行日;2017.2.9
初回作成年月日;H30.2.5 最終改定日;H 
引用先;文化の文明化のプロセス  Converging 
このシリーズはメタエンジニアリングで「文化の文明化」を考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。



『山道を登りながら、かう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。
人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。矢張り向ふ三軒両隣りにちらちらする唯の人である。唯の人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりも猶住みにくからう。』(pp.3)

 この有名な文章で始まる漱石の「草枕」は、芸術論を述べたものとして有名だが、文明に対する強い思いも述べている。「ぼっちゃん」では、当時の政治家のトップをモデルにして、社会を風刺したといわれている。当時は、薩長のトップ政治家への風刺が盛んだったが、ことごとく発禁された。

しかし、漱石の「ぼっちゃん」は、あまりにも巧みにそのことが隠されているために,発禁を免れたそうだ。(校長の狸が山縣有朋、教頭の赤シャツが西園寺、図学教師の野だいこが桂小五郎の生活ぶりや私生活がえがかれているそうだ。赤木照夫著「漱石のこのろ」(岩波新書)[2016]より)
 「草枕」も、芸術論に隠れて、明治維新の急激な文明開化を批判しているように読める。漱石の得意技なのだろう。

Wikipediaの紹介文には次のようにある。
『熊本県玉名市小天温泉を舞台にして、著者のいう「非人情」の世界を描いた作品である。
(中略)関係者への書簡から、詳しい制作時期が判明している。1906年(明治39年)7月26日に執筆開始。同年8月9日脱稿。「我輩は猫である」の脱稿から10日後に執筆を開始し、完成したのはその2週間後であった。

熊本で英語教師をしていた漱石は、1897年(明治30年)の大晦日に、友人であった山川信次郎とともに熊本の小天温泉に出かけ、そのときの体験をもとに『草枕』を執筆した。作品の中で登場する「峠の茶屋」は、熊本市街から小天温泉に至る途中の道にあったと考えられており、この当時にあった「鳥越(とりごえ)の峠」もしくは、「野出(のいで)の峠」にあった茶屋が、そのモデルであるとされる。現在の鳥越の峠には1989年(平成元年)に当時あった茶屋を復元したものが建てられており、園内に漱石の句碑が建てられている。また、当時の茶屋は現存していないが、野出の峠のほうにも茶屋跡の碑と漱石の句碑がある。』 面白い逸話だ。

 漱石の没後100年(2016)と、生誕150年(2017)と続き、岩波書店の「漱石全集」が新たなシリーズとして発行された。以前のものは1990年代だが、あたまに「定本」と書かれたいる以外は、装丁も同じように思える。「草枕」は、第3回の配本として発行されている。第3巻なのだが、旧版が発行されてから23年後の同月同日に発行されている。
その栞になっている「月報3」が面白い。「漱石とドビュッシーの親和性 -草枕をめぐって」と題した青柳いずみこの文章だ。
 
『写生帖相手にいろいろ工夫もしてみるが、どうもうまくいかない。鉛筆を置き、自分の他にも誰かがきっと「此感興を何等の手段かで、永久化せん」と試みたろう、とすればその手段は何だろうと自問自答するうち、「音楽の二字がぴかりと眼に映つた」。「成程音楽は斯る時、斯る必要に逼られて生まれた自然の声であらう」

音楽には素養がなく、熊本五高時代の学生、寺田寅彦から情報を得ていた激石だが、さすがの慧眼というべきだろう。五感を解放し、自然の諸様相が自分の心に与えた「ひしめきあう印象」の音楽言語化をめざしたドビュッシーと、『草枕』に おいて文学と絵画の融合を模索し、言葉をもって絵画現象を生じさせようと試みた激石には似たところがある。』

『激石も、『坊っちゃん』でターナーの描くロー マの松『チャイルド・ハロルドの巡礼ーイタリア』、『草枕』では「雨・蒸気・速力』に言及している。『草枕』ではまた、ラファエル前派の画家ジョン・エヴァレット・ミレイの『オフィーリア』が重要な役割を果たす。水に流されるオフィーリアのモデルは、ロセッティの妻で、ラファエル前派の共有モデルをつとめたエリザベス・シダルだった。』などである。

私が注目をした部分を引用する。全体としては、終盤にあたる。
『愈々現実世界へ引きずり出された。汽車の見える所を現実世界と云う。汽車程二十世紀の文明を代表するものはあるまい。何百と云う人間を同じ箱へ詰めて轟と通る。情け容赦はない。詰め込まれた人間は皆同程度の速力で、同一の停車場へとまつて、さうして同様に蒸汽の恩沢に浴さねばならぬ。人は汽車へ乗ると云ふ。余は積み込まれると云ふ。人は汽車で行くと云ふ。余は運搬されると云ふ。

汽車程個性を軽蔑したものはない。文明はあらゆる限りの手段をつくして、個性を発達せしめたる後、あらゆる限りの方法によつて此個性を踏み付け様とする。一人前何坪何合かの地面を与へて此地面のうちでは寐るとも起きるとも勝手にせよと云ふのが現今の文明である。同時に此何坪何合の周囲に鉄柵を設けて、これよりさきへは一歩も出てはならぬぞと威嚇かすのが現今の文明である。何坪何合のうちで自由をほしいままにしたものが、此鉄柵外にも自由を檀にしたくなるのは自然の勢である。憐むべき文明の国民は日夜に此鉄柵に噛み付いて抱嘩して居る。文明は個人に自由を与へて虎の如く猛からしめたる後・之を檻宑の内に投げ込んで、天下の平和を維持しつつある。此平和は真の平和ではない。動物園の虎が見物人を睨めて、寐転んで居ると同様な平和である。』(pp.167)

 汽車については、19世紀のイギリスの画家「ターナー」の有名な「雨・蒸気・速力」を思い出しながら書かれたといわれる部分が、数か所あった。私は、ターナーの絵のファンで、ロンドンのテート美術館に、それだけのために数回通った覚えがある。丁度、ターナー専門の別館を建設中で、毎回展示場所が変わっていたことを思い出す。

もう、30年以上前のことなのだが、テート美術館は、テムズ川沿いにあり、目の前に水上バスの船着き場があった。そこから信号も渋滞もなくロンドンの中心部に出られるのも心地よかった記憶だ。漱石の時代にもあったのだろうか。東京も、浅草でお参りした後で、日本橋の船着き場までのんびりと行けたら良いのにと思う。

 汽車については、こんな文章も含まれている。
『檻の鉄棒が一本でも抜けたら -世は滅茶滅茶になる。』(pp.168)』
『轟と音がして、白く光る鉄路の上を、文明の長蛇がのたくって来る。』(pp.169)
『文明の長蛇は口から黒い烟を吐く。』(pp.169)
『あぶない、あぶない。気を付けなければあぶないと思ふ。現代の文明は此あぶないで鼻を衝かれる位充満してゐる。おさき真暗に盲動する汽車はあぶない標本の一つである。』(pp.168)

 これらの文章表現からは、文芸論は感じられない。さんざん絵画や音楽や文章による風景描写を記したうえで、最後のこのような文章が羅列されている。このことは、全体としては明治維新で急速に自身の生活に押し付けられた「西欧文明」を批判しているように思える。舞台として、熊本の片田舎の山間部の温泉を選んだことが、そのことを明確にしているように思う。
 21世紀に入ってからの「次の文明論」には、この「草枕」に語られた漱石流の文明論が、多くの場合に反映されているように感じている。明治の日本人だけでなく、全世界の人類が、西欧文明に押しつぶされそうになっている