八ヶ岳南麓の20年前と今(2009 – 2020 – 2021)
霜降(10月23日から11月6日ころまで)
ルリタテハの蛹 (2021)
私が投稿しているブログは、ご親切に1年前の投稿記事をメールで知らせてくれる。最近は、「あれ、こんなことを書いたっけ」と思うことしきりなのだが、この記事もそうだった。
秋の七草(H21からR2)
秋の七草は、万葉集の山上億良の歌に始まるといわれている。
秋の野に 咲きたる花を 指折り かき数ふれば 七種の花、萩の花 尾花葛花 撫子の花、女郎花 また藤袴 朝貌の花。
春の七草は、七草がゆに象徴される食を楽しむものであり、秋の七草は見ることを楽しむものとも言われる。
「尾花」とは、ススキの穂が出ている時の呼び名だそうで、動物の尻尾のイメージとか。
この花々は、風のために庭で倒れたものを集めた。ホトトギスは東京ではとっくに終っているが、こちらでは今が盛りだ。東京よりも葉の茂り方が良い。昨年は、烏山の庭に瑠璃タテハが卵を産んでいった。瑠璃タテハの幼虫は食欲旺盛で、一匹で2本分の葉を平らげてしまう。この幼虫はこの葉っぱしか食べないので、食べ尽くすと大変なことになる。昨年は危機だった。八ヶ岳では、葉は見事に茂るのだが、瑠璃タテハはついぞ見かけたことがない。第一、あの超グロテスクなとげとげの芋虫はこの辺りの景色には似合わないと思う。
あれから十数年、ルリタテハは一向に現れないが、ホトトギスは健在で、今年も世田谷の我が家の庭で咲き誇っている。以前に比べて、開花時期は少し遅くなっているようだ。
2021年では、
しかし、何故か今年の世田谷の庭には、このルリタテハの幼虫が現れた。十数匹が元気に育っていた。そのことは10月5日に写真を投稿した。そして、現状はこうである。ホトトギスの葉っぱは、見事に食べ尽くされている。しかし、蛹はどこを探しても見当たらない。このことはいつものことで、蛹は全く身動きができないので、とてつもない保護色で、簡単には見つからないのだ。
ルリタテハの幼虫に食べつくされた東側と、全く食べられなかった南側のホトトギスの現状
何故か、昼間陽の当たらない東側だけに集中している。
今朝の朝刊のコラムに蛹の話が出ていた。都心の大通り沿いの自動扉に蛹がくっついていて、注意を促す張り紙がある、で始まっている。そして『蝶の幼虫と成虫は姿も生息環境も餌も異なり、その中間段階を蛹という。就職活動にせわしい若者も、学生と社会人に挟まれた蛹のような存在である。』(読売新聞2021.10.24)とあった。
霜降(10月23日から11月6日ころまで)
ルリタテハの蛹 (2021)
私が投稿しているブログは、ご親切に1年前の投稿記事をメールで知らせてくれる。最近は、「あれ、こんなことを書いたっけ」と思うことしきりなのだが、この記事もそうだった。
秋の七草(H21からR2)
秋の七草は、万葉集の山上億良の歌に始まるといわれている。
秋の野に 咲きたる花を 指折り かき数ふれば 七種の花、萩の花 尾花葛花 撫子の花、女郎花 また藤袴 朝貌の花。
春の七草は、七草がゆに象徴される食を楽しむものであり、秋の七草は見ることを楽しむものとも言われる。
「尾花」とは、ススキの穂が出ている時の呼び名だそうで、動物の尻尾のイメージとか。
この花々は、風のために庭で倒れたものを集めた。ホトトギスは東京ではとっくに終っているが、こちらでは今が盛りだ。東京よりも葉の茂り方が良い。昨年は、烏山の庭に瑠璃タテハが卵を産んでいった。瑠璃タテハの幼虫は食欲旺盛で、一匹で2本分の葉を平らげてしまう。この幼虫はこの葉っぱしか食べないので、食べ尽くすと大変なことになる。昨年は危機だった。八ヶ岳では、葉は見事に茂るのだが、瑠璃タテハはついぞ見かけたことがない。第一、あの超グロテスクなとげとげの芋虫はこの辺りの景色には似合わないと思う。
あれから十数年、ルリタテハは一向に現れないが、ホトトギスは健在で、今年も世田谷の我が家の庭で咲き誇っている。以前に比べて、開花時期は少し遅くなっているようだ。
2021年では、
しかし、何故か今年の世田谷の庭には、このルリタテハの幼虫が現れた。十数匹が元気に育っていた。そのことは10月5日に写真を投稿した。そして、現状はこうである。ホトトギスの葉っぱは、見事に食べ尽くされている。しかし、蛹はどこを探しても見当たらない。このことはいつものことで、蛹は全く身動きができないので、とてつもない保護色で、簡単には見つからないのだ。
ルリタテハの幼虫に食べつくされた東側と、全く食べられなかった南側のホトトギスの現状
何故か、昼間陽の当たらない東側だけに集中している。
今朝の朝刊のコラムに蛹の話が出ていた。都心の大通り沿いの自動扉に蛹がくっついていて、注意を促す張り紙がある、で始まっている。そして『蝶の幼虫と成虫は姿も生息環境も餌も異なり、その中間段階を蛹という。就職活動にせわしい若者も、学生と社会人に挟まれた蛹のような存在である。』(読売新聞2021.10.24)とあった。