メタエンジニアの眼(202)
日本人の自然観
このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。
初回作成年月日;2021.12.12最終改定日;
日本人の自然観については、多数の書物が発行されているが、なかでも、伊東俊太郎編「日本人の自然観」河出書房新社(1995)ほど纏まったものは少ない。
副題は「縄文から現代科学まで」で、そうそうたるメンバーが一節ずつ20項目近くに分けて書いている。縄文・古代・中世・近世・近代それぞれで、序論は梅原 猛による「循環の世界観」だ。つまり、「メタ日本人の自然観」に相応しい。
冒頭の、安田喜憲の「縄文時代の時代区分と自然環境の変動」も有名な論説で興味が湧く。北緯35度を境として、約五千年前に世界中の自然環境が反転したというもので、それが日本列島でも起こっていた。土偶の数が一斉に増え始めた時期と一致する。
ここで述べたいのは、最終章の伊東俊太郎による「湯川秀樹の自然観」だ。あの中間子理論に日本人の自然観が大いに関係するという。
湯川の発言が載っている。『20世紀になりますと原子論といってもデモクリトス流のアトミズムではなくなり、素粒子というものは、できたり消えたりするものですね。これはむしろ“諸行無常”という言葉がピッタリするものですね。あるものがなくなったり、あらわれたり、また姿を変えるということが自然のありかたですね。』(p.475)という。
そして、原子核理論でノーベル賞をとったハイゼルベルクも、『日本からもたらされた理論物理学への大きな科学的貢献は、極東の伝統における哲学的思想と量子論の哲学的存在様式との間に、何らかの関係があることを示しているのではあるまいか。今世紀初めの頃にヨーロッパでは未だ広く行われていた素朴な唯物論的思想を辿ってこなかった人たちの方が、量子的リアリティーの概念に適応することが、かえって容易だったのかもしれない。』(p.476)と述べている。
これらの発言が、なにを意味しているのかは明白だ。原子核が陽子と中性子から成るということが明確になると、その結び付ける力は何か、が大問題になった。しかし、欧米の物理学者が到達した理論では、大いに不足する力しか出てこなかった。
湯川は、そこに中間子の存在を主張した。当初は、見向きもされなかったが、『今、私がここに提起するような理論で実際に核力が働くならば、電子の200倍の粒子がどこかで見つかるはずだ。』(p.469)と1934年に主張した。
そして、1937年にアメリカで電子の100倍から250倍の質量の粒子が発見され、湯川は、「それこそが、私の主張する中間子だ」という論文を発表した。
「なぜ」の答えはこうである。ハイゼルベルクやボーアには、陽子と電子の間で光量子がやり取りされても、陽子は陽子にとどまり、実体は変わらないとの哲学があった。それは、古代ギリシアの『デモクリトスの原子論以来、実在の根底には不変な「実体」があるとする考え方の伝統があります。ちょうどヨーロッパの建築物は石の積み重ねによってできており、これがバラバラになれば不変な構成要素としての個々の石になるように、世界は一定不変の実体から成り立っていると考えているわけです。』(p.474)
つまり、一切が「諸行無常」との考え方は、20世紀以前のヨーロッパには無かったからだ、というわけである。近代科学が始まった西欧でも、ルネ・デカルト(1596 - 1650)の機械論が唯一の世界観だった。
ここで著者は、「グノーモン的構造問題」を提起してる。グノーモンとは、ギリシア語の「かねざし」(大工さんが使う、L型の物差し)で、問題を2次元のそれぞれの軸からアプローチをするということに思える。ダーウインの進化論や、波動力学はこの手法(gnomonic structure of creation)によって新たな着想が生まれたそうで、そのことは『拙著「科学と現実」(中公新書 1981年)に収めた論文「科学的発見の論理」で扱っている』(p.467)とある。
なお、「グノーモン」とは、起源的には、古代エジプトで地面に垂直に棒を立て、その地点における南中の時刻と太陽の高度を測定するために用いられていた柱だった。
それが、ギリシアにわたり、日時計用の柱となり、さらに、直角を引くために用いるL字型をした道具に対して使われるようになった。だとすると、「グノーモン的構造問題」という言葉には、聊か違和感を感じる。
日本人の自然観
このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。
初回作成年月日;2021.12.12最終改定日;
日本人の自然観については、多数の書物が発行されているが、なかでも、伊東俊太郎編「日本人の自然観」河出書房新社(1995)ほど纏まったものは少ない。
副題は「縄文から現代科学まで」で、そうそうたるメンバーが一節ずつ20項目近くに分けて書いている。縄文・古代・中世・近世・近代それぞれで、序論は梅原 猛による「循環の世界観」だ。つまり、「メタ日本人の自然観」に相応しい。
冒頭の、安田喜憲の「縄文時代の時代区分と自然環境の変動」も有名な論説で興味が湧く。北緯35度を境として、約五千年前に世界中の自然環境が反転したというもので、それが日本列島でも起こっていた。土偶の数が一斉に増え始めた時期と一致する。
ここで述べたいのは、最終章の伊東俊太郎による「湯川秀樹の自然観」だ。あの中間子理論に日本人の自然観が大いに関係するという。
湯川の発言が載っている。『20世紀になりますと原子論といってもデモクリトス流のアトミズムではなくなり、素粒子というものは、できたり消えたりするものですね。これはむしろ“諸行無常”という言葉がピッタリするものですね。あるものがなくなったり、あらわれたり、また姿を変えるということが自然のありかたですね。』(p.475)という。
そして、原子核理論でノーベル賞をとったハイゼルベルクも、『日本からもたらされた理論物理学への大きな科学的貢献は、極東の伝統における哲学的思想と量子論の哲学的存在様式との間に、何らかの関係があることを示しているのではあるまいか。今世紀初めの頃にヨーロッパでは未だ広く行われていた素朴な唯物論的思想を辿ってこなかった人たちの方が、量子的リアリティーの概念に適応することが、かえって容易だったのかもしれない。』(p.476)と述べている。
これらの発言が、なにを意味しているのかは明白だ。原子核が陽子と中性子から成るということが明確になると、その結び付ける力は何か、が大問題になった。しかし、欧米の物理学者が到達した理論では、大いに不足する力しか出てこなかった。
湯川は、そこに中間子の存在を主張した。当初は、見向きもされなかったが、『今、私がここに提起するような理論で実際に核力が働くならば、電子の200倍の粒子がどこかで見つかるはずだ。』(p.469)と1934年に主張した。
そして、1937年にアメリカで電子の100倍から250倍の質量の粒子が発見され、湯川は、「それこそが、私の主張する中間子だ」という論文を発表した。
「なぜ」の答えはこうである。ハイゼルベルクやボーアには、陽子と電子の間で光量子がやり取りされても、陽子は陽子にとどまり、実体は変わらないとの哲学があった。それは、古代ギリシアの『デモクリトスの原子論以来、実在の根底には不変な「実体」があるとする考え方の伝統があります。ちょうどヨーロッパの建築物は石の積み重ねによってできており、これがバラバラになれば不変な構成要素としての個々の石になるように、世界は一定不変の実体から成り立っていると考えているわけです。』(p.474)
つまり、一切が「諸行無常」との考え方は、20世紀以前のヨーロッパには無かったからだ、というわけである。近代科学が始まった西欧でも、ルネ・デカルト(1596 - 1650)の機械論が唯一の世界観だった。
ここで著者は、「グノーモン的構造問題」を提起してる。グノーモンとは、ギリシア語の「かねざし」(大工さんが使う、L型の物差し)で、問題を2次元のそれぞれの軸からアプローチをするということに思える。ダーウインの進化論や、波動力学はこの手法(gnomonic structure of creation)によって新たな着想が生まれたそうで、そのことは『拙著「科学と現実」(中公新書 1981年)に収めた論文「科学的発見の論理」で扱っている』(p.467)とある。
なお、「グノーモン」とは、起源的には、古代エジプトで地面に垂直に棒を立て、その地点における南中の時刻と太陽の高度を測定するために用いられていた柱だった。
それが、ギリシアにわたり、日時計用の柱となり、さらに、直角を引くために用いるL字型をした道具に対して使われるようになった。だとすると、「グノーモン的構造問題」という言葉には、聊か違和感を感じる。