ジェットエンジンの技術(17)
第20章 ヒトから人への伝承
技術の系統化すなわち伝承の方法は、大きく二つに分けられる。それらは、人から人への直接伝承と、書籍や実物などのモノを介する伝承になる。人類が文明を築き始めてから延々と続くこの現象の歴史について、P.F.ドラッカーは、大きく3段階に分けている。(1)
人類の文明は、農耕と灌漑技術の伝承から始まり、そこから都市化、政治、軍事などの社会イノベーションが始まった。この時代は1400年間も続き、その間は徒弟制度などによる人から人への直接伝承だった。そして、次の社会イノベーションは印刷機の発明による大量の印刷物による技術の伝承で、この時から技術が社会と経済の中心に据えられて、近代技術革命の時代になった。現代は3回目の社会イノベーションがSNSにより始まっている。つまり、再び人から人への伝承の時代に戻ったことになる。現代の様々な科学技術の系統化を見ると、多くの場合にはモノ(印刷物もモノの一つ)を介する伝承が多い。
ジェットエンジンの場合にはどうであろうか。私の経験では、それは圧倒的に人から人への伝承だった。それは、設計、製造、調達、保守の全技術領域にわたって共通しているように思われる。スマホなどの電子製品は、初期の製品の市場投入後に、その機能もハードも大きく進化する。それは、世界中の多くの人がモノを介して得た知識と知恵の進歩によって成されている。それは、ジェットエンジンとは大きく異なる。
戦後の日本には「空白の7年間」という期間があったが、人から人への技術の伝承は、確実に行われた。それは、大学教育の場と、社内外におけるman to manの会話からであった。ここでは、当時海軍航空技術廠に在籍したIHIの永野副社長と、中島飛行機で誉のエンジン設計の一部を担当した今井専務取締役との思い出の一端を記す。
20.1 永野副社長との思い出
・空技廠でネ20の開発に携わった永野少佐から25年後の私へ、
私は1970年に石川島播磨重工に入社し、当初から民間エンジンの研究と開発に従事した。FJR710の設計システム班長となった私は、1971年に永野副社長と岡崎教授(東大航空学科)から月例の指導を受けることになった。エンジン設計の進捗を説明して、過去の経験と現代航空工学からの指摘を受けるためであった。そこでは、当時の開発作業のスピードの話を何度も聞かされた。「なぜ、お前たちは初号機の設計と開発に3年間もかかるのだ、やれば半年でできるはずだ」というわけである。「やればできるはずだ」の言葉は、その後の開発プロジェクトで何度も役に立った。
・昼食時の会話
毎回の指導会の後は、ゲストハウスでの昼食だった。個々の話は忘れてしまったが、仏教関係の話が多かった。唯一覚えているのは、通勤の途中でいくら長距離を歩いても運動にはならない。心臓がドキドキする早さでなければ疲れるだけだ、でした。
飲食を伴う際の会話は特別の意味がある。私は、この時以来そのことを実行し続けていた。最近は、Zoomなどによる遠隔会議が多いようだが、それでは、ヒトから人への伝承は、半分も充たされないと推察する。
20.2 今井専務取締役との思い出
・入社を決めたひとこと
私が今井さんに最初にお会いしたのは、修士2年生のリクルートで当時の石川島播磨の田無工場に見学に行った時だった。私に入社の意志は全くなく、友人に誘われてのことだった。しかし、その時話をしてくださった当時の今井副事業部長の、「ジェットエンジンの研究と開発は技術者にとって、これほど面白いものはない」が、気持ちを一転させ、友人を押しのけて入社を決めてしまった。ロシア語のジェットエンジンに関する本を翻訳された工学博士が身近に感じられたからであった。
・さんざん政府の補助金にお世話になったのだから、
私が陸海空のミサイルに用いられる個体ロケットを得意とする新会社(当時、C.ゴーンがCEOになった日産自動車の独占生産だったが、IHIが営業譲渡を受けて、私は新会社設立の準備室長から続けて、初代の代表取締役を担った)に移ってからは、今井さんから頻繁にメールが来るようになり、年に数回のペースでお宅へ伺うことになった。最初の言葉は,「ミサイルとジェットエンジンは防衛庁にとって全く違う製品になる。一旦国際間の緊張が高まった時に、どうするかを常に考えておきなさい」だった。
そして、十数年後の定年間近になった時には、「さんざん政府のお世話になったのだから、これからは社会に還元することを考えなさい」との再三の会話から、デザイン・コミュニティー・シリーズという名の小冊子の作成(前月には、第24巻を発行)と、博士号の取得を目指すことになった。「博士の資格は、会社では全く役に立たないが、退社後には、JRのグリーン切符のように、使い勝手が良いので、絶対に取っておきなさい」だった。
「やればできるはずだ」、「これほど面白いものは無い」、「これからは社会に還元することを考えなさい」の三つの言葉は、何年経っても忘れることはない。
参考文献
(1)P.F. ドラッカー「テクノロジストの条件―ものづ くりが文明をつくる」ダイヤモンド社(2005)
第20章 ヒトから人への伝承
技術の系統化すなわち伝承の方法は、大きく二つに分けられる。それらは、人から人への直接伝承と、書籍や実物などのモノを介する伝承になる。人類が文明を築き始めてから延々と続くこの現象の歴史について、P.F.ドラッカーは、大きく3段階に分けている。(1)
人類の文明は、農耕と灌漑技術の伝承から始まり、そこから都市化、政治、軍事などの社会イノベーションが始まった。この時代は1400年間も続き、その間は徒弟制度などによる人から人への直接伝承だった。そして、次の社会イノベーションは印刷機の発明による大量の印刷物による技術の伝承で、この時から技術が社会と経済の中心に据えられて、近代技術革命の時代になった。現代は3回目の社会イノベーションがSNSにより始まっている。つまり、再び人から人への伝承の時代に戻ったことになる。現代の様々な科学技術の系統化を見ると、多くの場合にはモノ(印刷物もモノの一つ)を介する伝承が多い。
ジェットエンジンの場合にはどうであろうか。私の経験では、それは圧倒的に人から人への伝承だった。それは、設計、製造、調達、保守の全技術領域にわたって共通しているように思われる。スマホなどの電子製品は、初期の製品の市場投入後に、その機能もハードも大きく進化する。それは、世界中の多くの人がモノを介して得た知識と知恵の進歩によって成されている。それは、ジェットエンジンとは大きく異なる。
戦後の日本には「空白の7年間」という期間があったが、人から人への技術の伝承は、確実に行われた。それは、大学教育の場と、社内外におけるman to manの会話からであった。ここでは、当時海軍航空技術廠に在籍したIHIの永野副社長と、中島飛行機で誉のエンジン設計の一部を担当した今井専務取締役との思い出の一端を記す。
20.1 永野副社長との思い出
・空技廠でネ20の開発に携わった永野少佐から25年後の私へ、
私は1970年に石川島播磨重工に入社し、当初から民間エンジンの研究と開発に従事した。FJR710の設計システム班長となった私は、1971年に永野副社長と岡崎教授(東大航空学科)から月例の指導を受けることになった。エンジン設計の進捗を説明して、過去の経験と現代航空工学からの指摘を受けるためであった。そこでは、当時の開発作業のスピードの話を何度も聞かされた。「なぜ、お前たちは初号機の設計と開発に3年間もかかるのだ、やれば半年でできるはずだ」というわけである。「やればできるはずだ」の言葉は、その後の開発プロジェクトで何度も役に立った。
・昼食時の会話
毎回の指導会の後は、ゲストハウスでの昼食だった。個々の話は忘れてしまったが、仏教関係の話が多かった。唯一覚えているのは、通勤の途中でいくら長距離を歩いても運動にはならない。心臓がドキドキする早さでなければ疲れるだけだ、でした。
飲食を伴う際の会話は特別の意味がある。私は、この時以来そのことを実行し続けていた。最近は、Zoomなどによる遠隔会議が多いようだが、それでは、ヒトから人への伝承は、半分も充たされないと推察する。
20.2 今井専務取締役との思い出
・入社を決めたひとこと
私が今井さんに最初にお会いしたのは、修士2年生のリクルートで当時の石川島播磨の田無工場に見学に行った時だった。私に入社の意志は全くなく、友人に誘われてのことだった。しかし、その時話をしてくださった当時の今井副事業部長の、「ジェットエンジンの研究と開発は技術者にとって、これほど面白いものはない」が、気持ちを一転させ、友人を押しのけて入社を決めてしまった。ロシア語のジェットエンジンに関する本を翻訳された工学博士が身近に感じられたからであった。
・さんざん政府の補助金にお世話になったのだから、
私が陸海空のミサイルに用いられる個体ロケットを得意とする新会社(当時、C.ゴーンがCEOになった日産自動車の独占生産だったが、IHIが営業譲渡を受けて、私は新会社設立の準備室長から続けて、初代の代表取締役を担った)に移ってからは、今井さんから頻繁にメールが来るようになり、年に数回のペースでお宅へ伺うことになった。最初の言葉は,「ミサイルとジェットエンジンは防衛庁にとって全く違う製品になる。一旦国際間の緊張が高まった時に、どうするかを常に考えておきなさい」だった。
そして、十数年後の定年間近になった時には、「さんざん政府のお世話になったのだから、これからは社会に還元することを考えなさい」との再三の会話から、デザイン・コミュニティー・シリーズという名の小冊子の作成(前月には、第24巻を発行)と、博士号の取得を目指すことになった。「博士の資格は、会社では全く役に立たないが、退社後には、JRのグリーン切符のように、使い勝手が良いので、絶対に取っておきなさい」だった。
「やればできるはずだ」、「これほど面白いものは無い」、「これからは社会に還元することを考えなさい」の三つの言葉は、何年経っても忘れることはない。
参考文献
(1)P.F. ドラッカー「テクノロジストの条件―ものづ くりが文明をつくる」ダイヤモンド社(2005)