第14章 日本での実用化と7年間の空白
14.2 空白の7年間の影響
日本は敗戦によって1945年から7年間、航空に関するすべての研究、開発、製造が禁止された。具体的には、昭和20年8月15日の無条件降伏後、8月24日には日本国籍のすべての航空機の飛行禁止、9月22日には「降伏後の日本に関する米軍の最初の政策」が発表されて、全ての軍用機と民間機の破壊が開始された。さらに、11月18日にはGHQからの覚書が発表されて、航空機に関する生産・研究・実験を始めとする一切の行為が禁止された。それによって、中央航空研究所、東京帝大航空研究所が廃止された。(1)
一方で、諸外国はその間に、レシプロエンジンから、ターボジェットエンジンへの大幅な切り替えが行われた。とくに米国では1950年からの朝鮮戦争用にジェットエンジンの大量生産が行われ、F100、F102戦闘機などの生産が進んだ。
日本が終戦直前に完成させたネ-20エンジンは、4台の完成品が米国に接収されて、米国内で運転試験が行われた。合計22回で11時間46分のデータと分解検査の経過が詳細な調査報告書に纏められた。このようにジェットエンジンは、最先端の軍事技術として、その当初から期せずして国際間で技術の伝承と共有が進んでいたことになる。
14.2.1 残された日本軍機
この間に破壊された日本製の機体とエンジンについては、米軍による詳細な記録が残され、その多くはワシントンの国立公文書館に保管されている。それらは、多くの写真を交えた大型本としてスミソニアン協会の国立航空宇宙博物館の元主席学芸員の手によって纏められた。原題は「Broken Wings of the SAMURAI」(9)
そこには、当時の戦場を始め世界各地に保存されている機体とエンジンについての詳細な記録も含まれている。特に東南アジアでは、残された機体とエンジンをもとに、戦後直後の各国の軍用機に関する技術の伝承も行われたと記されている。
「序文」には、『1945年6月末までに、8000機の体当たりがあり、4800機の陸軍機と、5900機の海軍機が特殊攻撃用に改造されていた』、と記されている。それらは、製造時は戦闘機、爆撃機、練習機および偵察機だった。このように、すべての航空機は特にエンジンの換装などにより、用途を比較的容易に代えることが可能で、このことは、現在でも広く行われている。
戦争の終末期には、米軍は上陸を敢行しなければならない。この作戦に対して、上陸地点で、無数の特攻機が上陸用舟艇に乗り移る局面で、戦艦や輸送艦に対して用いられると考えられていた。そのような状態では、本土上陸作戦は大いに危険であると判断されたことは、容易に推測される。
1946年末時点で、処理を終えた航空機の総数は12,735機で、そのうちの1,589機は、処分ではなく取得と記録されている。残された機体の一部は、エンジンと共に完全な状態でパナマ運河を通過して、ニューワークに送られ、オハイオ州デイトンの航空資材センターで一覧表が作成され、その際に独自の航空機識別番号が付与された。その中には飛行艇もあった。当時、米国が日本の航空機技術の系統化に、いかに熱心だったかが解る。
当時、飛行艇の設計技術は米国よりも日本が優れていたようで、特に次の様に記録されている。(9)
『アメリカに別便で輸送された、この川西H8K2 「エミリー“Emily”」(2式飛行艇12型)は、戦後入手した日本軍機の中でおそらく最も役に立った機体である。第2次世界大戦中の4発飛行艇の中で最も効率の良
いことが認識されていたので、その艇体形状は何回も滑水試験を繰り返して徹底的に評価されたのである。
貴重な調査結果は後にアメリカ海軍P5M 「マーリン」、P6M「シー・マスター」およびR3Y「トレードウインド」飛行艇に適用された。』(p.127)
図14.8 2式飛行艇12型(9)
この飛行艇のエンジンは、三菱火星22型(1,850馬力)で、最高速度は高度5,000mで465km/h、M0.38、
航続距離 7,153km(偵察過荷)とある20mm旋回銃5門、7.7mm旋回銃4門を装備し、爆弾最大2t(60kg×16)または航空魚雷×2の爆装が可能なので、当時としては飛行性能と装備に関して世界でも有数な能力があったと思われる。
なお、飛行艇のエンジンはレシプロ機では大きな変更は必要ないが、ターボエンジンの場合には、エンジン
前方から波しぶきを被った時の水吸い込みに拠るエンジン停止が大問題になる。
14.2.2 影響の概要
我が国のジェットエンジンの歴史は、松木正勝により次のような5期間に纏められている(10)
第1期 第2次世界大戦終了まで(黎明期)
第2期 終戦から1952年の航空再開まで(一切の活動禁止期)
第3期 航空再開から1970年まで(基礎技術の蓄積期)
第4期 1971-1988年の通産省大型プロジェクト終了まで(発展期)
第5期 1979年からの国際共同開発期(実用期)
当初から現在まで、航空機用エンジンの研究と開発には官用・民用を問わず国家予算からの援助が続けられている。軍用機(現在は自衛隊機)に関する諸技術の維持・向上が主目的だが、その技術の多くが民間機用エンジンの国際共同開発で維持され、さらに更新されている。このことは、自衛隊機用のエンジン開発は、よくても10年に一度なので、その間の技術者の維持・育成と新技術の取得は、民間用のエンジン開発プロジェクトに頼らざるを得ない状況から生じている。この状況は、軍用機用エンジン開発に継続して膨大な予算があてられている米英の状況とは全く異なる。
その様な状況下にあって、1979年から始まった国際商品としての民間航空機用のジェットエンジンの開発は、既に40年間も続いているが、国際共同開発の枠組みから脱して、独自のジェットエンジンを開発できる状況にはない。僅かに、ホンダジェットがビジネス機の分野で頑張っているだけである。この状況は、空白の7年間の影響から、まだ抜け出せていないと考えられる。つまり、第5期が40年間以上も続いており、第6期への入り口は見えていない。
第2期の一切の航空関係の研究と産業が禁止された期間中には、我が国の技術は産業用ガスタービンの分野で続けられた。それは、運輸技術研究所、機械試験場などの国立研究機関が主であった。
この間の実例としては、「鉄研1号ガスタービン」が挙げられる。このエンジンは戦時中に石川島芝浦タービンで開発中だった高速魚雷艇用のものを、堀り起こして改造したとされている。戦後、航空用に従事していた海軍空技廠と中央航研の技術者約20人が、鉄道技術研究所(以下、鉄研)に入り、開発予算を獲得した。この時の石川島芝浦タービンの社長は土光敏夫で、彼はこの後も航空用の立ち上げに大いに貢献した。この時のメンバーの山内正男(後の航空宇宙技術研究所所長)は、「しかし、航空用ガスタービンの隠れ蓑というような意図は全くなかった」と語っている。(13)
しかし、当時の鉄研の所長の中原寿一郎の「日本はいま航空の研究は禁じられているが、いつか必ず再開される日が来る。その日のために、この人たちは大切に育ててほしい。」(13)という言葉が遺されている。このガスタービンは、完成後の試験運転で何度も失敗を繰り返し、そのたびに改良が加えられた。潤沢な研究費と、実験室を長期間自由に使うことを提供した土光のお蔭であった。
最終的には、1時間以上の定格・耐久運転に成功したが、目標の燃費には遙かに及ばず、更に騒音が都市部の機関車には不適当ということで、鉄道用の動力源としての採用には至らなかった。
このガスタービンは、後に運輸技術研究所に引き継がれ、和歌山県の興亜石油の給油所内のコンプレッサー駆動用として使用された。このように、技術の伝承は人を通じて行われていたが、基礎技術は維持できても、航空用としての実用化と運用面の技術は全く育成ができずに、その影響は今日まで続いている。
コラム
終戦直後の大学の航空学科とその学生の動向が、八田圭三「ジェトエンジン再開」(17)に詳しく書かれている。このような人脈によって日本のジェットエンジン技術は、かろうじて保たれたと云える。
『それにしても 戦時中に大膨張していた各大学の工学部の航空学科としては,多数の学生をかかえているわけですから,この禁止指令は反抗できない占領軍命令とはいえ大変だったわけで,学生をそのままほうり出すわけには参りませんので,マッカーサー司令部とあれこれ交渉して,やっと在校生だけは,航空以外の教育をして卒業させるという了解(当時の大学は3年制でしたので,航空学科の学生が1学年卒業すると教,助教授の数も1/3 減らし,3年間で消滅するという条件でした)をとりつけたわけです。それでたとえば東京帝大第―工学部の卒業生のなかに内燃機関学科(航空学科原動機専修の過渡的学科名)卒業という方がおられたりすることになった次第です。私は幸い機械工学科に採用され引きつづき大学にのこれましたが,それらの結果,工学部や研究所の航空関係のかなりの数の教,助教授が退任を余儀なくされました。しかし航空機や航空原動機の設計や性能に直接結びついた講義や研究はできませんが,航空に直接的に関係のない流体力学の研究や教 育ができないわけでなく,航空原動機はいけないが陸舶用のピストンエンジンや,ガスタービンに関する研究や教育は行われたわけです。戦後私なども機械学会などで今から思うと極めて初歩的で恥ずかしくなるようなガスタービンの話を良くしたものです。』
14.2 空白の7年間の影響
日本は敗戦によって1945年から7年間、航空に関するすべての研究、開発、製造が禁止された。具体的には、昭和20年8月15日の無条件降伏後、8月24日には日本国籍のすべての航空機の飛行禁止、9月22日には「降伏後の日本に関する米軍の最初の政策」が発表されて、全ての軍用機と民間機の破壊が開始された。さらに、11月18日にはGHQからの覚書が発表されて、航空機に関する生産・研究・実験を始めとする一切の行為が禁止された。それによって、中央航空研究所、東京帝大航空研究所が廃止された。(1)
一方で、諸外国はその間に、レシプロエンジンから、ターボジェットエンジンへの大幅な切り替えが行われた。とくに米国では1950年からの朝鮮戦争用にジェットエンジンの大量生産が行われ、F100、F102戦闘機などの生産が進んだ。
日本が終戦直前に完成させたネ-20エンジンは、4台の完成品が米国に接収されて、米国内で運転試験が行われた。合計22回で11時間46分のデータと分解検査の経過が詳細な調査報告書に纏められた。このようにジェットエンジンは、最先端の軍事技術として、その当初から期せずして国際間で技術の伝承と共有が進んでいたことになる。
14.2.1 残された日本軍機
この間に破壊された日本製の機体とエンジンについては、米軍による詳細な記録が残され、その多くはワシントンの国立公文書館に保管されている。それらは、多くの写真を交えた大型本としてスミソニアン協会の国立航空宇宙博物館の元主席学芸員の手によって纏められた。原題は「Broken Wings of the SAMURAI」(9)
そこには、当時の戦場を始め世界各地に保存されている機体とエンジンについての詳細な記録も含まれている。特に東南アジアでは、残された機体とエンジンをもとに、戦後直後の各国の軍用機に関する技術の伝承も行われたと記されている。
「序文」には、『1945年6月末までに、8000機の体当たりがあり、4800機の陸軍機と、5900機の海軍機が特殊攻撃用に改造されていた』、と記されている。それらは、製造時は戦闘機、爆撃機、練習機および偵察機だった。このように、すべての航空機は特にエンジンの換装などにより、用途を比較的容易に代えることが可能で、このことは、現在でも広く行われている。
戦争の終末期には、米軍は上陸を敢行しなければならない。この作戦に対して、上陸地点で、無数の特攻機が上陸用舟艇に乗り移る局面で、戦艦や輸送艦に対して用いられると考えられていた。そのような状態では、本土上陸作戦は大いに危険であると判断されたことは、容易に推測される。
1946年末時点で、処理を終えた航空機の総数は12,735機で、そのうちの1,589機は、処分ではなく取得と記録されている。残された機体の一部は、エンジンと共に完全な状態でパナマ運河を通過して、ニューワークに送られ、オハイオ州デイトンの航空資材センターで一覧表が作成され、その際に独自の航空機識別番号が付与された。その中には飛行艇もあった。当時、米国が日本の航空機技術の系統化に、いかに熱心だったかが解る。
当時、飛行艇の設計技術は米国よりも日本が優れていたようで、特に次の様に記録されている。(9)
『アメリカに別便で輸送された、この川西H8K2 「エミリー“Emily”」(2式飛行艇12型)は、戦後入手した日本軍機の中でおそらく最も役に立った機体である。第2次世界大戦中の4発飛行艇の中で最も効率の良
いことが認識されていたので、その艇体形状は何回も滑水試験を繰り返して徹底的に評価されたのである。
貴重な調査結果は後にアメリカ海軍P5M 「マーリン」、P6M「シー・マスター」およびR3Y「トレードウインド」飛行艇に適用された。』(p.127)
図14.8 2式飛行艇12型(9)
この飛行艇のエンジンは、三菱火星22型(1,850馬力)で、最高速度は高度5,000mで465km/h、M0.38、
航続距離 7,153km(偵察過荷)とある20mm旋回銃5門、7.7mm旋回銃4門を装備し、爆弾最大2t(60kg×16)または航空魚雷×2の爆装が可能なので、当時としては飛行性能と装備に関して世界でも有数な能力があったと思われる。
なお、飛行艇のエンジンはレシプロ機では大きな変更は必要ないが、ターボエンジンの場合には、エンジン
前方から波しぶきを被った時の水吸い込みに拠るエンジン停止が大問題になる。
14.2.2 影響の概要
我が国のジェットエンジンの歴史は、松木正勝により次のような5期間に纏められている(10)
第1期 第2次世界大戦終了まで(黎明期)
第2期 終戦から1952年の航空再開まで(一切の活動禁止期)
第3期 航空再開から1970年まで(基礎技術の蓄積期)
第4期 1971-1988年の通産省大型プロジェクト終了まで(発展期)
第5期 1979年からの国際共同開発期(実用期)
当初から現在まで、航空機用エンジンの研究と開発には官用・民用を問わず国家予算からの援助が続けられている。軍用機(現在は自衛隊機)に関する諸技術の維持・向上が主目的だが、その技術の多くが民間機用エンジンの国際共同開発で維持され、さらに更新されている。このことは、自衛隊機用のエンジン開発は、よくても10年に一度なので、その間の技術者の維持・育成と新技術の取得は、民間用のエンジン開発プロジェクトに頼らざるを得ない状況から生じている。この状況は、軍用機用エンジン開発に継続して膨大な予算があてられている米英の状況とは全く異なる。
その様な状況下にあって、1979年から始まった国際商品としての民間航空機用のジェットエンジンの開発は、既に40年間も続いているが、国際共同開発の枠組みから脱して、独自のジェットエンジンを開発できる状況にはない。僅かに、ホンダジェットがビジネス機の分野で頑張っているだけである。この状況は、空白の7年間の影響から、まだ抜け出せていないと考えられる。つまり、第5期が40年間以上も続いており、第6期への入り口は見えていない。
第2期の一切の航空関係の研究と産業が禁止された期間中には、我が国の技術は産業用ガスタービンの分野で続けられた。それは、運輸技術研究所、機械試験場などの国立研究機関が主であった。
この間の実例としては、「鉄研1号ガスタービン」が挙げられる。このエンジンは戦時中に石川島芝浦タービンで開発中だった高速魚雷艇用のものを、堀り起こして改造したとされている。戦後、航空用に従事していた海軍空技廠と中央航研の技術者約20人が、鉄道技術研究所(以下、鉄研)に入り、開発予算を獲得した。この時の石川島芝浦タービンの社長は土光敏夫で、彼はこの後も航空用の立ち上げに大いに貢献した。この時のメンバーの山内正男(後の航空宇宙技術研究所所長)は、「しかし、航空用ガスタービンの隠れ蓑というような意図は全くなかった」と語っている。(13)
しかし、当時の鉄研の所長の中原寿一郎の「日本はいま航空の研究は禁じられているが、いつか必ず再開される日が来る。その日のために、この人たちは大切に育ててほしい。」(13)という言葉が遺されている。このガスタービンは、完成後の試験運転で何度も失敗を繰り返し、そのたびに改良が加えられた。潤沢な研究費と、実験室を長期間自由に使うことを提供した土光のお蔭であった。
最終的には、1時間以上の定格・耐久運転に成功したが、目標の燃費には遙かに及ばず、更に騒音が都市部の機関車には不適当ということで、鉄道用の動力源としての採用には至らなかった。
このガスタービンは、後に運輸技術研究所に引き継がれ、和歌山県の興亜石油の給油所内のコンプレッサー駆動用として使用された。このように、技術の伝承は人を通じて行われていたが、基礎技術は維持できても、航空用としての実用化と運用面の技術は全く育成ができずに、その影響は今日まで続いている。
コラム
終戦直後の大学の航空学科とその学生の動向が、八田圭三「ジェトエンジン再開」(17)に詳しく書かれている。このような人脈によって日本のジェットエンジン技術は、かろうじて保たれたと云える。
『それにしても 戦時中に大膨張していた各大学の工学部の航空学科としては,多数の学生をかかえているわけですから,この禁止指令は反抗できない占領軍命令とはいえ大変だったわけで,学生をそのままほうり出すわけには参りませんので,マッカーサー司令部とあれこれ交渉して,やっと在校生だけは,航空以外の教育をして卒業させるという了解(当時の大学は3年制でしたので,航空学科の学生が1学年卒業すると教,助教授の数も1/3 減らし,3年間で消滅するという条件でした)をとりつけたわけです。それでたとえば東京帝大第―工学部の卒業生のなかに内燃機関学科(航空学科原動機専修の過渡的学科名)卒業という方がおられたりすることになった次第です。私は幸い機械工学科に採用され引きつづき大学にのこれましたが,それらの結果,工学部や研究所の航空関係のかなりの数の教,助教授が退任を余儀なくされました。しかし航空機や航空原動機の設計や性能に直接結びついた講義や研究はできませんが,航空に直接的に関係のない流体力学の研究や教 育ができないわけでなく,航空原動機はいけないが陸舶用のピストンエンジンや,ガスタービンに関する研究や教育は行われたわけです。戦後私なども機械学会などで今から思うと極めて初歩的で恥ずかしくなるようなガスタービンの話を良くしたものです。』
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます