生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

その場考学との徘徊(55) 題名;正月の博物館(その2)

2019年01月08日 08時12分39秒 | その場考学との徘徊
その場考学との徘徊(55) 題名;正月の博物館(その2)

場所;東京都 年月日;H31.1.6
テーマ;正月のウオーキング   作成日;H31.1.7 アップロード日;H31.1.8                                                      

TITLE: 正月の博物館(その2)

 東京の今年の正月は、穏やかな日が続いている。雲は出やすいのだが、その分風がないのが徘徊には大いに助かる。2日に続いて、今日も博物館でのウオークングを楽しむことにした。もと渋谷にあった「塩とたばこの博物館」だ。都営地下鉄の新宿線と浅草線を乗り継げば、かなり楽に行くことができる。
 本所吾妻橋の駅の出口を上ると、目の前にスカイツリーがでーんとそびえているのには、驚かされた。全く想像をしていなかった景色で、思わず写真を撮ると、飛行機が写っていた。


 
歩いて10分ほどで博物館に着いたのだが、入り口が道路から引っ込んでいてわからず、犬の散歩中のご婦人に聞いてしまった。入口には、昔し渋谷にあった像が置いてある。





 お目当ては、開催中の「ウイーン万国博覧会」の展示物だが、これは撮影できない。入場券売り場で、午後の映画会について聞いた。整理券をくれるという。内容を尋ねると、「淀川長治さんの解説付きです」と言って、あらすじを書いたパンフレットを出してくれた。上映まで5時間もあるが、スカイツリーで時間がつぶせそうなので、早速整理券も頂くことにした。


 
1873年にウイーンで展示された実物は、どれも見ごたえがあった。
特に、当時のメアシャム製の喫煙具の作りの精巧さには、驚かされた。メアシャムとは、トルコ周辺の地中海沿岸地域で採取される「海泡石」と呼ばれる石で、柔らかくて細かい彫刻を施すことができるそうだ。(写真は絵葉書)
 


 展示は二部屋に分かれており、第2室は「博覧会後の日本での業績」が展示されていた。私は、むしろこちらに興味をひかれた。ロンドンやパリの万国博は有名だが、日本が国家として正式に参加したのは、ここが初めて。そこで、政府は多くの若い技能者を研修を兼ねて送り出した。
 
直後に、上野公園でこれに似せた博覧会を大規模に行い、その展示物などを纏めて、今の国立博物館の前身ができたそうだ。日本の作品は、ウイーンでは多くの賞とメダルを獲得した。作家は、地方在住者が多く、それぞれの自治体が日本語の賞状を作り、本人に渡していた。

 中に、意外なものがあった。大皿で「旭焼」とあり、「東京工業大学の前身となる東京職工学校の試験室でつくられた」とあった。指導したのは、ウイーン万博の参加計画にも携わった「ゴットフリード・ワグネル博士とある。少し調べてみると、2016.12の「東工大ニュース」に記事があった。

『明治初期に開発し、日本の陶磁器を美しく進化させた釉下彩陶器「旭焼7点」(東京工業大学博物館所蔵)が、3月26日に「日本化学会認定化学遺産第38号」の認定を受けました。(中略)
ワグネル博士は、スイスで数学教師を勤めました。1868年に来日し、1870年に佐賀藩の委嘱により肥前有田で製陶の新技術を指導しましたが、廃藩置県により1871年に東京大学の前身校の教師となり、またオーストリアの万国博覧会の御用掛となって出品物の選択・製作の指導や日本の職人にヨーロッパの新技術を学ばせました。(中略)ワグネル博士が、教え子で助手の植田豊橘氏と共に、今回、化学遺産に認定された「旭焼」(最初は吾妻焼)製作の実験研究を開始したのは、1883年東京大学理学部教授時代の実験室においてでした。ワグネル博士は白い素地(きじ)の上に多色の美しい日本画を描き、その上に釉薬をかけて焼き上げようとしましたが、釉薬にひびが入りました。試験体の成分をやや珪酸質にしたところ釉薬にひびが入らないことには成功しましたが、次は素地が割れてしまいました。』
 
この焼き物は、工業化されて「東京深川区東元町旭焼製造場」が設立されたが、1896年には閉鎖された、と展示の説明書きにある。旭焼が短命だったのは、なぜなのだろうか。
 
肝心の「塩とたばこ」の通常展も、なかなかに興味深いものがあった。特にたばこの起源がインカにあり、呪術師が神とのつながりを示すために、わざと煙を吐いて見せたことは、タバコの葉の原産地がその地方のこともあり、納得がゆく。



 たばこの展示は、開業以来のすべてのたばこと、その宣伝ポスターの時代順の流れが、面白かった。懐かしいパッケージが次々と並んでいる。あの「ゴールデンバット」だけは、開業直後から現在まで繋がっていた。



 2時間ほど過ごして、昼食をとりにスカイツリーに向かった。途中にこんな看板があった。金座と銀座は有名だが、ここには「銭座」があった。200メートル四方以上の広い土地だったようだ。



 「ソラマチ」は、開業当時は随分と混乱していたが、客の流れも落ち着いており、ゆっくりと昼食をとることができた。一人なので、レストランは避けて、3階のフードコートと思ったが、2階の名店街においしそうな折り詰めが、いろいろ並んでいた。その一つを買って、横のテーブルで楽しんだ。




 上の階の「墨田区の伝統工芸品」も見事だったが、どれも高価で手が出ない。8階で別のエレベータに乗り換えると、9階に「郵政博物館」がある。時間があるので覗いてみることにした。ここまでくる客はいなかった。ここは、郵政というよりは、「切手博物館」のようで、世界中の切手が整然と倉庫のように保管されている。



 その中に、一つだけ国別でないものがあった。「ダイアナ切手」だ。各国がこぞって発行したようで、一つの棚を占拠するほど大量にある。パネルを引き出すと、懐かしい切手もあった。結婚式当日にダービーの郵便局で記念切手と初日カバーを買って、東京の自宅宛てに手紙を書いた記憶が蘇った。



 その後、博物館に戻って、1934年作の「たそがれのウイーン」という映画を楽しんだ。当時の上流階級のゴシップ話だが、よくできた映画だった。

帰りに道は、運河添いの遊歩道をのんびりと歩いた。





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