富士の白雪
天気の良い冬の朝の八ヶ岳南麓からの景色は、白い真綿の布団の上に富士が悠然としかもくっきりと座っている姿が常である。布団の下にはすっぽりと甲府盆地が隠れている。夜には、そこ一面がキラキラと光る町の明かりに一変する。
冬の朝の散歩は、他の季節とは違った楽しみがある。どの山々もくっきりと見えるし、それぞれの雪のかぶり方を比べるのも面白い。八ヶ岳の南斜面は、さすがに雪は少ない。少し西に廻ると、裏側はびっしり積もった雪山を見ることができる。甲斐駒の岩肌は風が強いせいなのか、岩肌の性質なのか、雪がつくことはない。しかし、北岳と千丈の頂上は常に真っ白で、どの角度から見ても一目瞭然である。そんな事は、毎回繰り返しのことなのだが、寒さを忘れさせる景色なのだ。
しかし、雪姿の美しさは何と言っても富士山、これに勝るものは無い。しかも、静岡県側の南面は降っては融けてが繰り返されるが、ここからの雪は一旦降れば融けることは稀である。つまり、降り積もった雪の姿をひと冬じゅう愛でることができる。
先日、韮山の反射炉を見学した帰りに、静岡県側からの富士を見た。全面に日を浴びて、温かそうな富士山であった。ところで、韮山の反射炉の売店のおみやげは「農兵漬け」という、ちょっと変わった名前の漬けものだった。
その説明書にあるとおり、「富士の白雪やノ~エ」の「ノ~エ」は、農兵が訛ったものだと云う。
江戸末期の韮山代官が、上陸する米兵に対抗するために、農兵隊を組織して、その訓練に使用した行進曲という説明である。また反射炉は、米国の軍艦を打つための大砲の鋳造用につくられたもので、3つの炉で同時に精錬をして湯を流し込むと、丁度希望のサイズの鋳造が可能になった、との説明があった。
ちなみに韮山代官の治めた範囲の広さは、三島と江戸の3か所の役所で武蔵と相模の国の広い土地を治めていたようだ。当時の武蔵の国の南限は、三浦半島のすぐ近くまで及んでいたことも、
驚きだった。
天気の良い冬の朝の八ヶ岳南麓からの景色は、白い真綿の布団の上に富士が悠然としかもくっきりと座っている姿が常である。布団の下にはすっぽりと甲府盆地が隠れている。夜には、そこ一面がキラキラと光る町の明かりに一変する。
冬の朝の散歩は、他の季節とは違った楽しみがある。どの山々もくっきりと見えるし、それぞれの雪のかぶり方を比べるのも面白い。八ヶ岳の南斜面は、さすがに雪は少ない。少し西に廻ると、裏側はびっしり積もった雪山を見ることができる。甲斐駒の岩肌は風が強いせいなのか、岩肌の性質なのか、雪がつくことはない。しかし、北岳と千丈の頂上は常に真っ白で、どの角度から見ても一目瞭然である。そんな事は、毎回繰り返しのことなのだが、寒さを忘れさせる景色なのだ。
しかし、雪姿の美しさは何と言っても富士山、これに勝るものは無い。しかも、静岡県側の南面は降っては融けてが繰り返されるが、ここからの雪は一旦降れば融けることは稀である。つまり、降り積もった雪の姿をひと冬じゅう愛でることができる。
先日、韮山の反射炉を見学した帰りに、静岡県側からの富士を見た。全面に日を浴びて、温かそうな富士山であった。ところで、韮山の反射炉の売店のおみやげは「農兵漬け」という、ちょっと変わった名前の漬けものだった。
その説明書にあるとおり、「富士の白雪やノ~エ」の「ノ~エ」は、農兵が訛ったものだと云う。
江戸末期の韮山代官が、上陸する米兵に対抗するために、農兵隊を組織して、その訓練に使用した行進曲という説明である。また反射炉は、米国の軍艦を打つための大砲の鋳造用につくられたもので、3つの炉で同時に精錬をして湯を流し込むと、丁度希望のサイズの鋳造が可能になった、との説明があった。
ちなみに韮山代官の治めた範囲の広さは、三島と江戸の3か所の役所で武蔵と相模の国の広い土地を治めていたようだ。当時の武蔵の国の南限は、三浦半島のすぐ近くまで及んでいたことも、
驚きだった。
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