その場考学との徘徊(51) 題名;秩父夜祭の藤娘
場所;埼玉県 年月日;H30.12.3
テーマ;祭りの楽しみ方 作成日;H30.12.8 アップロード日;H30.12.
TITLE: 秩父夜祭と藤娘
久しぶりに藤娘を見た。場所は、秩父神社の拝殿前の神門の階段下。時は、有名な秩父夜祭の最終日の朝。この藤娘は、なんと高校2年生。
夜祭での中身については後程、先ずは藤娘との出会いについて。
最初は、母親の雛飾りだったと思う。下の段に飾るいくつかの日本人形の中に、あった記憶がある。
次に出会ったのは、ほぼ30年前だった。当時GE社とのジェットエンジンの共同開発(現在、Boeing777機に搭載されて、世界中で飛び回っている)で、頻繁に訪れたオハイオ州の町で、ある家族から歓待を受けた。その時の仲間は10人ほどいたであろうか。なにかお礼をしなければと思い、考え付いたのが日本人形。しかし、季節外れでそれなりの日本人形を売っている店はなかった。そこで日本橋の十軒店へ向かった。「十軒店(じゅっけんだな)」とは、江戸初期に京都の人形店を十軒この地に移住させたとの記憶があった。幸い1件だけ残っていた店で、いくつかの藤娘に出会うことができ、無事お礼を届けることができた。
今の地図に「十軒店」の地名はない。ネットで調べると、こんな記事があった。
『十軒店跡 所在地 中央区日本橋室町三‐二‐一五
十軒店は雛市(ひないち)の立つ場所として知られていました。『寛永江戸図』に「十間たな」と記された、石町二・三丁目と本町二・三丁目に挟まれた小さな町で、日本橋通りの両側に面していました。江戸時代の初め、桃の節句・端午の節句に人形を売る仮の店が十軒あったことから、この名があるともいわれています。
江戸時代中期以降、三月と五月の節句や十二月歳暮市には内裏雛(だいりびな)・禿(かむろ)人形・飾道具・甲人形・鯉のぼり・破魔弓・手毬・羽子板など、季節に応じた人形や玩具を売る店が軒を並べていました。』
http://www.viva-edo.com/kinenhi/nihonbasi/jikkendana.html
歴史的な地名が、次々に消えてゆくのは寂しい。
さて、今回突然に夜祭に行こうと思ったのは、前日の日曜日の夕方の「笑点」でのタイヘイの発言だった。彼の冒頭のあいさつは、「明日は、秩父で最も有名なお祭りの最終日です」から始まった。その時は、年寄りなのだから、夜は長居はできない。昼から出かけて、暗くなったら直ぐに引き上げよう、と思って電車の時刻表を調べた。
一方で、祭りの行事を調べると、最終日の朝の9時から色々なことが目白押しになっている。思い切って早起きをして、それに駆けつけることにした。
池袋発の直通の特急の乗車券は、窓口で容易にとれた。車内はガラガラでゆっくりと車窓の景色を楽しみながらの旅は、武甲山を近くに見ることもできた。
西部秩父の駅前には、多くの露店が店を出していたが、どこも開店準備中。速足で秩父神社へ向かった。
境内には、すでに人だかりがあり、2台の鉾が並んでいた。順番に神門の階段下に向かい、拝礼をするように見えた。
てこを使って台車の向きを変え、階段下に寄せてゆく。責任者の襷をかけた長老の鐘の合図で、鉾は動き出す。
社殿を一回りして戻ると、丁度舞を収める女性が鉾に乗り込むところだった。そして、まもなく最初の舞の「手習子」が始まった。舞うのは高校1年生とあるのだが、とてもその若さとは思えない、落ち着いた舞だった。そして、選手交代で「藤娘」が始まった。それが、冒頭の写真だ。
なぜ、藤娘に拘るか。それは、30年前の贈り物の際に、「藤娘は不吉な人形だ」と言われた記憶があったためだ。幸い、神門の階段上から踊りをじっくりと楽しむことができた。この場所からは、長唄の歌詞もしっかりと聞き取ることができる。
Wikipediaには、こんな風に書かれている。
『藤娘は、大津絵の『かつぎ娘』に題をとった長唄による歌舞伎舞踊の演目。文政9年(1826年)江戸中村座初演、二代目關三十郎が舞った。作詞は勝井源八。もとは絵から出て来た娘が踊るという趣向の五変化舞踊のひとつだったが、六代目尾上菊五郎が娘姿で踊る藤の精という内容に変えて演出を一新して以来その型が一般的になり、今日でも人気の歌舞伎舞踊の演目の一つであるばかりか、日本舞踊でも必須の演目の一つとなっている。』
とあり、特に不吉ではない。
ちなみに、歌詞を調べると、
『若むらさきに とかえりの 花をあらわす 松の藤浪
人目せき笠 塗笠しゃんと 振かかげたる 一枝は
紫深き 水道の水に 染めて うれしきゆかりの色に
いとしと書いて藤の花 エエ しょんがいな 裾もほらほら しどけなく』で始まっている。
前の演目では「笠」、こちらはちゃんと「藤の枝」をもって舞っている。
舞が終わる頃に、交通整理があり、山門から神主の行列が入場した。神社の正式行事の「献幣使参向例大祭祭典」の始まりだった。
それが終わると、ようやく鉾は向きを変えて、大通りへ引き出されていった。
この祭りの、もう一つの目玉は、路上歌舞伎だ。広い大通りいっぱいに設置された「上町の屋台」と称する舞台の上で、本格的な歌舞伎が演じられる。第1幕は小学生が中心で、第2幕からは大人が演じる。
これもゆっくりと椅子に座って楽しむことができたのだが、その話はまた別途。
祭りの楽しみ方はいろいろある。夜祭と言って、夜が良いわけではなさそうだ。その土地の文化と伝統を学ぶためには、早朝からの行事にこそ、多くの楽しみがあることを強く感じた半日だった。
場所;埼玉県 年月日;H30.12.3
テーマ;祭りの楽しみ方 作成日;H30.12.8 アップロード日;H30.12.
TITLE: 秩父夜祭と藤娘
久しぶりに藤娘を見た。場所は、秩父神社の拝殿前の神門の階段下。時は、有名な秩父夜祭の最終日の朝。この藤娘は、なんと高校2年生。
夜祭での中身については後程、先ずは藤娘との出会いについて。
最初は、母親の雛飾りだったと思う。下の段に飾るいくつかの日本人形の中に、あった記憶がある。
次に出会ったのは、ほぼ30年前だった。当時GE社とのジェットエンジンの共同開発(現在、Boeing777機に搭載されて、世界中で飛び回っている)で、頻繁に訪れたオハイオ州の町で、ある家族から歓待を受けた。その時の仲間は10人ほどいたであろうか。なにかお礼をしなければと思い、考え付いたのが日本人形。しかし、季節外れでそれなりの日本人形を売っている店はなかった。そこで日本橋の十軒店へ向かった。「十軒店(じゅっけんだな)」とは、江戸初期に京都の人形店を十軒この地に移住させたとの記憶があった。幸い1件だけ残っていた店で、いくつかの藤娘に出会うことができ、無事お礼を届けることができた。
今の地図に「十軒店」の地名はない。ネットで調べると、こんな記事があった。
『十軒店跡 所在地 中央区日本橋室町三‐二‐一五
十軒店は雛市(ひないち)の立つ場所として知られていました。『寛永江戸図』に「十間たな」と記された、石町二・三丁目と本町二・三丁目に挟まれた小さな町で、日本橋通りの両側に面していました。江戸時代の初め、桃の節句・端午の節句に人形を売る仮の店が十軒あったことから、この名があるともいわれています。
江戸時代中期以降、三月と五月の節句や十二月歳暮市には内裏雛(だいりびな)・禿(かむろ)人形・飾道具・甲人形・鯉のぼり・破魔弓・手毬・羽子板など、季節に応じた人形や玩具を売る店が軒を並べていました。』
http://www.viva-edo.com/kinenhi/nihonbasi/jikkendana.html
歴史的な地名が、次々に消えてゆくのは寂しい。
さて、今回突然に夜祭に行こうと思ったのは、前日の日曜日の夕方の「笑点」でのタイヘイの発言だった。彼の冒頭のあいさつは、「明日は、秩父で最も有名なお祭りの最終日です」から始まった。その時は、年寄りなのだから、夜は長居はできない。昼から出かけて、暗くなったら直ぐに引き上げよう、と思って電車の時刻表を調べた。
一方で、祭りの行事を調べると、最終日の朝の9時から色々なことが目白押しになっている。思い切って早起きをして、それに駆けつけることにした。
池袋発の直通の特急の乗車券は、窓口で容易にとれた。車内はガラガラでゆっくりと車窓の景色を楽しみながらの旅は、武甲山を近くに見ることもできた。
西部秩父の駅前には、多くの露店が店を出していたが、どこも開店準備中。速足で秩父神社へ向かった。
境内には、すでに人だかりがあり、2台の鉾が並んでいた。順番に神門の階段下に向かい、拝礼をするように見えた。
てこを使って台車の向きを変え、階段下に寄せてゆく。責任者の襷をかけた長老の鐘の合図で、鉾は動き出す。
社殿を一回りして戻ると、丁度舞を収める女性が鉾に乗り込むところだった。そして、まもなく最初の舞の「手習子」が始まった。舞うのは高校1年生とあるのだが、とてもその若さとは思えない、落ち着いた舞だった。そして、選手交代で「藤娘」が始まった。それが、冒頭の写真だ。
なぜ、藤娘に拘るか。それは、30年前の贈り物の際に、「藤娘は不吉な人形だ」と言われた記憶があったためだ。幸い、神門の階段上から踊りをじっくりと楽しむことができた。この場所からは、長唄の歌詞もしっかりと聞き取ることができる。
Wikipediaには、こんな風に書かれている。
『藤娘は、大津絵の『かつぎ娘』に題をとった長唄による歌舞伎舞踊の演目。文政9年(1826年)江戸中村座初演、二代目關三十郎が舞った。作詞は勝井源八。もとは絵から出て来た娘が踊るという趣向の五変化舞踊のひとつだったが、六代目尾上菊五郎が娘姿で踊る藤の精という内容に変えて演出を一新して以来その型が一般的になり、今日でも人気の歌舞伎舞踊の演目の一つであるばかりか、日本舞踊でも必須の演目の一つとなっている。』
とあり、特に不吉ではない。
ちなみに、歌詞を調べると、
『若むらさきに とかえりの 花をあらわす 松の藤浪
人目せき笠 塗笠しゃんと 振かかげたる 一枝は
紫深き 水道の水に 染めて うれしきゆかりの色に
いとしと書いて藤の花 エエ しょんがいな 裾もほらほら しどけなく』で始まっている。
前の演目では「笠」、こちらはちゃんと「藤の枝」をもって舞っている。
舞が終わる頃に、交通整理があり、山門から神主の行列が入場した。神社の正式行事の「献幣使参向例大祭祭典」の始まりだった。
それが終わると、ようやく鉾は向きを変えて、大通りへ引き出されていった。
この祭りの、もう一つの目玉は、路上歌舞伎だ。広い大通りいっぱいに設置された「上町の屋台」と称する舞台の上で、本格的な歌舞伎が演じられる。第1幕は小学生が中心で、第2幕からは大人が演じる。
これもゆっくりと椅子に座って楽しむことができたのだが、その話はまた別途。
祭りの楽しみ方はいろいろある。夜祭と言って、夜が良いわけではなさそうだ。その土地の文化と伝統を学ぶためには、早朝からの行事にこそ、多くの楽しみがあることを強く感じた半日だった。
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