つれづれなるままに弁護士(ネクスト法律事務所)

それは、普段なかなか聞けない、弁護士の本音の独り言

国立市

2019-09-23 21:39:00 | 晴れた日は仕事を休んで
第30回。

ってか、「三連休は雨」予報はなんだったんだ?
ま、晴れたら晴れたでツーリングに行けるのでOKですが。(デ・ジャヴ?)

今回は国立市。
行って来たのは滝乃川学園。

「どこ、それ?」「なに、それ?」って声が聞こえて来そうだ。
あ、今、聞こえた。

滝乃川学園は石井亮一・筆子夫妻が開いた日本で最初の知的障碍児者の教育・福祉施設じゃ。
創立は1891年なので来年で創立130年!
これだけでもたいしたものですが、さらにいくつかスゴイとこをご紹介。

「滝乃川」の名称を冠しているのは、学園創立の地が東京都北区滝野川だったからだが、そもそも日本で初めて教育施設に「学園」という語を使ったのはこの滝乃川学園。

滝乃川学園には経営面を管理する理事長と、学園の教育・生活面を統括する学園長がおられるが、第3代理事長は渋沢栄一氏(もうすぐ一万円札)、第4代理事長は日本の初代国連大使沢田廉三氏

筆子さんは貞明皇后(大正天皇の皇后)の恩師でもあり、貞明皇后は生涯、亮一・筆子夫妻を尊敬し、滝乃川学園への皇室の物心両面での支援は平成の代まで途切れることなく続いている。
滝乃川学園を訪問した皇族をざっとあげると、秩父宮雍仁親王・勢津子妃、高松宮宣仁親王、明仁上皇・美智子上皇后、常陸宮正仁親王、東伏見宮依仁親王妃周子。
特に明仁上皇・美智子上皇后は平成の始めと終わりに二度にわたって学園を訪問されてます。

筆子さんは1898年に津田梅子(もうすぐ5000円札)とともに渡米して万国婦人倶楽部大会に出席するほどのスーパーエリート&才女。しかも、とんでもなく美人
二物も三物も与えられちゃって、神様って、時々、こういう不公平なことされるから我々凡人はたまりまへんな。

筆子さんの叔父の渡辺昇氏は勤皇の志士で坂本龍馬とも親交があり、薩長同盟周旋の功労者といわれる人物。

亮一氏はおそらくヘレン・ケラーが会った最初の日本人

自分の名を売ることを極端に嫌い、生前、学園内に胸像を飾ろうという話が出た時も顔色を変えて猛反対したほど一本筋の通った人物(現在は「石井亮一・筆子記念館」の1階に彼の胸像があります。)↓

亮一氏が見たら卒倒もんですな。

現在、「石井亮一・筆子記念館」となっている旧本館は1928年竣工。今では国の登録有形文化財


無料で内覧可能ですが、事前に学園に連絡が必要(今回、私は思い立っていきなり押しかけてしまったので事前アポ無し。それでも快く内覧を了解してくださいました。)。
あまりに申し訳ないので1階の亮一氏の胸像前にあった寄付金箱に1000円入れて来ました。

記念館の階段踊り場には日展の評議員・審査員も務める現代日本絵画を代表する内山孝画伯の作品が。
これ↓



1階の旧教室にある「天使のピアノ」は筆子さんが愛用していたもの。国立市の登録文化財
おそらく日本最古の輸入アップライト・ピアノ


2018年12月6日に明仁上皇・美智子上皇后(当時は天皇・皇后)が平成2度目の学園訪問をされた際には美智子上皇后がこのピアノで演奏してます。
ちなみにピアノの横にあるテーブルと椅子はその際の天皇・皇后の御休所(ごきゅうしょ・おやすみどころ)↓


現在、学園がある場所はもともと大隈重信が別荘を建てようとしていた8000坪の土地
学園が都心(創立当初の北区滝野川から移転した豊島区巣鴨)からの再移転先を探しているという話を聞き、大隈が別荘予定地をポンと譲ったという。
学園敷地内には矢川の清流も流れてます↓


学園内にある聖三一礼拝堂と鐘楼も国立市の登録文化財


聖三一礼拝堂では今も毎週日曜日に礼拝が行われているそうで一般人も出席可能。
というより、「開かれた学園」「利用者と地域の壁をつくらない」「地域全体で利用者を守っていく」との方針から、そもそも学園の正門には創立以来、「門扉」もなければ「守衛」もいません↓

なので日中は敷地内に自由に入れます。

鐘楼の鐘は英国ウェストミンスター寺院の鐘と同じ製造会社の特注品



1920年3月。
火災で園児6名が死亡するという惨事が発生しました。
園児を助けられなかったことに加えて経済的な困窮もあり、学園閉鎖を考えた石井夫妻を最も励ましたのも貞明皇后。

聖三一礼拝堂の裏手には火災で亡くなった園児たちと思われる方々の墓石が↓


真ん中の石碑には失意の石井夫妻を励まそうとした中村不折(!)の揮毫が↓


「あまつあけぼのに よびさまされて
あふぐもうれしな とはのみひかり」
と彫られてます。
(筆子が見たという、「亡くなった6名の園児が窓越しにやって来て讃美歌を歌ってくれた」という夢を歌にしたもの。)

不折は明治〜昭和に活躍した書家・洋画家。
夏目漱石の「吾輩は猫である」に挿絵を提供し、漱石が「本がこんなに売れたのは不折先生の挿絵のお陰です」と礼状まで送ったほどのスゴい人。
あと、「新宿中村屋」の商標もこの人の筆。

聖三一礼拝堂の裏手には「容幼孩就我」と彫られたもう一つの石碑があります。読み方は「幼孩の、我に就くを容れよ」


漢訳聖書のマタイによる福音書第18章第5節の聖句で、通常の聖書では同じくマタイによる福音書の第25章第40節、「あなた方が私の兄弟や姉妹たちの最も小さき者のひとりにしてくれたことは、私にしてくれたものなのです。」と同旨です。
亮一氏はこの一節を愛し、学園の基本理念としていたらしい。

この一節だけでは意味が分からない人(含む、私)はマタイによる福音書第25章の第31節から第46節までを通して読みましょう。

この学園には明治から今に至るまでの日本人の善意と不屈不倒の精神が凝縮してます。