30年来の友人Gちゃんと、彼の長男のS君と食事をした。
S君を間近に見たのは実に18年ぶりである。
初めて彼に会ったのは、S君の母上でもあり、Gちゃんの奥さんでもあったMさんの告別式だった。告別式の後、Gちゃんの先輩のNさんとカラオケに行き、私は泣きながら長渕剛さんの「祈り」を歌った。Nさんも泣いていた。
あの時、S君は小学1年生だったか。
母親を早くに亡くしたS君と弟はその後、Gちゃんの男手一つで(正確にはGちゃんと彼の母上の二人によって)育てられた。
S君は今年24歳になったという。
礼儀正しく、笑顔のかわいい、人好きのする青年に成長していた。
聞けば今、練馬区N町で一人暮らしをしているという。
今から40年前。
私が愛知県から上京して、サンケイ新聞(※当時はカタカナ表記だった)の新聞奨学生として東京で一人暮らしを始めた町もまたN町だった。
とっくの昔に潰れた、そのサンケイ新聞の販売所は、現在S君が住んでいるアパートから歩いて2分ほどの、川越街道の手前にあった。
新聞販売所のN所長は競馬好きで、毎週、ノミ屋で馬券を買っては私たちが集金してくる新聞の購読料をスってしまっていた。
給料が遅れることもしばしばで、販売所から新聞奨学生に提供すると約束されていた朝食と夕食だけではとても足りず、一緒に働いていた4人の新聞奨学生たちはいつも貧乏で、たいてい腹を空かせていた。
私は空腹を満たすために、配達途中に広がっていた畑から時々、キャベツを盗んできては、販売所の寮(築何十年だか見当もつかない一戸建てに私を含む3人の新聞奨学生が暮らしていた)でフライパンで炒めて食べた。味付けは醤油だけだった。
パン屋の店先のコンテナからパンを失敬して飢えを凌いだこともある。
あの頃、コンビニなどという洒落たものはなく、昔ながらのパン屋が2軒ほど、私の配達ルートの途中にあった。
パン屋はその日売るパンを毎日仕入れる。
仕入れたパンは早朝、配送のトラックが持ってきて、シャッターの降りた店先にコンテナごと置いていく。その積み重ねられたコンテナからパンを抜き取った。
せめてものお詫びに、パン屋が購読してないスポーツ紙をシャッターの下に差し込んでおいたりした。
入学した日本ジャーナリスト専門学校(※ジャナ専と呼ばれていた)にはほとんど顔を出さなかった。
午前4時に畑からキャベツを盗まなくても親にご飯を食べさせてもらえる同級生が羨ましく、さしたる理由もないままに彼らにイライラしたし、役に立つのやら立たないのやらさっぱり分からない専門学校の授業より、その日一日を生き抜くことの方が重要だった。
金もコネも知恵も力もなかったけれど、「こんなところで潰されてたまるか、今に見ていろ」といつも思っていた。
要するに貧乏で、捻(ひね)くれて、斜(はす)に構えて、世の中全部を敵に見立てることで、なんとか崩れ落ちないように自分を奮い立たせていた、ということだ。
あの頃、私に噛みつかれたりケンカを吹っかけられた人には申し訳ない、としか言いようがない。
今はどうだか知らないが、あの当時、つまり今から40年前。新聞奨学生はどの新聞社においても最低賃金レベルで使い捨てできる貴重な若い労働力だったのだと思う。そのことを私が思い知ったのは新聞奨学生初日のことだった。
全国から集められた私たちは、上京した最初の日、大手町のサンケイ新聞本社で(もしかしたら日本青年館だったかもしれない。この辺は既に記憶が曖昧だ)、たぶん、新聞奨学生を管理している部の部長だか役員だか偉そうな人の訓示を受けた。
サンケイ新聞本社(だったか日本青年館だったか)の大講堂みたいな場所に集められた私たちに向かって彼はこう言った。
「これから君たちは我がサンケイ新聞の新聞奨学生としての一歩を踏み出す。新聞というのは、どんなに優秀な記者が足を棒にして取材しても、どんなに素晴らしい記事を書いても、読者の家庭に届かなければ何の意味もない。尻を拭く役にすら立たない紙屑である。我々が作り出した『新聞』という、民主主義社会においてなくてはならない商品を、読者の家庭に毎日届けるのは君たちの仕事だ。君たちが読者の家庭に配達してはじめて、『文字を印刷しただけの紙』は『新聞』となるのだ。だから雨が降ろうと雪が降ろうと届けてもらわねばならない。人間だから風邪をひいたり体調を崩したりすることもあるだろう。しかし、そういう時に故郷のご両親に連絡などしてはならぬ。連絡したところで、故郷のご両親は何もできないではないか。わが子に何もしてやれない親は心配をするしかない。親に心配をさせる子どもを親不孝者という。君たちは親不孝者になってはならない。風邪をひいたり、体調を崩した時は、治ってからご両親に連絡したまえ。『前日まで体調を崩していましたが、今は元気です』と。それが親孝行というものだ。本当に君たちの身が危険な時は販売所の所長や我々がご両親に連絡してあげるから、君たちは日々の仕事と勉強に精を出したまえ」
正論である。
私の横に立っていた同い年の男は目を輝かせてウンウンと頷いていたけれど、私は、「要するに、お前たちは末端の労働力なのだから、俺たちが雨露をしのぐ場所を提供してやるかわりに、雨が降ろうと槍が降ろうと少々身体を壊そうと、ただ黙って働けってことじゃねーか」と思って聞いていた。
こういう正論を額面通りに受け取って首肯できる、自分と同世代の若者が自分の右隣にいる、ということに何より驚いた。
穿(うが)った、もしくは捻(ひね)くれた解釈とお叱りを受けるかもしれないが、私はあの時の訓示を聞いて、
「なるほど。金がない、というのは同い年の大学生たちのようにチャラチャラ浮かれた学生生活を送れない、というだけではなく、安価な労働力扱いされても文句も言えない、ということなのだな。これが社会というものか」
と妙に覚悟を固めたりした。
実際に働き暮らした新聞奨学生の生活はそんな想像を遥かに超えて過酷だった。
新聞奨学生として働けば、学費も生活費も住むところもなんとかなる、給料だって貰えると言われて、愛知の田舎から出てきた18歳の馬鹿ガキの甘っちょろい夢が叩き壊されるのにたいして時間はかからなかった。
(続く)