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つれづれなるままに弁護士(ネクスト法律事務所)

それは、普段なかなか聞けない、弁護士の本音の独り言

キャベツ畑は遥か遠く2

2022-06-22 01:39:00 | 日記
新聞奨学生の生活は過酷だ。
きっと今でも同じはずだ

毎日午前4時起床。
寮から歩いて5分の新聞販売所に行って、その日の折込チラシを手作業で新聞に挟み込んで、午前5時くらいから配達が始まる。
雨が降ろうと雪が降ろうと。

12時間後には夕刊の配達がある。
朝刊と違って折込チラシもないし、朝刊購読だけの家もあるので朝に比べれば楽なのだけれど、これまた配達は猛暑日だろうとなんだろうと関係ない。
なので、学校の授業が終わって友人たちとちょっとお茶でも・・・ということすら新聞奨学生には許されない。

そんな生活をしつつ、東京に出てきて最初の夏。僕は中型二輪の免許を取った。
同じ寮の2階にいた1年上の新聞奨学生の平山さん(下の名前は忘れてしまった。たしか中央大学法学部を目指している浪人生だった)は大のバイク好きで、ヤマハだかカワサキだか忘れてしまったけれど愛車はいつも丁寧に磨きあげられた400ccだった。たまに横浜や茅ヶ崎までタンデムで連れて行ってもらったりもした。
中学、高校と読み続けていた片岡義男は相変わらず僕のバイブルだった。
金があるとかないとかじゃなくて、あの当時の僕が中型二輪の免許を取ったのは、もう必然以外のなにものでもなかった。
金がないので公認の(つまりそこを卒業すれば運転免許試験場での実技試験が免除される)教習所には行けない。
平山さんが教えてくれた未公認の教習所に行って練習した。KM自動車教習所という名前だった。
鮫洲の運転免許試験場と全く同じに作られた荒川の河川敷の練習コースで、1時間2500円くらいの練習料を払って実技試験の練習をする(正確な金額は忘れた。もっと安かったかもしれない)。20回練習に通っても1回2500円なら50000円だから公認の教習所に行くよりは安い(ちなみに僕はその後、限定解除の免許も同じKM自動車教習所で練習して取った)。
2度目の試験で合格して、無理をしてローンを組みヤマハのXJ400を買った。嬉しくて毎晩、平山さんと都内を走り回っていた。

入学した専門学校(※日本ジャーナリスト専門学校=ジャナ専)の授業はつまらなくて三日で飽きてしまった。最低限の単位を取るためにしか顔を出さなくなった僕にとっては、平山さんとXJ400だけが友だちだった。
当時のXJ400はいくらだったのだろう。
今、ネットの中古車サイトを見てみたら200万とかで売られているらしい。確かに名車の部類に入るバイクだけれど、キチガイじみた値段だとしか思えない。少なくともあの頃の僕のような、ただただオートバイが好きなだけの貧乏青年がおいそれと手を出せるような値段ではなくなってしまった。

当時の値段は忘れてしまったけれど、僕は憧れのXJ400と引き換えに数十万円の借金も背負った。
前回の記事で書いたとおり所長は競馬狂い。
給料は遅れる。
親からの仕送りはない。
たまにキャベツやパンを盗んで飢えを凌ぐ。
焦っていたのだろう。
とにかく金が欲しかった。

そんな僕に小学校から高校まで一緒で、早稲田大学に入っていたSから連絡があった。
金になる話がある、という。
参加する人間は多いほどいいから、他にも声を掛けろ、という。
僕は同じジャナ専に通っていた、同じサンケイ新聞の新聞奨学生だったKちゃん(男)と、毎朝、配達途中の平和台の団地で顔を合わせていた朝日新聞の新聞奨学生のAちゃん(女)を誘った。
「俺の幼なじみの早稲田に行ってる信用できる奴の話だから」と声を掛けて、3人でSに連れられて新宿にある説明会場に行った。
会場には僕と同じようにSに誘われたのだろう、Sと同じく小学校から高校まで一緒だったHの姿もあった。仲の良かったHの顔を見て、さらに僕は安心した。

説明会場では高そうなスーツを着た男が、35万円の羽毛布団の購入を僕らに勧めてきた。
高級スーツを着た詐欺師が言った。

35万円で羽毛布団を買ってほしい。
分割払いを希望するなら信販会社もこちらで用意する。
羽毛布団を1セット買えば、君たちは「小売店」としての資格を手にできる。
「小売店」が誰かに羽毛布団を販売すれば、10%の売上手数料を貰える、という。
2人以上のカモに羽毛布団を売りつければ「小売店」は「代理店」に格上げされる、という。
「代理店」の売上手数料の率は8%に下がるけれど、自分が羽毛布団を売りつけた2人の「小売店」が、それぞれ新たな2名に羽毛布団を売りつければ、その「小売店」は「代理店」に昇格、「代理店」は「統括代理店」に昇格できる。
最初に自分が羽毛布団を売りつけた2名のその先の2名のそのまた先の2名の・・・、彼らが羽毛布団を誰かに売りつけるたびに君たちには売上手数料が支払われる。「統括代理店」「代理店」「小売店」の組織がうまく回り始めれば月収100万も夢ではない。

正確な金額と手数料のパーセンテージは忘れてしまったけれど、要するにマルチ商法の勧誘だった。

地方から出て来たばかりの、世間知らずで、貧乏で、頭の悪い僕らには、それがどれだけ破滅的な、馬鹿馬鹿しいくらいのインチキ商法なのかわからなかった。
小学校以来の幼なじみで、僕が大好きだった片岡義男の母校でもある早稲田に通っていたS。
彼が僕や僕の友だちを嵌(は)めるなんて考えもしなかった。

Sの実家は、母親が小学4年生だった僕を連れて親父と別居を始めたときに最初に住んだ三郷(さんごう)のボロ家の近くにあった。3階建ての立派な家だった。
3階にあったSの勉強部屋は8畳かそれ以上あって、僕と母親が寝ていた部屋より遥かに広く、そして綺麗だった。
家が近所ということもあって、Sはよく僕と遊んでくれた。
中学3年のときは同じクラスにもなったが、何故か、Sはヤンチャな不良少年グループのYやMから蛇蝎(だかつ)の如く嫌われていた。
不思議に思いつつも、寂しかった小学校時代にそばにいてくれたSを僕は友だちだと思い続けていた。
今から思えば、YやMは、鼻持ちならないSのインチキ臭さを不良少年の多くが備えている独特の嗅覚で感じ取っていたのだと思う。
僕はそんなYやMの嗅覚をこそ信じるべきだったのだ、とも思う。

僕とKちゃんとAちゃんとHに羽毛布団を売りつけたSにどれだけの「販売手数料」が入ったのかは知らない。興味もない。

そして僕とKちゃんとAちゃんは、羽毛布団のローンだけを背負(しょ)い込んだ。
「その日暮らし」を地で行くような貧乏な新聞奨学生たちが、だ。

昨年、ジャナ専の同期だったMさんから誘われて同期生の飲み会に初めて参加した。
まともに学校に行かなかった(卒業式の日でさえ、高田馬場の雀荘で麻雀を打っていた)僕は、正直、名前を名乗られても誰が誰やらさっぱりわからなかったけれど、Kちゃんの話題が出たとき、僕は凍りついた。

「そう言えばKちゃんてさ、ある時期から学校で狂ったようにみんなに羽毛布団売りつけようとしてたよね。あれ、ちょっとひいたわ」

「そのきっかけを作ったのは僕だ」と告白して、Kちゃんと今でも連絡を取っているのか、と飲み会に出ていたメンバーに聞いてみたが、誰もKちゃんが今、何処にいるのか、何をしているのか知らなかった。
そもそもジャナ専を卒業した後、Kちゃんが何処に行ったのかすら誰も知らなかった。

Sはその後、早稲田を卒業し、今では東海地方の某サッカー関係の団体のトップをつとめている。
故郷に帰って高校時代の仲間と会うと、みんなは口を揃えて「俺たちの同期の出世頭はやっぱりSだよなぁ」という。
「あいつ、この前、ポルシェに乗ってたぜ」とも聞いた。

しかし、僕にとってSは友だちだったが、彼にとって僕は金づるの一人に過ぎなかった。
自分が友だちだと思っていても、相手も自分のことを友だちと思ってくれているとは限らないこと。
世の中にうまい話などありはしないこと。
おいしい儲け話を持ちかけられたら、最初に「自分はそんな儲け話を教えてもらえるほどたいした人間なのか?」と必ず自問自答しなければならない、ということ。
それを怠って甘い餌(えさ)に食いついて地獄を見たとしても、それは全部、自分の責任なのだということ。
友情も、人間関係も、思い出も、平気で金に換算できる種類の人間が、自分のすぐ身近にもいるということ。
そういうことをすべてSは僕に教えてくれた。

いつかSを八つ裂きにしてKちゃんとAちゃんに謝らなければ、と思い続けてきた。
今もそう思っている。

僕は一生、Sという人間を許すことはない。

Kちゃん。達者でやってるかい?
あの時、よく調べもしないでSの口車に乗って説明会場に誘ったりして悪かったなぁ。

Kちゃんと一緒に説明会場に誘ってしまったAちゃんのその後も僕は知らない。
故郷の彼氏とは遠距離恋愛だと話していた。
月に一度だけデートをするんだと嬉しそうに話していた。
そして彼氏から貰ったというペンダントをいつも首にかけていた。
僕が知っている、これがAちゃんのすべてだ。
Aちゃん。あのときの彼氏とはちゃんと結婚できたかい?

僕は今、40年前に朝夕、サンケイ新聞を配達していたエリアのすぐ近くに住んでいる。
競馬狂いの所長のいた販売所はとっくに潰れた。
僕がパンを盗んだパン屋さんもとっくになくなった。
それでも。
散歩の途中で、僅かに残ったキャベツ畑を見るたびに、僕はKちゃんとAちゃんを思い出すのだ。
上州弁を直そうともせず、ジャナ専の学食で笑っていたKちゃんを思い出すのだ。
夏の日の早朝、健康的な身体をTシャツに包んで、「平岩さーん、おたがい頑張ろー」と手を振ってくれたAちゃんの声を思い出すのだ。
そして、早朝の、あるいは夕暮れの街を、自転車で走り抜けていく若い新聞配達を見るたびに、「どんなに貧乏で今が苦しくても、大切な友だちを不幸にするような取り返しのつかない失敗だけはするなよー」と声を掛けたくなってしまうのだ。

そんなことを言える立場ではないことは百も承知だけれど、僕が死ぬまでSを許さないように、KちゃんとAちゃんも僕を死ぬまで恨んで、けれど、忘れないで覚えていてくれるといいな、と思う。

どんなにキャベツ畑の記憶が遥か遠くに薄れようとも。


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