つれづれなるままに弁護士(ネクスト法律事務所)

それは、普段なかなか聞けない、弁護士の本音の独り言

清水さんの13回忌

2024-09-23 22:46:00 | 晴れた日は仕事を休んで
日高照明の清水利恭さんがツーリング先の岩手県で事故で亡くなられたのは2012年9月18日だった。
清水さんへの追悼文をこのブログに上げたのは2012年12月9日だ。
あれから12年。清水さんが仏教徒だったかどうかは存じ上げないが、今年は清水さんの13回忌の年だ。

だから、というわけでもないのだけれど、猛暑明けの「道の駅巡りツーリングin東北」の第一弾は岩手県だ。
清水さんが亡くなられたという八幡平アスピーテラインを、清水さんを思い出して、バイクで走ろうと決めた。

当日はクレヨン社の「地球のうた」をヘルメットに仕込んだスピーカーにスマホからBluetoothで飛ばして八幡平アスピーテラインを岩手県と秋田県の県境まで走った。



清水さんは宮川賢さんの劇団ビタミン大使「ABC」や中野俊成さんの劇団ハラホロシャングリラの照明を担当されていたのだが、清水さんが亡くなってすぐに宮川さんがご自身のブログにアップされた清水さんを追悼する記事を読んで、清水さんがビタミン大使「ABC」の照明を担当されるようになったのは、同劇団の「じじじい」という作品からだったと知った。
私の記憶に間違いがなければ、クレヨン社の「地球のうた」はこの「じじじい」で使われていた曲である。
名曲である。
YouTubeでもいくつかのバージョンが公開されているので興味のある方は是非。

私の妻がビタミン大使「ABC」とハラホロシャングリラで役者や制作をやっていたこともあって、清水さんとはこの2つの劇団の公演でよくお会いした。
舞台が終わって清水さんに会うと、清水さんはいつも、「どうです。いい舞台になったでしょう。面白かったでしょう」と目を輝かせ、鼻の穴を少し膨らませながら話し掛けて来る。

宮川さんも中野さんも、舞台に立っている役者さんたちだって神様ではないのだから、正直に言えば、「う〜ん、今回はイマイチかなぁ」と思うような作品も一つや二つはある。
しかし、清水さんはいつも必ず、「面白かったでしょう」と目を輝かせて聞いてくる。
私もついつい清水さんの勢いにつられて、「うん。よかったですね。いい舞台でした」と答える。
そういうやりとりを重ねる中で、「自分の仕事にここまで惚れ込んで、愛情と自信を持って人に語ることができるというのは、なんて幸せな生き方なんだろう」と私は清水さんが羨ましかった。
私も含めて、今、このブログを読んでいる人のうちの何人がそういう生き方を、自分の仕事に誇りと愛情と自信を持った生き方をできているだろう。

八幡平アスピーテラインは「一度は走ってみたい道」としてバイク乗りには有名な道だ。
もし、清水さんが私と一緒に走っていたなら、清水さんはきっとこう言っただろう。
どうです。いい道でしょう。絶景でしょう」
そのとき清水さんは、やっぱりいつものように目を輝かせ、鼻の穴を少し膨らませているだろう。

いゃぁ、清水さん。
ごめん。今回はちょっと八幡平アスピーテラインの良さは満喫しきれなかったわ。







いつか、空が高くて空気がひんやりとして気持ちのいい晴れた秋の日に、もう一度、走りに来るわ。

だからサヨナラはまだ言わない。
また、ね。


至福の日々

2024-08-09 00:59:00 | 映画

このところ映画と演劇漬けという至福の日々を送っている。

きっかけは敬愛する高橋いさをさんから、新宿武蔵野館で上映中の「ジャン=ポール・ベルモンド傑作選GRAND FINALE」の案内を頂いたことだった。




いさをさんと私は何を隠そう(隠してないが)ベルモンド主演の『おかしなおかしな大冒険』(原題はLe Magnifique)の大ファンである。

ベルモンドの映画は1980年代後半頃から日本での上映が減少した。一説にはフランスを代表するトップスターになったベルモンドの映画の興行権価格が高騰してしまい、日本の配給会社がおいそれと手を出せなくなってしまったからだ、と言われている。『おかしなおかしな大冒険』に至っては実に約50年ぶりに「ジャン=ポール・ベルモンド傑作選GRAND FINALE」でリバイバル上映された。ちなみに、いさをさんも私もこの作品の初見はTV(ゴールデン洋画劇場)だった。

どんな流れでそういう話になったのかはもう忘れてしまったけれど、あるとき、いさをさんと「ジャン=ポール・ベルモンドはいい」「子どものころにTVで見た『おかしなおかしな大冒険』が忘れられない」と意気投合した。

いさをさんは「初期の劇団ショーマ(※かつていさをさんが主宰していた、小演劇界の一世を風靡した劇団)のメタ・フィクション技法の作品は『おかしなおかしな大冒険』の影響を強く受けている」という。言われてみれば確かに「なるほど」と思い当たるところがある。

自分がなんのかんのと40年近くいさをさんの作品に惹かれ続け、時にその創作のお手伝いまで買って出たりしてきた理由がそのときストンと腑に落ちた。

私の事務所から新宿武蔵野館までは地下鉄で3駅。30分もかからない距離である。

仕事をほっぽらかして、もとい、多忙な仕事の合間を縫って、私はせっせと新宿武蔵野館に通った。



新宿武蔵野館で見たベルモンド作品は以下の8作品。

「冬の猿」(1962年公開。ベルモンド29歳。※以下、作品公開当時のベルモンドの年齢)

「リオの男」(1964年公開。31歳)

「カトマンズの男」(1965年公開。32歳)

「大頭脳」(1968年公開。35歳)

「おかしなおかしな大冒険」(1973年公開。40歳)

「恐怖に襲われた街」(1975年公開。42歳)

「ライオンと呼ばれた男」(1988年公開。55歳)

「レ・ミゼラブル」(1995年公開。62歳)

これだけでは飽き足らず、アマプラとHuluで以下の9作品も一気観した。

「勝負をつけろ」(1961年公開。28歳)

「オー!」(1968年公開。35歳)

「ラ・スクムーン」(1972年公開。39歳)

「相続人」(1973年公開。40歳)

「薔薇のスタビスキー」(1974年公開。41歳)

「危険を買う男」(1976年公開。43歳)

「警部」(1979年公開。46歳)

「ハーフ・ア・チャンス」(1998年公開。65歳)

「アマゾンの男」(2000年公開。67歳)

1か月足らずの間に17のベルモンド作品に浸って、わかったことがある。

50年近く経つと映画の嗜好もずいぶん変わるということだ。

冒頭に書いたとおり、「おかしなおかしな大冒険」は幼かった私の記憶に深く刻み込まれた作品だったが、今、見返すとフィリップ・ド・ブロカ監督がふざけ倒しているシーンが鼻について仕方がない(この点はいさをさんも同様の感想をご自身のブログに書いておられる)。

上記17作品の中で、60歳を目前に控えた私の心を打ったのは「レ・ミゼラブル」と「ライオンと呼ばれた男」と「ハーフ・ア・チャンス」だった。

いずれもベルモンドの晩年の作品だが、スタントマンを使わないことで有名なベルモンドの派手なアクションシーンは、「ハーフ・ア・チャンス」を除いてすっかり影を潜め、「挫折から立ち直る人間」とか「壁を乗り越えて再び歩き始める人間」を描いた名作に仕上がっている。

 

いさをさんはベルモンド傑作選の情報と併せて、自身の舞台の公演情報も送ってくるちゃっかり屋さんである。

7月31日(水)から8月6日(火)まで中野ザ・ポケットで上演された「父との夏」




何度目かの再演だが、私はサンモールスタジオでの初演を拝見している。

再演にもかかわらず、わざわざ中野まで足を運んだのは、主人公の父親役を「あの」中尾隆聖さんが演じられると聞いたからだ。

中尾さんと言えば、いわずと知れた「バイキンマン」(@アンパンマン)や「フリーザ」(@ドラゴンボール)の声優さんである。

ふたりの子供をアンパンマンとドラゴンボールで育てた父(=私)としては、この「父との夏」は是が非でも観に行かねばなるまい。

というわけで拝見した今回の「父との夏」は、初演を超える佳作になっていた。

初演時には存在しなかった「孫娘」が新たに書き加えられていたのだが、ラスト5分前まで、この孫娘、とにかく舞台に出てきては何かを食べているだけの存在で、見せ場一つ、心に残るセリフ一言もない。

「いさをさんはどういう意図でこの孫娘を書き加えたんだろう?」

という疑問は、しかし、ラスト5分の中尾さんと孫娘の2人の場面で一気に氷解した(少なくとも私にとっては)。

花火を見つめる孫娘とそれを優しく見守る祖父という構図に、私は不覚にも泣きそうになった。

中尾隆聖さんは声優として一流なだけでなく、こういう場面を視線だけで演じ切ってしまう名優でもあった。

言葉で説明するのは難しいし長くなるので割愛するが、わたし的には「あぁ、私の涙腺はこういう話に弱いんだな」と再確認した次第である。

「ジェットコースター演劇」とまで評された劇団ショーマ時代のスピード感溢れる展開とは程遠い、静かに淡々と紡ぎ出される父と子と戦争の物語。平和をテーマにしながら、正面から「平和とは」などと語らない。祖父と孫娘の静かな時間に75年分の平和を凝縮して見せる。

「いさをさんの作品も随分変わったなぁ」と思いつつ、「あぁ、ベルモンドの映画やそれに対する自分の感想も同じなんだ」と気がついた。

一言で言えば、これが年をとるということなのだけれど、それはとても心地いい世界と自分の変化である。

 

「父との夏」の上演後、いさをさんやその知人、知己の役者さんなどと酒席をともにする機会を頂いた。

その酒席のメンバーの中に映画監督の篠原哲雄さんがおられた。

今年、私が出会った人の中で上位3本の指に入る方である。

篠原監督の作品は「月とキャベツ」くらいしか観たことがなかった私は、せっかく現代日本を代表する大監督が横におられるのに、その作品について突っ込んだお話を伺うことができなかった。

今年、私が味わった上位3本の指に入る後悔である。

慚愧の念で死にそうになった私は、翌日からベルモンドに代えて篠原作品漬けの日々を送り始めた(現在も継続中)。

本日までに観た篠原作品は以下のとおり。

「天国の本屋~恋火」

「犬部!」

「癒しのこころみ 自分を好きになる方法」

「種まく旅人 くにうみの郷」

「起終点駅 ターミナル」

「Jam Films」

「昭和歌謡大全集」

「深呼吸の必要」

ベルモンドは1か月かけて17作品だったが、篠原監督作品は6日(8/3~8)で8作品である。

いや、仕事しろよ、俺。

 

私の勝手な感想だが、「挫折から立ち直る人間」とか「壁を乗り越えて再び歩き始める人間」を描かせたら、今、篠原監督の右に出る人はいないんじゃないか、と思う。

そもそも、ほとんどの映画は(一部のホラー映画などを除いて)、「挫折・どん底・壁」⇒「復活・再生・再起」という基本構図でできているはずだから、特に篠原作品だけがそこに特化しているというわけではない筈なのだが、篠原監督が描く「挫折から再起して歩き始める人たち」は他の監督の作品に出てくる彼ら彼女たちとは何かが違うのだ。

これまた私の勝手な解釈だけれど、たぶん、それは篠原監督の作品中に描かれる「自然の美しさ」と無関係ではないのではないか、と思う。

作品の中で描かれている自然が深く静かで美しい分、その中でもがき苦しみながら前に進もうとする人間の生き様もその輝きを増幅しているのではないか、と思うのだ。

「天国の本屋~恋火」と「起終点駅 ターミナル」は北海道の、「犬部!」は東北の、「種まく旅人 くにうみの郷」は淡路島の、そして「深呼吸の必要」は沖縄(の離島)の、美しい風景が丁寧に描かれている。

北海道も東北も淡路島も沖縄も、ここ数年で私がツーリングで走破したきた場所でもある。

篠原監督が描く北海道や東北、淡路島、沖縄は車や電車の窓から見たそれではなく、私がオートバイに乗って風と光と雨を感じながら全身で体験してきたそれに近い。

日本の自然をこういった形できちんと撮れる映画監督というのは(別に日本の映画監督の全作品をチェックしたわけではないけれど)、極めて稀有な存在なのではないかと思う。

上記8作品の中でも「深呼吸の必要」は、観終わった後、ダダ泣きだった。

沖縄には個人的に思い入れも深いので(※委細は本ブログの過去記事「民事弁護~沖縄編Part1からPart5&番外編」をご参照。https://blog.goo.ne.jp/hirahira5510/e/53488f113111705312f4a4371d55c6bb )、そのせいなのかもしれないが、それだけではないとも思う。

それだけではないと思うのだが、それが何なのかまだよく分からない。

それが分かるまで、もう少し、篠原作品に浸ることにした。

なお篠原監督の次回最新作「本を綴る」は10月5日から全国順次ロードショーである。

https://honwotsuzuru.com/



誕生日

2023-11-26 23:45:00 | 日記
ということで久しぶりにブログも更新してみた。
何歳になったのかは秘密だ。

何人かの方からは誕生日おめでとうLINEを頂いた。
ありがとうございます。
と、この場を借りて御礼。

もしかしたらFacebookとかTwitter(今はX)とかにお祝いメッセージ送ってくれた方もいらっしゃるかもしれませんが、すいません、私、昨年末でTwitter(今はX)のアカウントは削除しました。
Facebookも夏の北海道・東北ツーリング以来、まったくアクセスしてないです。そしてたぶんこの先も、見ることも書き込むこともないと思います(Messengerでしか繋がっていない方がいるので、Messengerだけは生きてますが、基本、ノーチェック)。

理由は単純で、TwitterとかFacebookとかその他諸々のSNS全般にほとほと嫌気がさしてしまったから。
これらのツールに依存・・・じゃなかった、これらのツールを使いこなしている友人・知人も多いけど(というか、そういう人が圧倒的多数)、彼ら彼女らとSNSの功罪について議論するのはまったく本意ではないので、私がSNSと縁を切った理由についてここでは細かくは書かない。
細かくは書かないけど、簡単に言うなら、「50歳過ぎて、自分が楽しいと思っていないこと、ストレスを感じてることに手間暇をかける愚はそろそろやめよう」ということだ。
SNSが楽しくて、ストレスになんかならないよ〜んという人は、それはそれでいいと思う。
ただ、私はそうじゃないので、酒の席とかでしつこく議論吹っかけてくるのはやめてね。

あと、数年前から年賀状の発送先も整理し始めた。
一時期は2500通くらい送ってたときもあったけれど、今はせいぜい500〜600通くらい。これでも多いと思ってる。
発送先を減らすことにしたのは、あるとき突然、「どうせ出すなら、本当に出したい人にだけ、ちゃんと出そう」と思ったからだ。
あと数年かけて、最終的には30通前後にまで減らしたいなぁ、と思う。
てかさ、年の終わりに、「あぁ、あの人に今年も世話になったなぁ」とか「今年は会えなかったけど、来年はなんとかして会いたいなぁ」と顔が浮かんでくる人ってそんなにいる?
私は友だちが少ない(ほとんどいない、とも言う)上に、元来、一人でいるのが好きなので、そう思う相手って数えるほどしかいない。いや、マヂで。
別に世話になったわけでもなく、特に会いたいわけでもない相手に、「今年もお世話になりました。来年は是非、食事でも」って年の初めから心にもない葉書送りつけるのは、もう、やめようと思うのだ。
かといって、年賀状自体をやめる気はさらさらないけれど。
昨今の、「年賀状、もうやめましょう」運動も、あれはあれで、なんだかなぁと思う。
たかが年賀状じゃん。
書きたい相手にだけ、書きたいことを、書いたいように書いて送ればいいんじゃね?
書きたい相手が1人でもいるなら、「もう年賀状出すのやめ!来年からは誰にも出さない!」とか、いきなりレッドゾーンに針振り切らなくてもよくね?
ONかOFFしかないんすか?
思考回路は二進法のコンピュータっすか?

あと、昨年から自分が死んだときに備えて、家族に宛てた手紙も書いた。WordとExcelで。
法律上の要件を満たしてないので遺言書ではない。ただの「手紙」だ。
ただ、その手紙には私の財産がどこにいくらあるか、銀行や証券会社の口座のIDやパスワード、私が「これでいいんじゃない?」と思う遺産分割方法、最後に家族に伝えておきたい気持ちとかが全部、書いてある。だから、たとえば明日死んだとしても、特に思い残すことも、伝え残して無念なことも、心配なこともない。
だいたい半年に一度くらいの割合で内容は更新する。WordとExcelで作ってるので変更が楽なこと楽なこと。
嫁と喧嘩したときとかは、嫁の相続分を減らしてみたりする。こどもか!

本とか服とかもザクッと捨ててみた。
断捨離って始めると止まらなくなる。
人間は何かを削ぎ落としていくことに恐怖を覚えるタイプと快感を覚えるタイプに分けられるらしいけど、私は間違いなく後者だ。

という近況を話すと、たいていの人に「終活ですね」と言われるけど、そこまで深刻に考えてるわけでもなく。すいませんね、適当で。

何歳とは言わないけど、50数年生きてきて、閉塞感っつーか、停滞感っつーか、澱(おり)っつーか、要するに、「めんどくさい柵(しがらみ)とか、どうでもいい世間の流行とか流れだけでなんとなく続けてるけど、俺の人生をちっとも楽しくしてくれてないものを削ぎ落としたらどうなるんだろ?」と思い始めただけなのだが。


全然、話が飛ぶけれど、昨年、ちょっと色々あって久しぶりにどん底に落ち込んだので、「俺、ヤバいわ。辛いわ」と高校時代の友だちに連絡したら、「よし会おう」と返事が来た。
新宿の安居酒屋でもつ煮込みと焼き鳥を食ってサワーを浴びるほど飲んでカラオケに行った。
最後にケツメイシの「友よ」を歌って別れた。
「ああ、高校のときコイツに出会えたことが、きっと俺の人生の意味なんだな」と思った。
世の中がどう騒ぎ立てても、コイツには死ぬまで年賀状を送りつけるんだ、間違いねー、とも思った。

本と服を断捨離して、年賀状出す相手を整理して、SNSと縁を切って、家族に遺言(手紙)をしこしこ書いて、10年ぶりくらいに会った友だちに弱音を吐いて、こうして俺はジジイになっていくんだなぁ、と思った。
メチャメチャ満足した。


この1年は、凹んで凹んで凹みまくって、身体から元気の「気」が抜けて、気持ちと心が萎んで、逡巡して逡巡して3周逡巡した。

そしてまた歩き出した。
それは、「辛い」と伸ばした私の手を握り返してくれた奴がいて、「大丈夫だ」と背中を押してくれた奴がいたからだ。

だから、私もこれからは、誰かが「HELP!」と連絡してきたら、とにかく「よし会おう」と言おうと決めた。
「HELP!」と口にするまで、そいつがどれほど1人で悩んで苦しんだか、「HELP!」と叫んだことのある私にはわかるからだ。

私の人生は、せいぜいあと20年だろう。
50代最後の誕生日。
私は、大切な奴と過ごす時間と、楽しく過ごす時を、その20年の真ん中に据えて生きていくことに決めた。


東北・北海道ソロツーリング2023(7月27日)

2023-07-27 17:30:00 | 晴れた日は仕事を休んで
北海道最終日。
フェリーの時間まで函館・北斗辺りをオートバイで流したが、暑い!
これまでの道央・道北・道東の日々が嘘のようだ。函館の最高気温は30.7度で、足寄とか帯広とか紋別とかの方が遥かに気温は高いのだが、土地が開放的に開けていて、山や原生林が多い上に空気がカラッと乾燥してるのでオートバイで走っていれば気温の割には暑さを感じなかったが、函館は違う。
都市部のヒートアイランド化とはこういうものかと身をもって確認した。

さて、フェリー乗船までの限られた時間しかないので周ったのはトラピスト修道院(北斗市)とトラピスチヌ修道院(函館市)のみ。
それでも暑さが吹っ飛ぶほどの美しさだった。

トラピスト修道院↓














トラピスチヌ修道院↓











フェリーが津軽海峡を越えた。
津軽半島と下北半島が見えてきた。






東北・北海道ソロツーリング2023(7月26日)

2023-07-26 23:37:00 | 晴れた日は仕事を休んで
昨夜は久しぶりに建物の中で寝た。

弁護士になる前に(弁護士になった後も)仕事でお世話になったY社長が今は引退して(何故か)江別市に居を構えておられる。そこにお邪魔したのだが、私と入れ替わりにY社長は東京に行ってしまわれたので、どういうわけか昨夜はY社長の江別市宅に私一人で泊まらせて頂いた。

Y社長宅からほど近い日帰り温泉で財布を落とし、一瞬、頭の中が真っ白になったが、財布はちゃんと温泉の受付に届けられていた。現金2万円くらいと運転免許証とクレジットカード等が入っていた財布の中身には、もちろん、一切、手はつけられていなかった。
北海道の人の善意に涙が出た。

さて、今日のルートは、Y社長宅@江別市→小樽→道の駅ニセコビュープラザ→ニセコパノラマライン→道の駅いわない→きじひき高原パノラマライン→はこだて白石公園オートキャンプ場

中学時代、木之内みどりさんの大ファンだった。
彼女は小樽出身。
私の中学時代は松山千春さんといい、中島みゆきさんといい、木之内みどりさんといい、北海道出身のアーティストやアイドルに彩られた日々だったことに今さらながら気づいた。

小樽駅。



小樽港ではおたる潮祭の準備の真っ最中。


小樽運河沿いの煉瓦倉庫。


小樽運河。


羊蹄山。


10数年前、三井石油の法務部の仕事をさせて頂いていた時お世話になったHさん。
なぜか当時より若返っとる!
仕事をリタイアされ、今は倶知安で貸別荘業を営んでおられる。連絡を取り合って道の駅ニセコビュープラザで落ち合った。


ニセコパノラマラインの途中で、今、話題になっている高濃度の砒素を含有した地下水の吹き出し現場の横を通る。少し硫黄臭が。


ニセコパノラマライン



道の駅いわない。
なんにもない。


道の駅の横に海鮮定食屋を発見。


二色丼を注文。
・・・先日、羅臼町の道の駅で食べた三色丼の方が美味かった。


函館に向かう途中の国道229号線沿いにあった有形文化財佐藤家。

微妙に文字が剥げてて・・・読めん!


北海道駒ヶ岳。


きじひき高原パノラマライン。
ここは超お勧め。是非、展望台まで行ってみてほしい。

展望台からの眺め。








本日のルート↓


明日は、内地に帰ります。
帰りたないけどね。