あきオジの風景

写真、そして、俳句(もどき)
毎日更新しています。

雑踏を見つめ続けるガラスの目   あきオジ

2009-11-02 06:30:01 | 日記
渋谷

先日、原宿で山本一力さんの講演があり
出かけました。

渋谷から原宿まで歩いたのですが
渋谷の道玄坂でこの彫刻を見つめました。
周囲では宅配便の車が動き回っているし
宅配の配達かかりは、通路が塞がれて迷惑そうでした。

現実好きな人、それはそれでかまわないけれど
仕事の邪魔しないでくれ
そんな雰囲気さえあります。

それにしても、この彫刻なに?
彫刻の森美術館に展示されていれば
「芸術なのだろうな」と思いながら見るでしょう。

でも、ここでは、芸術家の好みの造形と繊細さがまったく街に馴染むことがなく
彫刻が街の猥雑な造形に圧倒されているような気がしました。

もう彫刻家が繊細な芸術性をもって商売にする時代ではなくなって来ている
時代ではなくなっているような気がしました。
せいぜい、街の品格を高める。
そんな満足を得るだけです。

芸術家がもっともらしい説明で仰々しくしているような作品は
簡単に作れてしまうし、そのような作品を街に設置しても
癒しにもならないような気がします。

ファッション雑誌の小道具、あるいはファッションの一部アイテム
その枠の中で納まってしまうような気がします。

そんな時代なのですね。
あれば楽しいけれど
なくても困らない。

ときどき文化とはそんなものかなと思ったりします。
宗教組織の美術館好き、寺の障壁画好き
社長室の書の大きな額

どこかで何かがつながっているのですね。
それはそれでいいかもしれません。


オカリナがながれる丘の乳母車  あきオジ

2009-11-02 05:45:58 | 日記
神代植物園の薔薇

美しいものを組み合わせてさらに新しいものを生みだす。
その感覚
日本的だな思います。

花をあれこれ組み合わせて大きな壺に活ける。
まさに、元々の花の原型をとどめながら
違った意味合いを生みだしている。

それって、面白いですね。
それを家族だと読みとるのは強引だとしても
スポーツのチーム
企業だとも読みとれる。

自分は自分だけれど集合体になり
再合成されることで新しい何かになる。

この感覚は退職して、部品として、戻されたとき
自分は組み合わされて存在していた。

部品に戻されたとき、「部品」としての存在で生きていく
そんなことを感じるのですね。

でも、普遍性のある部品なら
新たな枠組みの中でも自分の場所を得ることができるでしょう。

でも、何もないのなから
これから何かを生み出していく楽しみがあります。
楽しみは創り出していくものであり
派生するものであるような気がするのですね。

楽しいなどと感じなくて
「やっていることが苦にならない」
それで充分だと最近は思うのです。

・・・・・・・・・・・・

電車に乗りたいですね。
そんな気分になることありませんか?

今日は・・・・

お茶の水駅で降りて
「聖橋」から電車を撮りたいし

古本屋で「古典文学全集」のばら売りを探したいし

塩山の「甘草屋敷」のころ柿吊るしも見たいし

何もかも自分の足でいける。
そう思うと嬉しさが溢れ出てきる。
幸福などと考えることはないけれど
きっと、こんなことなのだろう。

そんな気がするのです。