「モールス通信の神様はいた」
昭和30年の夏の終り、2年8ヵ月従事したモールス通信の仕事から離れることになった。大分を出発する日まであとわずかという時、ある同僚が真剣な顔をして教えてくれた。
「電信の名人のなかには、1分間150字近い速さの通信ができるモールス通信の神様のような人がいる。」
「そのようなスピードは、人間の能力では無理ではないか」とわたしは同僚に言い、その話が本当のことか確かめることをしないまま大分を後にした。
このとき確かめなかったのは、そのような名人がいて欲しいという願望のような気持ちがわたしの心のなかにあり、名人の存在を否定するかもしれぬ詮索をためらう心理が働いたためだった。
その後、モールス通信には縁がなくなったが、人間の能力で1分間150字が可能であろうかという根強い疑問がいつまでも心の片隅から消えなかった。思いだしては、なんとかあのモールスの神様の話の真偽を確かめるすべはないものかと考えているうちに、モールス音響通信は電電公社の表舞台から消えていってしまった。
ところが、ふとしたことからモールスの神様の話を客観的な資料により確かめることができる日がやってきたのである。あの話を聞いてから30数年経ってのことだ。
平成元年にNTTを退職したわたしは、東京で関連会社に就職した。ある日職場で、中国電気通信学園の普通電信科出身の同僚とモールス通信談義をしたことがあった。
彼は全国電信競技会の電話託送の部に中国通信局代表として出場した経歴を持つ人で、その時の模様を記した電電の社内報を机のなかから取りだして見せてくれた。
その黄ばんだ社内報は、昭和30年代初め名古屋市で開催された電信競技全国大会のものだった。種目別に競技会の成績などが記載されていて、なかに2人組モールス音響通信の種目があり、九州代表として、大分電報局の長井政信氏が上位の成績を収めていた。同氏は大分電報局の名人の1人で、わたしのよく記憶していた人だった。
ただ競技の成績は点数のみで表示されており、もしやと思った通信速度の記載はなかった。やや失望しながら大会の講評を読み進むうちにわたしは興奮した。そこには、大会で「1分間128字の記録がでた」と言及されていたのである。
この講評で、わたしは1分間に140あるいは150字近い速さの通信ができた人が実際にいたと確信した。極度の緊張を強いられる全国競技会と違って、リラックスして聞き返したりもできる職場、実践の場では、全国競技大会に出場するような選手であれば、この128字以上の速度をだせることは明白である。
モールス通信の経験者であれば、この見方に異論のある人はいないだろう。今も大分市に健在の長井氏があの神様その人だったのか、あるいは別人だったのかはわからなかったが、とにかくあの話は嘘偽りのない話だったと確信したのである。かくしてわたしの永年の疑問は氷解した。
なお、あの大会に出場した2人組のもう1人の選手は松尾高明氏と判明した。K君が長井氏に聞いてくれてわかったもので、2人は日頃から同じ職場でトンツー、ツーカーの親しい間柄だったそうだ。何回か競技会に出場した長井組の最高成績は2位だったとのことだ。
大会での2人組音響通信の競技方法は、10分間の成績で競われ、初め松尾氏が規定の5通を送信する。その後、長井氏が残りの時間いっぱい送信を続けるというやり方だったそうだ。日頃の通信技能~通信のスピードと正確性を試す相当過酷な競技方法と言わざるを得ない。通信が終わり1字でも誤りがあれば失格となる。大会後の講評で「今年度の失格率は13%で、前年度の失格者が半数以上という不振に比べ良好であった」と述べられていた。
その後、この驚くべき通信速度のことを職場などでいろいろな人に話してきた。ところが、モールス通信経験者は別として、これに驚いてくれた人は正直なところいなかった。モールスを苦労して覚えた者にとっては、1分85字でも大変なものであるのに、このような名人のことを話しても反応は拍子抜けするくらい芳しくなかった。
あの頃の録音テープでもあれば直ちに理解してもらえるのに、そのようなものが残されていないのが残念だと何度も思った。言葉だけで、あの速さ加減はなかなかわかってもらえない。今回この一文を書きながら、モールス通信を経験していない人にも、なんとかわかってもらえる方法はないものかとあれこれ考え、計算してみた。
その結果、計算方法は後述するが、あの神様のような人の通信速度は、100分の3.3秒の音(注)を正確に送受していたことを知り、わたし自身驚いてしまった。
送信者は、なんの仕掛けもない電鍵を手に、このような短い音をモールス符号として送る。受信者は、耳もとの音響器からでる音をきちんと判別してこれをカナ文字に翻訳し、タイプしていたのである。
標準的な通信速度であった1分間85字についても同様の計算をすると、100分の4.5秒と算出される。わたしの技能はそこまでは無理だったのだが、あの時期、標準的な一般の人たちでさえこのような秒以下の世界で仕事をしていたのである。
ついでに、陸上100メートル走で9秒78の世界新記録を持つティム・モンゴメリー(米国)が、この100の3秒で走る距離を計算してみると、やっと30・7センチである。
ここに、100分の3.3秒(0033秒)の計算方法をかいつまんで述べる。
和文モールス符号は短音符号(‐ )の3個分の長さが長音符号( ― )である。符号と符号の間隔は短音1個、字と字の間隔は長音1個(短音3個)分と定められ、通信が行われていた。この定めに従い、まず1分間の通信字数およびその字と字の間隔を、符号の最小単位である短音に換算すると全部でいくつになるか計算する。
つぎに1分(60秒)をこの計算で得た短音の総数で除すと、100分の3,3秒という数値が算出される。(通信字数の単音換算計算には、各カナ文字の使用頻度を考慮する必要があるが、イロハ48文字の使用頻度は等しいものとして計算した。)
これで、往時のモールス音響通信のオペレータ―たちの通信技能がいかに高かったか納得いただけるだろう。この思い出を書くきっかけとなった東京の逓信総合博物館には、「モールス音響通信の通信速度は、1分間75字」と説明されているのだが、実際はこのような遅い速度ではなかった。
ところで、実践の場での通信速度はこれまで記したような速度として、モールス通信のスピードの決め手は何だろうか。
親友のK君は、通信速度は、受信側の耳の能力より送信側の手首の能力が文字どおり決め手となると言う。送信は標準的な速さまでは常人でも努力次第で到達可能だが、1分間50字もになると天賦の才能、特に手首の繊細さがなくては、いくら努力しても無理だろうと言っていた。なるほどと思った。
通信の技能的な見方はそうだとして、あの高い技能のモチベーションは一体何だったのか。
それは、電報の役割に対する電信マンたちの明確な認識ではなかったろうか。あの時代までの電報には、人の生命、商売上の取引は勿論、戦争の行方すら左右する情報が託されていたと言っても過言ではない。
相親の昨年8月号に、「思い出のアルバム」として、熊本逓信講習所のモールス通信の練習風景、2葉の写真が掲載されている。昭和12年卒の同窓から提供されたもので、そこには、昭和26年、わたしたちが学んだ当時の電鍵、音響器それにタイプライターまでそっくり同じものが教室に並んでいる。
これが物語るのは、モールス音響通信は、そのシステム、設備は変えられぬままに、人間側がそれを支え続けてきたという事実である。
[後記]
・ 平成15年当時の陸上100m走の公式世界記録、9秒78はティムモンゴメリ(米)のものだったが、その後ドーピング違反のかどにより、彼の公式記録は抹消された。
昭和30年の夏の終り、2年8ヵ月従事したモールス通信の仕事から離れることになった。大分を出発する日まであとわずかという時、ある同僚が真剣な顔をして教えてくれた。
「電信の名人のなかには、1分間150字近い速さの通信ができるモールス通信の神様のような人がいる。」
「そのようなスピードは、人間の能力では無理ではないか」とわたしは同僚に言い、その話が本当のことか確かめることをしないまま大分を後にした。
このとき確かめなかったのは、そのような名人がいて欲しいという願望のような気持ちがわたしの心のなかにあり、名人の存在を否定するかもしれぬ詮索をためらう心理が働いたためだった。
その後、モールス通信には縁がなくなったが、人間の能力で1分間150字が可能であろうかという根強い疑問がいつまでも心の片隅から消えなかった。思いだしては、なんとかあのモールスの神様の話の真偽を確かめるすべはないものかと考えているうちに、モールス音響通信は電電公社の表舞台から消えていってしまった。
ところが、ふとしたことからモールスの神様の話を客観的な資料により確かめることができる日がやってきたのである。あの話を聞いてから30数年経ってのことだ。
平成元年にNTTを退職したわたしは、東京で関連会社に就職した。ある日職場で、中国電気通信学園の普通電信科出身の同僚とモールス通信談義をしたことがあった。
彼は全国電信競技会の電話託送の部に中国通信局代表として出場した経歴を持つ人で、その時の模様を記した電電の社内報を机のなかから取りだして見せてくれた。
その黄ばんだ社内報は、昭和30年代初め名古屋市で開催された電信競技全国大会のものだった。種目別に競技会の成績などが記載されていて、なかに2人組モールス音響通信の種目があり、九州代表として、大分電報局の長井政信氏が上位の成績を収めていた。同氏は大分電報局の名人の1人で、わたしのよく記憶していた人だった。
ただ競技の成績は点数のみで表示されており、もしやと思った通信速度の記載はなかった。やや失望しながら大会の講評を読み進むうちにわたしは興奮した。そこには、大会で「1分間128字の記録がでた」と言及されていたのである。
この講評で、わたしは1分間に140あるいは150字近い速さの通信ができた人が実際にいたと確信した。極度の緊張を強いられる全国競技会と違って、リラックスして聞き返したりもできる職場、実践の場では、全国競技大会に出場するような選手であれば、この128字以上の速度をだせることは明白である。
モールス通信の経験者であれば、この見方に異論のある人はいないだろう。今も大分市に健在の長井氏があの神様その人だったのか、あるいは別人だったのかはわからなかったが、とにかくあの話は嘘偽りのない話だったと確信したのである。かくしてわたしの永年の疑問は氷解した。
なお、あの大会に出場した2人組のもう1人の選手は松尾高明氏と判明した。K君が長井氏に聞いてくれてわかったもので、2人は日頃から同じ職場でトンツー、ツーカーの親しい間柄だったそうだ。何回か競技会に出場した長井組の最高成績は2位だったとのことだ。
大会での2人組音響通信の競技方法は、10分間の成績で競われ、初め松尾氏が規定の5通を送信する。その後、長井氏が残りの時間いっぱい送信を続けるというやり方だったそうだ。日頃の通信技能~通信のスピードと正確性を試す相当過酷な競技方法と言わざるを得ない。通信が終わり1字でも誤りがあれば失格となる。大会後の講評で「今年度の失格率は13%で、前年度の失格者が半数以上という不振に比べ良好であった」と述べられていた。
その後、この驚くべき通信速度のことを職場などでいろいろな人に話してきた。ところが、モールス通信経験者は別として、これに驚いてくれた人は正直なところいなかった。モールスを苦労して覚えた者にとっては、1分85字でも大変なものであるのに、このような名人のことを話しても反応は拍子抜けするくらい芳しくなかった。
あの頃の録音テープでもあれば直ちに理解してもらえるのに、そのようなものが残されていないのが残念だと何度も思った。言葉だけで、あの速さ加減はなかなかわかってもらえない。今回この一文を書きながら、モールス通信を経験していない人にも、なんとかわかってもらえる方法はないものかとあれこれ考え、計算してみた。
その結果、計算方法は後述するが、あの神様のような人の通信速度は、100分の3.3秒の音(注)を正確に送受していたことを知り、わたし自身驚いてしまった。
送信者は、なんの仕掛けもない電鍵を手に、このような短い音をモールス符号として送る。受信者は、耳もとの音響器からでる音をきちんと判別してこれをカナ文字に翻訳し、タイプしていたのである。
(注)先の本稿思いで(2)で説明したように音響器から聞こえる1つの符号は、トン(短音)とツー(長音)で構成されている。トン、ツーどちらの音も「カチ<間隔>カチ」と2つの音から成る。この100分の3.3秒は、Ⅰ短音、トンの「カチ<間隔>カチ」の時間を計算したものである。
標準的な通信速度であった1分間85字についても同様の計算をすると、100分の4.5秒と算出される。わたしの技能はそこまでは無理だったのだが、あの時期、標準的な一般の人たちでさえこのような秒以下の世界で仕事をしていたのである。
ついでに、陸上100メートル走で9秒78の世界新記録を持つティム・モンゴメリー(米国)が、この100の3秒で走る距離を計算してみると、やっと30・7センチである。
ここに、100分の3.3秒(0033秒)の計算方法をかいつまんで述べる。
和文モールス符号は短音符号(‐ )の3個分の長さが長音符号( ― )である。符号と符号の間隔は短音1個、字と字の間隔は長音1個(短音3個)分と定められ、通信が行われていた。この定めに従い、まず1分間の通信字数およびその字と字の間隔を、符号の最小単位である短音に換算すると全部でいくつになるか計算する。
つぎに1分(60秒)をこの計算で得た短音の総数で除すと、100分の3,3秒という数値が算出される。(通信字数の単音換算計算には、各カナ文字の使用頻度を考慮する必要があるが、イロハ48文字の使用頻度は等しいものとして計算した。)
これで、往時のモールス音響通信のオペレータ―たちの通信技能がいかに高かったか納得いただけるだろう。この思い出を書くきっかけとなった東京の逓信総合博物館には、「モールス音響通信の通信速度は、1分間75字」と説明されているのだが、実際はこのような遅い速度ではなかった。
ところで、実践の場での通信速度はこれまで記したような速度として、モールス通信のスピードの決め手は何だろうか。
親友のK君は、通信速度は、受信側の耳の能力より送信側の手首の能力が文字どおり決め手となると言う。送信は標準的な速さまでは常人でも努力次第で到達可能だが、1分間50字もになると天賦の才能、特に手首の繊細さがなくては、いくら努力しても無理だろうと言っていた。なるほどと思った。
通信の技能的な見方はそうだとして、あの高い技能のモチベーションは一体何だったのか。
それは、電報の役割に対する電信マンたちの明確な認識ではなかったろうか。あの時代までの電報には、人の生命、商売上の取引は勿論、戦争の行方すら左右する情報が託されていたと言っても過言ではない。
相親の昨年8月号に、「思い出のアルバム」として、熊本逓信講習所のモールス通信の練習風景、2葉の写真が掲載されている。昭和12年卒の同窓から提供されたもので、そこには、昭和26年、わたしたちが学んだ当時の電鍵、音響器それにタイプライターまでそっくり同じものが教室に並んでいる。
これが物語るのは、モールス音響通信は、そのシステム、設備は変えられぬままに、人間側がそれを支え続けてきたという事実である。
[後記]
・ 平成15年当時の陸上100m走の公式世界記録、9秒78はティムモンゴメリ(米)のものだったが、その後ドーピング違反のかどにより、彼の公式記録は抹消された。
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