◆長谷川
この投稿は以下の期日に投稿した再投稿です。
2021-09-23 16:19:40 特に★
彦根市内の城郭や『規矩術』の記述に注目!
★投稿最期に大波乱大論争の展開あり必見!★
◆対談者
もう10年以上前の事になると思います。初めて
長谷川先生と安土城址に行った時に先生の解説
で伝秀羽柴吉邸と前田利家邸を見学しましたが
先生が先ず安土城の本丸に進まずこの邸宅跡か
ら現地解説され参加者の1人は先生を変り者の
安土城解説と反発し言葉で先生を罵倒した記憶
があります。私は当時未だ城址の事を全く知ら
ず先生は伝秀吉邸伝利家邸の屋敷建物が扇型に
縄張されていると述べられていた記憶が残って
います。あの扇型の縄張とは一体なんですか?
◆一般者
安土城の秀吉邸や前田利家邸に何回行った事で
しょうか?私達は現地の礎石や見て石垣を見て
現地説明版の写真を撮影して満足して、帰って
行きます。今更他の誰かに屋敷の解説を受けた
いと思いませんでした。でもこの建物配置を
見てアッと驚いてしまいます。先生の解説に、
◆長谷川
更に緻密に細密に分度区画されていました。
規矩術/「勾殳玄」の法則で角度を出してた。
▼
◆一般様
平面構造解説力に驚かれるのは県外から滋賀
へ、はるばるやって来られている人の気持ち
が解るような気がします。これスゴイ事です。
◆長谷川
秀吉邸と利家邸が一括してビイスタ工法を駆使
した建物配置をしている事を現地解説しました。
先ず利家邸ではAポイントから順次1、2、3、4
、5と礎石建物が放射状にビイスタ工法で配列さ
れている事です。
◆みんな
すげえー長谷川先生の解説さすがは深く本格的だ!
◆長谷川
両邸宅ともに相互連携した見事な建物配置です。
◆みんな
だれも長谷川先生の様にオリジナル解説して
頂けません!だから先生の現地解説は貴重!
◆長谷川
此れだけ相互に縄張シンクロしている事や
近江八幡山城二の丸と同種の相横矢の存在
を考え併せると両邸宅は羽柴秀吉や秀長の
羽柴兄弟一族の邸宅の可能性もあります。
▼三重県 赤木城 ビイスタ工法
秀吉の弟、羽柴秀長の家臣として藤堂高虎が築城
◆みんな
さすがは築城の名手藤堂高虎!堀切も含めて
用意周到!やはり見事天晴な縄張技術です!
◆対談者
長谷川先生!城郭ビイスタ論の動画再生
が1200回にも及ぼうとしていて驚きます。
城郭ビイスタ論 上文字クリック
◆対談者
以前大垣市の関ヶ原合戦時の徳川家康岡山本陣
を多数の皆さんで見学したましたね?岡山の陣
自体は原型が壊れていましたが大変貴重な見学
会だったと記憶しています。さて岡山陣は豊臣
方遺臣武将のうち徳川家康派が家康の到着以前
に陣城を完成させて徳川家康の着陣を待機した
場所として非常によく知られています。昨今、
長谷川先生が本物の城郭研究家として再々評価
の気運が巷間で非常に高まってきております。
垂井赤坂岡山の陣「勝山陣」のビイスタ工法を
「幾何学縄張分析」を是非とも御教示下さい!
◆長谷川
図面の精度も含めこれだけでは何も解りません。
◆対談者
消極的です!図面を検証するだけの積極性を!
◆長谷川
内郭の郭配は北郭、主郭、南郭、周井に外郭外輪
先ず岡山の中央に西に虎口を認める。本丸主郭が
あります。北の左手は横矢ある角馬出曲輪「左右
の虎口」東に外郭の喰い違い虎口、西に深い喰い
違い虎口と外郭、南に桝形虎口と適宜横矢を配し
た南曲輪、さらに南に外郭喰い違い桝形虎口など
があります。
◆対談者
そんな解説は、戦前、戦後、凡百の城郭の研究家
が解説してきた城郭縄張論です。私は先生の投稿
を読んで城郭を見る観念や城郭見学の視点が激変
しました!極端な事を言いますと城郭人生観変わ
りました。一体今までの私は全国の城を何をボッ
ト見て廻ってたのか?城巡りし一端の城郭通の人
気取り、多数の城郭検定に合格して研究家気取り
でした。でも長谷川先生の城郭幾何学論は根底か
ら異なっていた。何故全国の皆様がはるか遠方か
ら高い旅費を費やして先生の見学会に参加される
のか一度でも考えた事がありますか?先生の解説
は図書館にも城郭講演にも一切登場しない独自の
オリジナル城郭研究手法である事を認識下さい!
物真似じやない!パクリじやない!本物の研究家。
◆長谷川
あまり興奮しないで下さいね。血圧上昇しますよ。
それでは美濃赤坂、徳川家康陣城レッスン1です。
城郭中央から四方八方へと放射線で縄張してます。
▼次に西から城郭各所に放射線縄張しています。ビイスタです。
▼更に次に東からも城郭の要所に放射状縄張してる。
▼南北からの概略放射線
▼南北や部分的にも詳細な放射状縄張を施している。
▼左桝形からも放射状に縄張し右の半月堡塁から
もそれぞれ内輪か外輪に縄張りして要所にも放射
状縄張を施してる。素晴らしい貴重な古図ですよ。
◆質問者
慶長5年1600年に徳川家康は関ヶ原合戦に勝利
して石田三成の居城を包囲します。その陣城は
彦根の平田山「雨壺山」です。平田山の家康の
本陣「平田山城」の縄張りについて是非御教示
下さい。
◆城探訪家
つまらん砦跡だな!こんなの見る価値一切なしだ。
◆みんな
貴方繊細な横矢網羅した城址が解りません?
城跡や砦跡を五六分で走り回り、それで城跡
見学と言えますか?これからは城に行くだけ
城を訪れる探訪ではない城郭遺跡を検証する
3の時代へ徐々に社会は移行しておりますよ。
1 城跡をハイクで通り過ぎる。
2 城跡を訪れ探訪して楽しむ。
3 城址遺構をキッチリと見学。
◆みんな
滋賀彦根の
平田山城跡の家康陣に放射状縄張は存在するか?
◆長谷川
城郭の中芯から四方八方に放射縄張しています。
やはり佐和山は落城寸前だったと言え家康本陣
をもしもの外敵の奇襲に備えて三重四重の犬走
や帯郭を用意周到に張り巡らせて家康本陣防御
を務めております。
◆長谷川
更に綿密に青色で縄張を検討すると以下の如く
砦の要所要点を非常に繊細用意周到に普請した。
◆長谷川
何か所か中世の放射状縄張の痕跡もうかがえます。
◆彦根市民様
あのね!平田山城は雨壺山じやなくて西麓の
昔雨壺山の西山麓に公営火葬場がありまして
平田山城はその近辺に存在したと聞いてます。
従って平田山城は絶対に絶対に存在しません。
◆対談者
今、題に上がっているのは慶長五年の徳川家康
の佐和山城攻めの本陣平田山城についての御話
です。平田山西麓から佐和山城を目視する事は
常識的に言って完全に無理平田山の最高所こそ
が東海の三英傑の1人家康家康公の本陣跡です。
◆質問者
前回の投稿で大坂真田丸の絵図には個人的
に強い興味を感じました。浅井長政長女の
淀殿の城「大坂城」の真田出丸に注目です。
◆質問者
さて浅井長政の三女「お江」は徳川家康の後継者
徳川秀忠の御台さまとなり徳川三代将軍徳川家光
の生母となりますが家康の陣城にも半月堡塁を構
えた例がありますか?
◆長谷川
上記天正17年徳川家康の小田原の陣における
今井の陣の絵図ですが小谷城の出丸図と非常
に酷似しています。今井陣もその古図に縄張
線を、おおよそ復元する事が可能です。
▲小谷城出丸 幾何学縄張
▲賤ケ岳城 幾何学縄張
◆みんな
すげえー!放射線測量ビイスタ論って新しい
城郭研究論の最新の研究手法です長谷川先生
さすがは城郭研究の金田一耕介と言えますよ!
◆質問者
長谷川さんはこの様な素晴しい画期的な
城郭分析方法をどの大学のどの先生から
学ばれましたか?
◆長谷川
私には手本とする師匠や先生やテキスト
ブックや教科書は一切ありません。城郭
研究において〇〇先生から私は学びまし
たとか〇〇先生のもとで師事したとかの
経歴は恥ずかしくて語るべきでは無い事
ではないでしょう。粘菌学者の南方熊楠
は大自然の粘菌から学門を悟った人です。
野菜売り場の店員さんの解説より畑で野
菜作り学ぶ事の方がどれだけ重要な事で
しょうか?私の師匠は長浜市北部の余呉
山中に無数に眠っている城郭遺跡こそが
城郭の先生であり、師匠だった訳ですよ。
城の先生は人間ではなく現場の城址です。
▼滋賀県長浜市木ノ本町 賤ケ岳城 放射線幾何学縄張
▼諸国古城之図 大坂 茶臼山御陣城
◆長谷川
この茶臼山は元来は前方後円墳と円墳のセット
になった様式の古墳群だと私は推定致します。
▼滋賀県長浜市大依山古墳前方後円墳
◆質問者
三重県で特に優れた縄張の城は存在しますか?
◆長谷川
それは蒲生氏郷の陣城とされる宮山城ですよ。
◆質問者
その城にはビイスタ工法「放射城郭縄張り」が
ありますか?
◆長谷川
遠方より設定したビイスタ線がある。
近江蒲生氏郷は信長の四女の娘婿で
あり彼の城郭日野には日野鉄砲生産
する戦国近代工業地帯ハイテク集団
であったと言えます。この宮山城の
縄張も様々縄張技巧の粋を集積した
戦国傑作城郭と言っても過言でない。
◆長谷川
更に青線を入れると繊細に細分割されています。
◆ぼけなすおじさん
ううんっ!まるで理髪店とか糸切餅顔負けの模様どすわ!
◆仕切人
ユーモアも良いですが是非真面目な見解を御願いします!
▼前川 ロハス長浜 社長
◆長谷川
動画の件
これはロハス長浜の前川社長がUチューブ
動画の企画を提案された事と余呉城郭研究
会生月茂会長が城郭ビイスタ論動画の撮影
に賛成されたからで私何も活躍してません。
研究や調査が研究家の存在が世間に行き渡
る為には研究者の優劣よりも優れた研究家
の資質や潜在能力に気付く人達優れた人々
の存在が大事で要するに見る目や慧眼です。
▼三重県 峯城見学会 「長谷川博美講師」
▼北伊勢の新聞
◆対談者
失礼ですが長谷川先生のブログフオロアー
様は183名様と極めて少なく先生の知名度
も全くゼロに近いと言っても過言ではない
一体このビイスタ論動画の真価は誰が何の
目的で1200回も見る必要があるのでしょう?
◆歴史城郭愛好家
城郭論とは戦前戦後をとおして虎口論「門」
曲輪論「郭配置論」導入系理論「登城経路」
城郭城址歴史に重点が置かれて語られ城郭
遺跡が評価されてきた。また縄張とは曲輪
や虎口論が一般的に語られ、それが縄張論
の正論や王道と見なされてきた。ところが
長谷川さんは絵画で言うところの「構図」
や音楽で言う所の楽譜や音符構成に相当す
る城郭形状の根本形状理論を解説するとい
う革新的な城郭遺跡形状構成解説理論です。
◆対談者
前書や能書は、よろしいから縄張築城術の
名手とされる藤堂高虎の実際の縄張技巧を
長谷川先生から是非御教示願います。今回
は虎口論や曲輪論は不要です。藤堂高虎の
縄張技術の深奥を知る為には赤木城を是非
解説願いたいと思います。
◆長谷川
先ずは高虎の当時の主君で天正11年1583年
賤ケ岳の羽柴秀長の陣城、長浜市木ノ本町
にある田上山城の陣城の形状を認識下さい。
角馬出/桝形/横矢桝形/放射状ビイスタ工法
▼赤木城図
▼赤木城図 ウッキペデアより引用
赤木城の概要図
A. 主郭 B. 北郭 C. 東郭 D. 西郭 E. 南郭
※ 伝・鍛冶屋敷跡
A. 主郭 B. 北郭 C. 東郭 D. 西郭 E. 南郭
※ 伝・鍛冶屋敷跡
▼赤木城 遠景
◆みんな
うわあー鶴翼の形の城です!羽柴秀次や秀吉の
監督が入った近江八幡山城に何か似ています!
◆長谷川
繰り返しの虎口導入経路や出丸も似てますね。
◆長谷川
次に赤木城の格部の残る放射状測量の痕を
順次検証します。先ずはAポイン放射線。
▼北からも西からも美しく放射線測量しています。
◆長谷川
次にBポイント放射測量線。非常に美しい設計線
◆長谷川
更にCポイント測量点 美しい放射線測量痕跡です。
◆長谷川
赤Dポイント線と青Aポイント線の重なりも見事。
◆みんな
流石は藤堂高虎!見事なビイスタ工法です!
◆質問者
方位軸つまり南北線の方位軸線は存在します?
◆長谷川
Fポイントが南北の方位軸線です。西郭群を
緻密に縄張りしています。またHポイント線
とGポイント線も綿密に連携絡みありリンク
しています。
◆長谷川▲
その他多数の緻密な集結測量線が存在してい
て藤堂高虎が抱える工人集団の冴えが読み取
れます。
◆質問者
藤堂高虎の築城技術を支えていた技術集団と
と一体何ですか?
◆長谷川
天正17年(1589年)秀長は山(材木奉行)に
秀長から任命されています。材木を採取する
には杣人「そまびと」とよばれる山林伐採業
者や木材を正確に加工するには番匠や大工達
の優れた技術手段が必要なんです。高虎出身
地の近江犬上郡近辺には信長の大船を多賀の
山中から伐採した大木を芹川を使い彦根松原
で建造させています。犬上郡甲良町河原豊後
守は後に甲良豊後守として日光東照宮造営に
関わります。また高虎の築く城郭の石垣勾配
は初期は寺勾配「真っ直ぐに石垣傾斜を作る」
技巧がみられます。堂宮大工「寺社建設」に
関わる技巧の系譜かと思われます。我々米原
『城歩会』では滋賀県犬上郡甲良町の勝楽寺
の寺勾配の石垣見学もしましたし名築城家の
1人さとれる明智光秀伝説の犬上郡佐目の城
の見学もしてきました。名築城家百々三河守
なども犬上坂田の近辺の出身です。何よりも
城郭の縄張の角度を、規定して行くのが大工
使う規矩術「きくじゅつ」城郭の放射測量に
持ちいられる角度は下記を参照して下さい。
規矩術を応用した勾殳玄の法則の角度により
各部の角度が規定測量されています。規矩術
を応用の「勾殳玄」の法則で角度を出します。
勾 配 | 角度 |
(寸) | (度) |
1.0 | 5.7 |
1.5 | 8.5 |
2.0 | 11.3 |
2.5 | 14.0 |
3.0 | 16.7 |
3.5 | 19.3 |
4.0 | 21.8 |
4.5 | 24.2 |
5.0 | 26.5 |
5.5 | 28.8 |
6.0 | 31.0 |
6.5 | 33.0 |
7.0 | 34.0 |
7.5 | 36.8 |
8.0 | 38.6 |
8.5 | 40.3 |
9.0 | 42.0 |
9.5 | 43.8 |
※10.0 | 45.0 |
★反論者
長谷川さんよ!城に規矩術「きくじゅつ」
なんて使われているなんて事をアンタが
勝手に言ったって、町の図書館なんぞに
何処にも一切書かれてねえーぞ!アンタ
城郭研究の異端者であり偽物研究何だよ!
◆長谷川
冷静に願います。規矩術「きくじゅつ」
の文言は長州藩に在籍し明治の政治主導
をした長州藩士達にも強く影響を与えた
吉田松陰が『城郭』と『規矩』について
佐久間象山宛ての手紙で明確に言及して
います。現代人が城郭の規矩を忘却した
だけの事で「規」は矩尺「かねじやく」
を意味し「矩」はコンパスも意味します。
城郭の縄張には規矩術が必須なのですよ。
かね【矩】
〔名〕
① =かねじゃく(曲尺)①〔壒嚢鈔(1445‐46)〕
② まっすぐなこと。直線。また、直角。
*平家(13C前)四「かねに渡いて推し落とさるな。
水にしなうて渡せや渡せ」
③ 規矩。模範となるもの。のり。
*五輪書(1645頃)地の巻「大将は大工の棟梁
として、天下のかねを弁へ、其国のかねを糺し、
其家のかねを知る事、棟梁の道也」*自由之理
(1872)〈中村正直訳〉四「凡そ人たるもの、
徳善才智、及び身体の事、みな自己を以て度尺
(カネ)となして」
▼ウイッキペデイア赤木城より
赤木城は、紀伊国牟婁郡北山郷の丘陵(現在
の三重県熊野市紀和町赤木字城山[6])に築か
れた平山城である。標高約230メートル
(238m[7]) に位置し、高さ(比高)は約30
[2]-40メートルである[8]。天正17年(1589年)
頃の一揆勢力を抑える目的で[9]、藤堂高虎
によって築城されたといわれる[2]。主郭を
中心として三方の尾根に郭(曲輪)群が設
けられ[10]、その尾根を利用した配置は中世
山城の形態をもつが、一方では高い石垣や
発達した虎口など近世城郭の要素も見られ[
1][11]、築城における過渡期の様相が認めら
れる[6]。
▼ウイッキペデイア赤木城より
紀南の熊野一帯は、南北朝の時代より
入鹿氏など多くの土豪が勢力を保持し
ていた[9][12]。天正13年(1585年)、
秀吉の紀州攻めの後、紀伊国の平定を
命じられた弟の秀長(後の和歌山城主)
により[2]検地が始まるが、天正14年
(1586年)8月、山本氏ら熊野牢人衆
による天正の北山一揆が起こった[13]。
この一揆は、秀長の制圧により10月に
はほぼ治まったが、天正16年(1588年)
9月から天正17年(1589年)5月にかけ
て徹底的に征伐された[11]。鎮圧の後、
秀長はこの地で山(材木[14])奉行に
就かせていた[15]家臣の藤堂高虎に
赤木城の築城を命じ[10]、天正17年
(1589年)頃に堅固な城が築かれた
と考えられる[14]。