城郭 長谷川博美 基本記録

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長浜特ダネ歴史情報 長浜2022年新春歴史城郭講演情報

2022-01-10 12:21:10 | 歴史講座
長浜特ダネ歴史情報
長浜2022年新春歴史城郭講演情報
 
令和4年の歴史城郭講演の真価を洞察する
令和4年1月15日 長浜臨湖講演の件!
講演受付窓口 ☎0749-86-4145
ウッデイパル余呉城郭係り 火曜営業所休日
 
城郭ビイスタ論 上文字クリック
 
◆一般者
城郭ビイスタ論の動画視聴回数が堅実に伸びて
います。
 
◆対談者
それは当然だと思います。戦前戦後を通し、城
郭ビイスタ論を公然とブログで展開した研究者
は長谷川先生が唯一ですから、これは飛び抜け
て優れた堅実で汎用性ある城郭研究と確信します。
 
◆一般者
城郭ビイスタ論を理解してマスターする以前に
もっと大切な城郭視点や根本や基礎は何です?
 
◆長谷川
野球なら
捕手=山田
投手=中村
一塁=田中
二塁=佐藤
三塁=後藤
左翼=中川
右翼=鈴木
中央=吉田
 
と9人の守備位置やポジションや打順は基本
基本中の基本と言え、知っておくべき事です。
9人の守備位置布陣フォーメンション陣形が
如何に大切であるかは、基本中の基本ですね。
歴史城郭=城郭分布=合戦の現実布陣は重要
な事。これは城は一点だけが城でなくブドウ
の一房の集合体がブドウと言え野球は9人の
緻密な連携で成り立っ集合体競技。グループ
や組織と言って良いです。それは中世では
衆と表現された連合組織で、自治集落ならば
惣村と呼ばれたたりしています。甲賀郡は郡
全体が惣村の連合組織とも解釈でき「甲賀
郡中惣」とも言われています。
 
◆一般者
そりやそうですよね!基本の基本なのですね!
9人の選手の中には是非知っておくべき是非
ともそのプレーを見て置くべき驚くべき人も
いますね!?例えば鈴木イチロウ選手そして
大谷翔平選手が9人の中に存在したらスゴイ!
それに9人以外でも優れた予備選手は必ず居る
城だって、隠れた素晴しい城跡は実際に存在!
 
◆反論者
令和4年1月15日の長浜臨湖講演の演題の塩津
谷の9城の解説なんて誰が講演に参加するか?
ほんな、しょうもない講演何の価値があるか?
 
◆対談者
しょうもない=くだらない。取るに足らない。
それは貴方自身が「しょうもない」証拠です。
 
長谷川
当日解説する9城の中にはイチロウ選手、大谷
選手に匹敵する驚くべき優秀な城郭遺跡が存在
するのです。賤ケ岳合戦で丹羽長秀は塩津海津
に秀吉に協力し軍隊を配備している。また塩津
は本舗地頭の熊谷氏地頭職の城郭群が塩津谷に
は拡がっている訳です。米原でも本舗地頭土肥
氏の巨大な中世城郭が見つかっていますし守護
地頭と言う中世のヒエラルキー「階層」を認識
する事は非常に大切な歴史認識とも言えます。
『菅浦文書』に登場する「しほつ勢」は塩津勢。
 
◆質問者
その熊谷氏と言うのは室町期の人物ランキングや
席次ではどの様なポジションに居たと言えますか?
 
◆長谷川
殿様の京極高清は饗応記では北近江№1の席次です。
北近江地頭職の熊谷氏は北近江№3と言う席次です。
また浅井亮政は北近江№13の席次です。勿論饗応
のスポンサーで主役とは浅井亮政と解釈でき北近江
第一の実力者は「浅井備前守亮政」と言えますが?
果してこの北近江№3の熊谷氏の本拠地こそ塩津谷
に9カ所も城を持っていた。いやいや13カ所もの城
を持っ湖北№3に相応しい実力者なんです!熊谷氏
は塩津谷に湖北町今西にも城館を長浜市南浜にも城
をもつ強豪地頭職であ、り隣国越前疋田城とも合戦
しています。浅井氏とは別系統の琵琶湖岸の強豪の
勢力であるから饗応記の席次は当然№3であり当然
塩津谷には10カ所以上の中世城郭を分布配置し塩津
街道に君臨していた事になります。現代の塩津国道
8号線の道の駅の交通量の多さや繁栄は北陸道開設
されるとも塩津谷の交通量の多さは西近江路と越前
敦賀への交通網を押えて隠然とした勢力を古代から
塩津や塩津谷が交通ま要所「塩津港」保有していた
正に日本の交通の動脈の1つと言える場所こそが
塩津谷なんです。あの天下の、日本通運の原型団体
組織が塩津から発生している事や大津と塩津の婚姻
も多い。源平の頃には入道相国平の清盛が塩津谷の
深坂峠の開削を目指して小松重盛に塩津深坂に運河
計画を画策して未完に終わっております。賎ケ岳の
合戦では羽柴秀吉の有力同盟大名、丹羽五郎左衛門
が塩津海津に3000人また敦賀疋田サラの山城にも陣
を構えて西近江路方面への守備に万全をきしていた!
 
◆長谷川
【天文三年浅井備前守宿所饗応記】の席次では
北近江№3の人物です、ちなみに浅井亮政の席次
13番目と天文3年段階では殿舎の中の席次は低
い身分と『饗応記』から推察されます。私は浅
井氏が身分が低かったと言っているのではない
のです。【饗応記】は、室町幕府を中心とした
守護職、地頭職の中世武士社会の旧体然とした
室町期の武家社会の序列や席次が歴然と残って
いる事を知る文献です。まだ旧体制の湖北の武
家体制や序列にある武家としての上層階級の人
々を江北№13の浅井氏が戦国大名化し台頭して
当時江北の武家社会上層部を饗応できる財力と
実権を「式典/饗応」の場で下剋上の実力と現実
を知らしめる効果が「饗応」の本質にあります。
 当時北近江、江北№3の人物!本舗地頭職の
熊谷氏が如何に塩津谷に9箇所堅固な城郭を所
有していたか文献【天文三年浅井備前守宿所饗
応記】と現地城郭遺跡塩津谷9箇所の城を文献
と現実の城を照らし合わせ考察する事が冷静な
歴史城郭講演です。もし貴方が塩津の9箇所の城
を草野球チームの9人と侮れば、それまでの事で
貴方の先入観や固定概念や歴史主観と言えます。
当日の講演では野球で言う所の大谷翔平選手や
イチロウ選手クラスとも言える塩津熊谷氏の城
郭遺跡解説を聞けば流石は【天文三年浅井備前守
宿所饗応記】に№3として登場する熊谷氏の城
だと納得得心される事でしょう。しようもない!
と最初から決め付けて湖北の№3の地頭の城を
侮っていては、冷静な北近江の歴史研究は万年
足踏み状態で進捗しないと思います。西浅井町
は長浜市にとり重要な位置を占めているという
冷静な歴史的認識を致しましよう。熊谷氏が
湖北№3と言う事はこれはオリンピックならば
銅メダルに相当する。当然塩津の城は胴メダル
に相応しい堅固な城と言う事になります。甲賀
で例えるなら甲賀和田惟政は足利義輝に仕え次
に足利義昭を甲賀和田谷に逗留させ和田に7城
もの城郭群を構えて割拠していた武装集団です。
西浅井塩津谷9城を鼻から無視する様では本来の
浅井郡は琵琶湖をまたいで西と東に及ぶ広範な
範囲の郡でした。古代の浅井寺は湖北町今西の
近くに存在し山本山の裾は朝日村であった事
「あさひ」であった事を忘れない事が重要です。
西浅井町の歴史を鼻から無視せずに広い視座や
視点に立って西浅井の城郭遺跡を冷静に認識致
しましよう。ようするに歴史城郭は軽々しく
現代の尺度やイメージ論や印象で推し測る事は
慎みましよう。歴史とは深い現実交通史です。
 

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