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織田信勝 織田信澄 親子で暗殺された悲劇

2020-03-14 15:22:22 | 戦国武将
織田信勝 織田信澄 親子で暗殺された悲劇

親子、二代に渡り暗殺された人と言えば
アメリカのケネディを想起される人も多
いかと思います。日本の戦国時代は武将
が暗殺される事は、よく発生しています。

尾張織田信長の弟は出来の良い折り目の
正しい武士で兄信長に代わり勝手に弾正
忠を名乗り信長に反乱して家の主になろ
うとした人物です。一般には信行として
知られていますが正式には信勝です。彼
の家老は柴田勝家で勝の文字は主君の偏諱
(へんき)を賜ったものでしよう。従って
柴田勝家は、一生改名しなかったので彼の
主君は信長の弟「信勝」の部下として認識
していた事でしよう。信長は信勝が病気と
偽り見舞いに来た信勝を信長は殺害してい
ます。厳しい戦国です。兄に一度反抗し、
のこのこと信長の見舞いに出掛けて行き暗殺
されております。柴田勝家は主君、信勝の
子供を養育して成人させます。この頃には
津田坊と『信長公記』にも表現されており
信長の一族として安土築城普請役の一員と
して登場しています。京都で催された織田
一族とその家臣団の馬揃においても織田家
の五番目の席次で彼は登場します。才覚の
ある人物とみえ奈良興福寺の多聞院英俊は
「一段の逸物也」と記していますが、天正
10年本能寺変時に大坂城千貫櫓で暗殺され
ています。この織田信澄は父を信長の弟の
信勝にもち養育は柴田勝家にされ近江高島
郡の磯野丹波守の養子となり更に明智光秀
の娘婿となり近江高島郡大溝城主となって
織田家の連枝「一族衆」としてなりますが
残念な事に本能寺の変の時に明智方の人物
として大坂城に滅ぼされてしまう事になり
ました。一説に信長の弟信勝が弾正忠を名乗
つたように織田信澄も叔父信長に大和国の
領地を所望してたしなめらる一幕もあった
とか?親子二代にわたり、暗殺され叔父の
信長も従兄信忠も京都で殺害され自分自身
も殺害される悲運武将の持とも言えます。
▼織田信澄の大溝城の天守台な豪壮な石垣
養父の柴田勝家も天正11年1583年に賤ケ岳合戦
で内中尾山を築城して奮闘しますが羽柴秀吉に
敗れて北庄城に帰り、無念の自害をしています。
▼長谷川博美 ブログ著者自筆城郭イラスト

高島郡の養父だった磯野丹波守も信長
の折檻を受けて何処ともなく逐電して
います。ここに登場した織田、柴田、
明智諸行無常滅びて行った事になります。
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1 コメント

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Unknown (長谷川博美)
2020-03-14 18:12:51
良いね!
一名様
ありがとう
ございます。
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