城郭 長谷川博美 基本記録

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備後木梨鷲尾山城の新研究

2024-09-11 21:53:23 | 山陽山陰の城 ビイスタ工法

備後木梨鷲尾山城の新研究

◆対談者

長谷川先生の城郭ビイスタ論

それにしてもロングランが続い

ていますね。城郭遺跡の設計

測量法に言及しながら日本各

地の城を解読していく研究手

法は昭和平成には見られなか

た新しい城郭研究視点です。

◆備後太郎

杉原氏の木梨鷲尾山城には

城郭ビイスタが存在しますか?

 

◆長谷川

正確には解らないと思います。

概ね12345のビイスタから城が

形成されていると思います。

 

◆質問者

本丸のビイスタはどの様な形式?

◆長谷川

本丸の各辺は下図の様に計測を

され計画設計されてると思います。

◆長谷川

Wビイスタもあるようです。

 

 

杉原 隆盛(すぎはら たかもり)は、戦国時代武将小早川氏の家臣。鷲尾山城主。備後杉原氏備後国御調郡木梨庄の国人。同族に杉原盛重などがいる。

生涯

[編集]

備後国御調郡木梨庄の国人である杉原光恒の子として生まれる。

天文12年(1543年)6月、備後国へ攻め寄せた尼子氏の攻撃によって鷲尾山城は落城。父・光恒は自害し、隆盛も捕縛され尼子氏の本拠である出雲国へ連行されたが、出雲国からの逃亡に成功し、大内義隆の支援で家名を再興する。家名を再興してから程無くして毛利元就に従った隆盛は小早川隆景に属し、天文21年(1552年)頃には隆景と義兄弟の契りを交わした。

永禄10年(1567年)には毛利輝元から長門国宇賀荘において100貫を与えられたが、永禄10年(1567年)から永禄13年(1570年)の間に、西隣の石原忠直に鷲尾山城を急襲され、流れ矢に当たり戦死した。

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