城郭 長谷川博美 基本記録

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仰天! 毛利一族 小早川隆景の城の秘密

2024-09-05 07:37:11 | 山陽山陰の城 ビイスタ工法

仰天! 毛利一族 小早川隆景の城の秘密

 

◆備後陽介「匿名」

無名城郭研究家長谷川先生

の投稿毛利一族の城の秘密

が大変話題になっています

何しろ城郭ビイスタ理論と

言う明治大正昭和平成には

なかった全く新しい重要な

城郭理論事が解り仰天です。

◆長谷川

備後様しかし私のブログの

読者訪問者様10人を超える

事のない不人気ブログです

御称賛の言葉は逆に傷心で

私の城址見学会参加者様も

2~3人で私は社会弱者です

 

◆意見者

そりやそうでしよう長谷川

先生が100年に1人出るか?

出ないかの城郭研究家さん

でも先生の値打ちを下げて

る人がミウチにいる事残念

 

◆長谷川

そう言われても私は幹事でも

何でもない素人研究家ですか

ら例え2人3人の参加者の会で

も解雇されない様に幹事様の

意見に心配り従う日陰者です。

 

◆対談者

さて毛利氏の城の縄張技術を

先生のブログを見て驚いた!

 

◆提案者

そこで毛利一族小早川隆景の

城郭の縄張秘術城郭ビイスタ

論を是非長谷川先生の御教示

を願いたい長谷川先生はもう

言うまでもなく日本東洋では

隠れなき規矩術城郭ビイスタ

理論の大家である事は間違い

ない事と思います。ただ世間

一般の人は先生の解説の深さ

が解らない事が痛く残念です

 

◆長谷川

よるべなき城郭研究家にして

城郭縄張の究道家の私個人は

広く世間の人々と接する機会

が極めて少ない事は確かです。

 

◆質問者

小早川隆景は毛利元就三男に

して高山城を居城にしたとさ

れます。高山城の幾何学設計

縄張のベーシックな部分教示

下さい。基本的な部分で結構。

 

◆長谷川

詳しく申し述べる事は不可能

です。隆景の最初の城郭とは

小早川氏累代の高城だと思い

ます。非常に曲輪が多い巨大

な城郭遺跡で私のビイスタ学

から分析しますと概ね赤線、

青腺、黒線、三方から規矩術

つまりビイスタ放射状に縄張

された城だと分析致します。

◆若者様

スゲエー!こんな専門的解説を

される城郭先生は日本国には

長谷川先生唯一だと思います。

 

◆長谷川

 若者様の応援には感謝しま

す将来貴君が城郭研究家とし

て多くの人々の前で講義する

人となられた2080年頃には私

城郭ビイスタ論に触発された

と、一言おしやつて下されば

無名の捨てられた研究家とし

ては幸いな事です。

 

◆質問者

小早川隆景は高山城から新規

に新高山城「につたかやま城」

を築いてうつりますが新高山

城には城郭ビイスタ工法自体

が存在するのでしょうかね?

▲毛利氏郡山城ビイスタ工法

◆長谷川

隆景は上図の安芸郡山城の右下

多治比猿掛城跡で誕生している

武人ですから郡山城の縄張技術

を毛利氏から隆景に付属された

優秀な縄張師や職能集団が従属

していた事かと私は思います。

 

◆否定論者

そんなもの新高山城にはビイスタ

など存在しない長谷川説は虚説だ。

 

◆対談者

そういう頭ごなしの否定論者様が

明治大正昭和平成と城郭研究進捗

を阻害してきた学術疲弊の原因だ。

 

◆長谷川

私は素人アマチュア研究家なので

毛利隆景の新高山城のビイスタは

この様な扇型縄張と推定してます

 

◆若者様

スゲエーの連発だよ長谷川先生

 

◆長谷川

冷静にお願いを 申し上げます。

様々な測量起点が読み取れます。

◆若者様

こんな解説文他のブログには

一切書いていない新研究です。

 

◆長谷川

更に冷静にお願い 申し上げる。

様々な測量起点が読み取れる。

新高山城には様々な城郭測量

起点が読み取れると言えます。

◆質問者

小早川隆景は三原城を

築城して新高山城石垣

等もうつしますが三原

城にビイスタは存在?

 

◆ウイッキペデイア引用

永禄10年(1567年)頃に、小早川隆景

よって整備が始められたとされる[3]

隆景は天文19年(1550年)に竹原・

沼田・両小早川家を掌握し、翌年には

高山城に入城している[5]。その後、

天文21年(1552年)、沼田川対岸

新高山城を創築し本城とした[5]

弘治元年(1555年)には、厳島の

戦い水軍を率いて毛利勢の勝利

に貢献するなど、急速に小早川家、

ひいては毛利家の伸長を図っている。

後に隆景は、現在の沼田川河口の

三原湾に浮かぶ小島や中州をつないで、

いわゆる砦を築き水軍の拠点とした。

これが三原城の原型を成したものと

思われ、三原要害とも呼ばれていた

ようである。当時、新高山城下まで

瀬戸内海は深く湾入していたものの、

勢力を強める小早川水軍水運)の

差配には、より効率的な運用が期待

できるこの地に「三原城」を整備し

たものと思われる。

 

◆女性質問者

三原の城下町ってまさかビイスタ

で作られているというような事は?

 

◆長谷川

良い質問されます。その通り!

それ城郭ビイスタと言います!

 

◆長谷川

後に小早川隆景は名島城に

移りますが名島も類似縄張

 

◆長谷川

このように複数のビイスタ

が三原城図から読み取れる。

 

 

 
◆長谷川
次に本丸の三角形を中心とする
ビイスタ工法の潜在を検討します。▼
◆長谷川
更に別視点からもビイスタ工法を考察致します。
◆対談者
やはり城郭ビイスタは確実論です!
 
質問者
小早川隆景が最後に築城した城には
城郭ビイスタがあるのでしょうか?
 
 
天正17年(1589年)、筑前国名島城に入った[29]
 
質問者
天正17年の九州筑前名島城には
城郭ビイスタがありましたか?
 
◆長谷川
古絵図をみると概略ビイスタ
工法の小早川隆景らしい縄張
の水城「海城」だったと思い
ます。
◆長谷川
但し別古図は全くビイスタを
読取れる図ではなくこの名島
古代之図が正しいのかは不明
 
◆対談者
成否は別として城郭遺跡をこ
の様な視点観点で捉える発想
は令和城郭学にとって重要!
 
◆質問者
天正17年と言えば羽柴秀吉
は関白豊臣秀吉という朝廷
内の官位を拝領して後北条
氏の小田原城の攻囲を実施
していました。この当時の
秀吉の石垣山陣城にはたし
て城郭ビイスタが存在した?
 
◆長谷川
たしかに秀吉の石垣山一夜城
は重複ビイスタ工法の城です。
 
 
◆長谷川
太閤秀吉の文禄慶長の役の
時の秀吉の本陣肥前名護屋
城も重複型ビイスタ工法と
言えます。織豊城郭ですね。
◆対談者
小早川隆景も最初は毛利一族
の一員として活躍していまし
たがやがて豊臣秀吉に協力的
な織豊大名として筑前名島城
を築城したと言うことになる
さすれば名島城は織豊城郭の
ビイスタと言う事が言えませ
んか?
 
◆長谷川
確かに名島城古図にはビイスタ
工法を感じさせるものがある。
◆長谷川
寛政と書かれた古図を分析
すると織豊ビイスタに近い
しかし決論は未だ先にしま
しよう。軽率な結論を述べ
ない。歯切れの悪さこそが
慎重研究家長谷川の特徴と
言う事になります。
 
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