古代と戦国の城 普遍性
対談者
長谷川先生のブログを見ると城郭も古代
もあり、古墳記事を見た途端に私には関係
ない世界と拒絶反応を起こし全く見ません。
長谷川
なぜ拒絶反応を起こすかと言うと、人間
とは自分の趣味や歴史事物に限定して物事
を判断する傾向があり固定概念があります。
長谷川
例えば靴に興味のある人はありとあらゆる
時代の靴を見学したり興味深く観察するもの
城に興味がある学者や研究家は、人間にとり
城郭とは何かと?普遍的な考察をしています。
対談者
でも戦国時代と古墳時代は関係ない教科書
でも、別の時代です、それぞれ分野が全く異
なる別次元の分野で、私は古代興味無しです。
対談者
しかし人間の人生とは短いもの、私達は単に
昭和、平成、令和と生きているだけかと思う。
他の時代の他の世界も見聞したいと思います。
長谷川
ここで少し心に余裕と柔軟性を持ちましょう。
城郭好きの皆様と私がある博物館に行き、私が
囲い形埴輪を見て声をだして感嘆しているのに
城址好きの方々は全く見学する気がありません。
これは自分の興味のある分野は戦国時代や中世
だけと自分の脳の中で、限定しているんですよ。
世の中の人は城は石垣だと限定している人も、
また城とは土塁だと思い込んでいる人、また城
とは観光の場、憩いの場、行楽の場と、それぞ
れ100人100色の好みや解釈があるのは、個人が
幼少期から城と関わってきた履歴や脳内で形成
される記憶伝達神経シナプスが介在していると
思われます。つまり三つ子の魂100までと言われ
る個人の志向や思考の違いは幼少期にまで遡って
介在していると私は思います。全く同じ遺伝子を
受け継いだ一卵性双生児でも成長過程で経験した
内容が異なるから個人差が発生するのでしょう。
対談者
そんな事言っても、私の興味は城郭なのです!
長谷川
古代の城郭と中世戦国の城にも一種普遍性が
ある事も解っています。有名な武田勝頼築城
の甲斐新府城にはね2カ所の出構と言われる
側面射撃施設がありますが、群馬県高崎市に
ある古墳時代後期の豪族居館遺跡。 三っ寺
Ⅰ遺跡は是が古墳時代の城郭と目を疑う城郭
城館遺跡が発見されている事にも注目したい。
▼城址を解説する長谷川博美
長谷川
そうです。私の興味は普遍的な城郭観察です。
さてさて天正11年1583年の賎ケ岳合戦の陣城
の数々を皆様と見学しましたが、誰1人として
堂木山陣城の食違い虎口を見て、感激する人が
いない事なんですよ。私が必死に喰い違い虎口
を観察しましよう。見学しましょうと声を枯ら
して力説しても、興味がないと拒絶する人も、
喰い違い虎口を、よく観察して見ましょうよ!
対談者
それは行楽や観光や歴史散策を目的にする人。
世の中には城郭好きと言って全く城址を観察
する気が100%ない人も現実にはおられます。
自分は城郭大好きと言っておきながら、全く
城址を見学観察しておられない人は多いです。
たしかに世の中には
城址を通過する事が得意な人が多く。
城址遺跡として見学する人は少ない。
この堂木山城の記念写真だってみんなは横堀
に入って一名の方は二の郭の土塁上におられ
ます。しかし奥の本丸に相当する主郭は全く
喰い違い虎口の効果により見えなく工夫され
ています。
長谷川城郭講座の受講者
そう言う言わても城の橋だけでも長谷川先生
から教示された橋は様々なものがあり城郭の
橋ってそんなに単純なもんじやないですよ!
長谷川
そう!簡単に観光の人と扱うよりも世の中には
城郭ブームだけじやない。「喰い違い虎口」に
興味を持っ人が増える事を、私は強く願います。
永禄11年期の南近江佐々木六角の名城、和田山
城の見学した時も私はこの城の食違い虎口を見
ましょうと力説したんですが。参加者のなかに
「ワシそんなの見たくない!長谷川さんアンタ
の城郭遺跡解説など聞きたくない」と言われて
ソソクサと下山された人もあります。こんな時
には私はすっかり研究家として城郭遺跡解説者
として完全に自信を無くす事も多々あります。
僕は城郭解説者として失格だと落込むタイプ!
現在の私には、私の解説を盗む人こそ居ますが
長谷川さんと城址見学したいなどと言う人は0
人です。当然このブログを読んでいる人も少数!
対談者
さて私は初心者なんですが賎ケ岳合戦の陣城を
長谷川先生と見学して玄蕃尾城、堂木山、東野
山、田上山前衛防塁などをメモに喰い違い虎口
として記録してます。名古屋城、和歌山城など
もその他の城水口岡山城、小谷福寿丸、東近江
の大森城址なども見学して見ていますが、、?
対談者
東野山なども何度見学しても素晴らしいです!
また城内に直進できないクランク、カギ折れ
も見学しており、非常に興味深く思います。
佐和山城 橋台 長谷川博美 解釈
長谷川
素晴らしい城郭遺跡観察力ですね!では囲い形
埴輪も見学しませんか?喰い違いの古代建物の
玄関を柔軟な発想で是非とも観察しましょう。
もちろん私は大学で神道史も専攻しており
ましたから、これら建物が厠「かわや」トイレ
や便所や貴人の婦人の産所や忌屋「いみや」と
も解釈しますが、、、、?
しかし、三角形の板壁は、古代城郭の胸壁と
考える事も可能です。大陸から日本へと伝来し
た胸壁は古代豪族の邸宅を囲む三角形の胸壁へ
と形骸簡略化したと考えています。そして中世
の神社の板塀も三角板を張り巡らしたものがあ
ります。三角形を、神道的な解釈をするならば、
貴人を外敵や悪疫から守衛する意味つまり禁忌
の意味つまり忌や宮城を護る事や衛士の象徴と
も、民俗学的に拡大解釈できるかもしれません?
長谷川
もっとも古代三角形の宮殿を護る板塀とは
八束清貫氏の『神社有職故実』にある後世の
盾が楯並べてある景観の可能性もあります。
以下は民俗学的な考察や解釈になると思います。
隼人の楯
私は「はや」の意味や「隼人」を海洋民族だと
連想する。それは急ぎの便の供え物の意か?
一説に、「速」と「初」とは意が通じ、初物の
早鐘、早馬、早舟、早籠、疾風を「はやて」と
言い。俊敏なる淡水魚を「はや」「はよ」など
も言う。一部の地域には隼人を「はや」と伝承
する事もある。またハヤ遠吠えと言う犬の如
き神道における儀礼が伝承される。
『延喜式』の楯は「長さ五尺、広さ一尺八寸、
厚さ一寸、頭には馬髪を編みつけ、赤白の土墨
でもって鈎(こう)形を画く供え物の意とする。
とあります。
※古事記(712)上
「是を以て御世に島の速贄(はやにへ)献れる時」
とあるからハヤとは元来海の民、駿足の民と思う。
現代の日本においても腐りやすい食品や魚介類を
「足が速い」と暗喩的に表現を日本人は時に使う。
隼人の楯
奈良平城宮から発掘された隼人の楯なども幾何学
の三角紋が見えます。これなども九州南部の隼人
族が畿内大和の平城宮を守衛守護する象徴である
三角紋かも知れません?隼人の舞に、象徴される
隼人族は大和に服従してからは、地方への早馬や
伝令役として活躍したとされますが未だに謎です。
隼人司(はやとし)は、律令制において衛門府、
後に兵部省に属した機関。訓、はやひとのつかさ
▼隼人塚の石像
北条氏の家紋 三つ鱗紋「みつうろこ紋」
魚類のうろこ海浜に関わる氏族と思われる。
▼江戸の町火消の装束 三角紋を観察したい。
▲江戸の町火消の統領格が着用する俗称「だんだら紋様」
その装束は元禄赤穂義士に象徴されるように思われる。
▼幕末に新撰組が愛用は着用した、だんだら紋様の羽織。
隼人や新撰組に象徴される▲三角紋様は
日本には営々続く伝統的な平城京を護りの衛士
の流の隼人や江戸の町火消の役割そして幕末の
京都所司代の松平容保の役目、京都市内の治安
を警邏する新撰組などの衛士の流や伝統の系譜
が存在するのであろうか?「微笑」であります。
三角形を単位紋とする鋸歯(きょし)紋、いわ
ゆるギザギザ模様である。一説には悪霊に対す
る威嚇という呪術的な意味合いのものとされる。
古墳時代の盾には漆を塗っている例もある。
『続日本紀』において、文武天皇2年(698年)
11月に行われた大嘗に榎井倭麻呂が大盾を立てる
儀礼を行い、以降、大嘗に当たり、物部・石上・
榎井氏によって、大嘗宮の門に盾を立てること
が慣行となったとある。古代日本において盾は
実用具以外の面も持ち合わせており、権力者の
墓や建物、宮門を悪霊の類から守る信仰は一例
とみられる。
対談者
長谷川先生のブログを見ると城郭も古代
もあり、古墳記事を見た途端に私には関係
ない世界と拒絶反応を起こし全く見ません。
長谷川
なぜ拒絶反応を起こすかと言うと、人間
とは自分の趣味や歴史事物に限定して物事
を判断する傾向があり固定概念があります。
長谷川
例えば靴に興味のある人はありとあらゆる
時代の靴を見学したり興味深く観察するもの
城に興味がある学者や研究家は、人間にとり
城郭とは何かと?普遍的な考察をしています。
対談者
でも戦国時代と古墳時代は関係ない教科書
でも、別の時代です、それぞれ分野が全く異
なる別次元の分野で、私は古代興味無しです。
対談者
しかし人間の人生とは短いもの、私達は単に
昭和、平成、令和と生きているだけかと思う。
他の時代の他の世界も見聞したいと思います。
長谷川
ここで少し心に余裕と柔軟性を持ちましょう。
城郭好きの皆様と私がある博物館に行き、私が
囲い形埴輪を見て声をだして感嘆しているのに
城址好きの方々は全く見学する気がありません。
これは自分の興味のある分野は戦国時代や中世
だけと自分の脳の中で、限定しているんですよ。
世の中の人は城は石垣だと限定している人も、
また城とは土塁だと思い込んでいる人、また城
とは観光の場、憩いの場、行楽の場と、それぞ
れ100人100色の好みや解釈があるのは、個人が
幼少期から城と関わってきた履歴や脳内で形成
される記憶伝達神経シナプスが介在していると
思われます。つまり三つ子の魂100までと言われ
る個人の志向や思考の違いは幼少期にまで遡って
介在していると私は思います。全く同じ遺伝子を
受け継いだ一卵性双生児でも成長過程で経験した
内容が異なるから個人差が発生するのでしょう。
対談者
そんな事言っても、私の興味は城郭なのです!
長谷川
古代の城郭と中世戦国の城にも一種普遍性が
ある事も解っています。有名な武田勝頼築城
の甲斐新府城にはね2カ所の出構と言われる
側面射撃施設がありますが、群馬県高崎市に
ある古墳時代後期の豪族居館遺跡。 三っ寺
Ⅰ遺跡は是が古墳時代の城郭と目を疑う城郭
城館遺跡が発見されている事にも注目したい。
▼城址を解説する長谷川博美
長谷川
そうです。私の興味は普遍的な城郭観察です。
さてさて天正11年1583年の賎ケ岳合戦の陣城
の数々を皆様と見学しましたが、誰1人として
堂木山陣城の食違い虎口を見て、感激する人が
いない事なんですよ。私が必死に喰い違い虎口
を観察しましよう。見学しましょうと声を枯ら
して力説しても、興味がないと拒絶する人も、
喰い違い虎口を、よく観察して見ましょうよ!
対談者
それは行楽や観光や歴史散策を目的にする人。
世の中には城郭好きと言って全く城址を観察
する気が100%ない人も現実にはおられます。
自分は城郭大好きと言っておきながら、全く
城址を見学観察しておられない人は多いです。
たしかに世の中には
城址を通過する事が得意な人が多く。
城址遺跡として見学する人は少ない。
この堂木山城の記念写真だってみんなは横堀
に入って一名の方は二の郭の土塁上におられ
ます。しかし奥の本丸に相当する主郭は全く
喰い違い虎口の効果により見えなく工夫され
ています。
長谷川城郭講座の受講者
そう言う言わても城の橋だけでも長谷川先生
から教示された橋は様々なものがあり城郭の
橋ってそんなに単純なもんじやないですよ!
長谷川
そう!簡単に観光の人と扱うよりも世の中には
城郭ブームだけじやない。「喰い違い虎口」に
興味を持っ人が増える事を、私は強く願います。
永禄11年期の南近江佐々木六角の名城、和田山
城の見学した時も私はこの城の食違い虎口を見
ましょうと力説したんですが。参加者のなかに
「ワシそんなの見たくない!長谷川さんアンタ
の城郭遺跡解説など聞きたくない」と言われて
ソソクサと下山された人もあります。こんな時
には私はすっかり研究家として城郭遺跡解説者
として完全に自信を無くす事も多々あります。
僕は城郭解説者として失格だと落込むタイプ!
現在の私には、私の解説を盗む人こそ居ますが
長谷川さんと城址見学したいなどと言う人は0
人です。当然このブログを読んでいる人も少数!
対談者
さて私は初心者なんですが賎ケ岳合戦の陣城を
長谷川先生と見学して玄蕃尾城、堂木山、東野
山、田上山前衛防塁などをメモに喰い違い虎口
として記録してます。名古屋城、和歌山城など
もその他の城水口岡山城、小谷福寿丸、東近江
の大森城址なども見学して見ていますが、、?
対談者
東野山なども何度見学しても素晴らしいです!
また城内に直進できないクランク、カギ折れ
も見学しており、非常に興味深く思います。
佐和山城 橋台 長谷川博美 解釈
長谷川
素晴らしい城郭遺跡観察力ですね!では囲い形
埴輪も見学しませんか?喰い違いの古代建物の
玄関を柔軟な発想で是非とも観察しましょう。
もちろん私は大学で神道史も専攻しており
ましたから、これら建物が厠「かわや」トイレ
や便所や貴人の婦人の産所や忌屋「いみや」と
も解釈しますが、、、、?
しかし、三角形の板壁は、古代城郭の胸壁と
考える事も可能です。大陸から日本へと伝来し
た胸壁は古代豪族の邸宅を囲む三角形の胸壁へ
と形骸簡略化したと考えています。そして中世
の神社の板塀も三角板を張り巡らしたものがあ
ります。三角形を、神道的な解釈をするならば、
貴人を外敵や悪疫から守衛する意味つまり禁忌
の意味つまり忌や宮城を護る事や衛士の象徴と
も、民俗学的に拡大解釈できるかもしれません?
長谷川
もっとも古代三角形の宮殿を護る板塀とは
八束清貫氏の『神社有職故実』にある後世の
盾が楯並べてある景観の可能性もあります。
以下は民俗学的な考察や解釈になると思います。
隼人の楯
私は「はや」の意味や「隼人」を海洋民族だと
連想する。それは急ぎの便の供え物の意か?
一説に、「速」と「初」とは意が通じ、初物の
早鐘、早馬、早舟、早籠、疾風を「はやて」と
言い。俊敏なる淡水魚を「はや」「はよ」など
も言う。一部の地域には隼人を「はや」と伝承
する事もある。またハヤ遠吠えと言う犬の如
き神道における儀礼が伝承される。
『延喜式』の楯は「長さ五尺、広さ一尺八寸、
厚さ一寸、頭には馬髪を編みつけ、赤白の土墨
でもって鈎(こう)形を画く供え物の意とする。
とあります。
※古事記(712)上
「是を以て御世に島の速贄(はやにへ)献れる時」
とあるからハヤとは元来海の民、駿足の民と思う。
現代の日本においても腐りやすい食品や魚介類を
「足が速い」と暗喩的に表現を日本人は時に使う。
隼人の楯
奈良平城宮から発掘された隼人の楯なども幾何学
の三角紋が見えます。これなども九州南部の隼人
族が畿内大和の平城宮を守衛守護する象徴である
三角紋かも知れません?隼人の舞に、象徴される
隼人族は大和に服従してからは、地方への早馬や
伝令役として活躍したとされますが未だに謎です。
隼人司(はやとし)は、律令制において衛門府、
後に兵部省に属した機関。訓、はやひとのつかさ
▼隼人塚の石像
北条氏の家紋 三つ鱗紋「みつうろこ紋」
魚類のうろこ海浜に関わる氏族と思われる。
▼江戸の町火消の装束 三角紋を観察したい。
▲江戸の町火消の統領格が着用する俗称「だんだら紋様」
その装束は元禄赤穂義士に象徴されるように思われる。
▼幕末に新撰組が愛用は着用した、だんだら紋様の羽織。
隼人や新撰組に象徴される▲三角紋様は
日本には営々続く伝統的な平城京を護りの衛士
の流の隼人や江戸の町火消の役割そして幕末の
京都所司代の松平容保の役目、京都市内の治安
を警邏する新撰組などの衛士の流や伝統の系譜
が存在するのであろうか?「微笑」であります。
三角形を単位紋とする鋸歯(きょし)紋、いわ
ゆるギザギザ模様である。一説には悪霊に対す
る威嚇という呪術的な意味合いのものとされる。
古墳時代の盾には漆を塗っている例もある。
『続日本紀』において、文武天皇2年(698年)
11月に行われた大嘗に榎井倭麻呂が大盾を立てる
儀礼を行い、以降、大嘗に当たり、物部・石上・
榎井氏によって、大嘗宮の門に盾を立てること
が慣行となったとある。古代日本において盾は
実用具以外の面も持ち合わせており、権力者の
墓や建物、宮門を悪霊の類から守る信仰は一例
とみられる。
あと、今月6日に「とりいもとまつり」があり、その時に城下の橋台跡の見学会に行きましたが、事前に先生のBlogを読ませてもらっていたため非常に分かりやすかったです。ありがとうございます。ただ現地で説明をしていた人は「道がまっすぐに通っていた」と説明していましたが(困)。
現地解説は適切だと思い
ます。ただ橋台の石垣の
長さが城内と城外では
内側が短く、半分でした。
今後の発掘の進捗を
冷静に待ちましょう。
城址でも遺跡でも様々な
解釈がでる事があります。
今回あなたの様な意見が
出た事は私のブログを読ん
おられる人がどうもゼロで
はない事に気付きました。
ほんとうに感謝致します。