勝賀城のビイスタ工法
城郭ビイスタ論動画は余呉城郭研究会
が長浜臨湖会館で開催した城郭研究史
に一石を投じる従来にない画期的城郭
分析理論、放射状縄張理論ビイスタ論
▼長浜市在住の生月会長
と余呉城郭研究会の面々
講師 長谷川博美
▼雪渓残る北国佐久間盛政の行市山陣城の
見学をする余呉城郭研究会の優れた面々。
◆対談者
長谷川さんの城郭ビイスタ論動画見させて
いただきました。最初見て異端の城郭理論
と全く無視し鼻先で失笑、しかしブログ
を拝見させて頂いているうちに、この城郭
ビイスタ論戦前戦後を通して城郭研究家の
全てが見落とし軽視していた城郭の経始や
縄張に関する根本理論にして日本城郭研究
史上に於いて非常に重要で根本的な研究課題
や案件だと私は今更ながら気付いて痛感して
いる。今まで異端論者と長谷川さんを誰か様
の余計な牽制的な入れ知恵で誤解して来たが
長谷川さんが論述される城郭ビイスタ論には
「普遍性」と「汎用性」が証明される日本の
全国区で立派に通用する城郭論です。彗星の
如く出現した全く新しい時代を切り開く城郭
研究理論なんだと最近つくづく思うようにな
って来ました。失礼な言方をさせていただき
ますと異端者と思っていた者が実は異端では
な無く城郭の正論を述べる本道だった事に気
付いた事に衝撃を感じます逆説的に言うなら
私は長年城郭研究家として?一体何を研究し
て来たのかと我ながら自己嫌悪にお大利落胆
致しますし?私自身が城の経始や縄張の根本
を認識出来てなかった開眼出来ていなかった
事を猛反省しております。昔長谷川さんへの
封筒に「大兄」と書かれていた何故?長谷川
さん如きが大兄なのか全く理解に苦みました。
◆解説1 汎用性 はんようせい
様々な城でビイスタ論が適応する事例
◆解説2 普遍性 普遍性
時代を超越して人間が用いる設計様式
◆長谷川
過分すぎるの賞賛を賜り真に恐れ入ります。
しかしそもそも江戸時代「享保期」まで城
を放射状に測量してきた伝統が存在したに
も関わらず此れを全く無視し現代的分野の
学問体系だと標榜して放射状測量技法、私
の言うところの城郭ビイスタ論の城郭研究
手法を顧みない大方研究体質に反省が必要
と思います。放射状測量する事は現代平板
測量においても電子測量機においても放射
状に測量起点を定めて道路や遺跡の測量を
実施する基本がある。城郭研究に温故知新
が必要と私は痛感し官民協力した柔軟かつ
学際的な研究こそ是非必要かと思います。
◆対談者
長谷川さん、讃岐うどん、お好きですか?
◆長谷川
麺類とくに、讃岐うどんを私は好みます。
◆対談者
四国で思い起こす日本の歌手はだれです?
◆長谷川
香西かおりさんでしょうか有名な歌手です。
◆対談者
香西で一番長谷川さんが気になる城跡とは?
◆長谷川
そりや城郭研究家ならだれもが憧れる城
全国屈指の名城たる「勝賀城」ですよね!
◆対談者
長谷川さん、単刀直入に質問させて頂きま
すが、我等の誇る勝賀城にビイスタ工法が
採用されているでしょうか?是非御教示を!
◆長谷川
勝賀城は全国屈指の縄張技巧を誇る名城です。
アバウトに築城してないタイトに堅実に用意
周到に縄張を展開しています。図の赤線の如く
先ずはビイスタ工法が読み取れます。城郭を
考察する上で素朴で直な人間感覚が大切です。
城を侮らない!城遊びでない!城を厳粛に!
山城はすべて自然地形なんだと結論づける人
には幾何学を駆使して縄張された城郭遺跡を
研究考察して行こうとする気構え向学心の芽
を摘み取ってしまう事を私は危惧致してます。
◆長谷川
幾何学「規矩術」をフルに応用駆使し築城
されている勝賀城です多数のビイスタ工法
に関わる縄張りが存在すると私は思います。
優れた縄張技巧の数々を解説していくと長
尺と終日を要しますからビイスタ工法のみ
解説を致します。
◆長谷川
上図です!
やはり名うての「名城」として名高い勝賀城
には用意周到入念な幾何学縄張「ビイスタ工法」
が存在すると思います。多様な角度から縄張り
して綿密に幾何学的に築城してる事が解ります。
◆対談者
これは凄い!長谷川さんの城郭ビイスタ論は本物だ!
あの天下の安土城を城郭ビイスタ論で解明しょうと
した人は日本の城郭研究史上全く存在しないのです。
令和4年5月26日午前10時より下記で講座あり。
◆以下ウイッキペデイアより引用
香西(こうざい)は高松市北西部にある一地区で、
高松市役所香西出張所の管内。香西本町、香西東町、
香西南町、香西西町、香西北町の5町からなる。
に編入された。古くから開けた港町で、現在は高松市
周辺に8ある地域拠点の一つ。
た香西資村(藤原資村)は勝賀山山上に城を、東麓に平時
の居城である佐料城を築き、以後香西氏の本拠となった。
や村上水軍と連携し、貿易を行ったため、香西の城下町や
港は大いに栄えた。この香西城下町は、敵の襲来に備え、
迷路のように道が入り組んでいたため「香西の向き向き」
築かれ香西氏の本拠はそちらへうつった。この藤尾城の支城
が作山城である。のち、香西氏は長宗我部氏と和議を結んだ。
破れ、これら香西氏の城は廃城となった。
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