城郭 長谷川博美 基本記録

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勝賀城のビイスタ工法

2022-05-07 11:28:08 | 規矩術、ビイスタ工法、城郭平面幾何学、

勝賀城のビイスタ工法

 

城郭ビイスタ論動画は余呉城郭研究会

が長浜臨湖会館で開催した城郭研究史

に一石を投じる従来にない画期的城郭

分析理論、放射状縄張理論ビイスタ論

 

▼長浜市在住の生月会長

と余呉城郭研究会の面々

講師 長谷川博美

▼雪渓残る北国佐久間盛政の行市山陣城の

見学をする余呉城郭研究会の優れた面々。

◆対談者

長谷川さんの城郭ビイスタ論動画見させて

いただきました。最初見て異端の城郭理論

と全く無視し鼻先で失笑、しかしブログ

を拝見させて頂いているうちに、この城郭

ビイスタ論戦前戦後を通して城郭研究家の

全てが見落とし軽視していた城郭の経始や

縄張に関する根本理論にして日本城郭研究

史上に於いて非常に重要で根本的な研究課題

や案件だと私は今更ながら気付いて痛感して

いる。今まで異端論者と長谷川さんを誰か様

の余計な牽制的な入れ知恵で誤解して来たが

長谷川さんが論述される城郭ビイスタ論には

「普遍性」と「汎用性」が証明される日本の

全国区で立派に通用する城郭論です。彗星の

如く出現した全く新しい時代を切り開く城郭

研究理論なんだと最近つくづく思うようにな

って来ました。失礼な言方をさせていただき

ますと異端者と思っていた者が実は異端では

な無く城郭の正論を述べる本道だった事に気

付いた事に衝撃を感じます逆説的に言うなら

私は長年城郭研究家として?一体何を研究し

て来たのかと我ながら自己嫌悪にお大利落胆

致しますし?私自身が城の経始や縄張の根本

を認識出来てなかった開眼出来ていなかった

事を猛反省しております。昔長谷川さんへの

封筒に「大兄」と書かれていた何故?長谷川

さん如きが大兄なのか全く理解に苦みました。

 

◆解説1 汎用性 はんようせい

 様々な城でビイスタ論が適応する事例

 

◆解説2 普遍性 普遍性

 時代を超越して人間が用いる設計様式

 

◆長谷川

過分すぎるの賞賛を賜り真に恐れ入ります。

しかしそもそも江戸時代「享保期」まで城

を放射状に測量してきた伝統が存在したに

も関わらず此れを全く無視し現代的分野の

学問体系だと標榜して放射状測量技法、私

の言うところの城郭ビイスタ論の城郭研究

手法を顧みない大方研究体質に反省が必要

と思います。放射状測量する事は現代平板

測量においても電子測量機においても放射

状に測量起点を定めて道路や遺跡の測量を

実施する基本がある。城郭研究に温故知新

が必要と私は痛感し官民協力した柔軟かつ

学際的な研究こそ是非必要かと思います。

 

◆対談者

長谷川さん、讃岐うどん、お好きですか?

 

◆長谷川

麺類とくに、讃岐うどんを私は好みます。

 

◆対談者

四国で思い起こす日本の歌手はだれです?

 

◆長谷川

香西かおりさんでしょうか有名な歌手です。

 

◆対談者

香西で一番長谷川さんが気になる城跡とは?

 

◆長谷川

そりや城郭研究家ならだれもが憧れる城

全国屈指の名城たる「勝賀城」ですよね!

 

◆対談者

長谷川さん、単刀直入に質問させて頂きま

すが、我等の誇る勝賀城にビイスタ工法が

採用されているでしょうか?是非御教示を!

◆長谷川

勝賀城は全国屈指の縄張技巧を誇る名城です。

アバウトに築城してないタイトに堅実に用意

周到に縄張を展開しています。図の赤線の如く

先ずはビイスタ工法が読み取れます。城郭を

考察する上で素朴で直な人間感覚が大切です。

城を侮らない!城遊びでない!城を厳粛に!

山城はすべて自然地形なんだと結論づける人

には幾何学を駆使して縄張された城郭遺跡を

研究考察して行こうとする気構え向学心の芽

を摘み取ってしまう事を私は危惧致してます。

◆長谷川

幾何学「規矩術」をフルに応用駆使し築城

されている勝賀城です多数のビイスタ工法

に関わる縄張りが存在すると私は思います。

優れた縄張技巧の数々を解説していくと長

尺と終日を要しますからビイスタ工法のみ

解説を致します。

◆長谷川

上図です!

 やはり名うての「名城」として名高い勝賀城

には用意周到入念な幾何学縄張「ビイスタ工法」

が存在すると思います。多様な角度から縄張り

して綿密に幾何学的に築城してる事が解ります。

◆対談者

これは凄い!長谷川さんの城郭ビイスタ論は本物だ!

あの天下の安土城を城郭ビイスタ論で解明しょうと

した人は日本の城郭研究史上全く存在しないのです。

令和4年5月26日午前10時より下記で講座あり。

◆以下ウイッキペデイアより引用

香西(こうざい)は高松市北西部にある一地区で、

高松市役所香西出張所の管内。香西本町、香西東町、

香西南町、香西西町、香西北町の5町からなる。

かつては全域が「香川郡香西町」(こうざいちょう)

として存在し、1956年昭和31年)9月30日に高松市

に編入された。古くから開けた港町で、現在は高松市

周辺に8ある地域拠点の一つ。

 

勝賀城は中世讃岐国の豪族・香西氏の城で、高松市西部

勝賀山に位置していた山城である。現在は山上に土塁

や井戸等の遺構が残っている。承久3年(1221年

承久の乱で戦功をあげ、香川両郡の郡司に任じられ

香西資村(藤原資村)は勝賀山山上に城を、東麓に平時

の居城である佐料城を築き、以後香西氏の本拠となった。

室町時代になると、香西氏は讃岐国領主で室町幕府管領

細川氏の臣下として重きを成し、また瀬戸内海塩飽水軍

村上水軍と連携し、貿易を行ったため、香西の城下町や

港は大いに栄えた。この香西城下町は、敵の襲来に備え、

迷路のように道が入り組んでいたため「香西の向き向き」

と呼ばれた。讃岐国領主が細川氏から三好氏十河氏

うつると、香西氏はこれに従った。天正3年(1575年)、

長宗我部元親の讃岐侵攻に備え、新たに藤尾山に藤尾城

築かれ香西氏の本拠はそちらへうつった。この藤尾城の支城

作山城である。のち、香西氏は長宗我部氏と和議を結んだ。

しかし天正13年(1585年豊臣秀吉四国征伐で香西氏は

破れ、これら香西氏の城は廃城となった。


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