城郭 長谷川博美 基本記録

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余呉天神山城と長浜衆と秀吉

2020-05-05 02:06:15 | 民俗学
城郭ビイスタ論 上文字キリック

余呉天神山城と長浜衆と秀吉
はじめに
天正11年1583年賤ケ岳合戦の初期段階3月において
羽柴秀吉方は木ノ本の田上山城と余呉片岡天神山城
の二塁を築城して柴田勝家の近江南進を阻止する策
を秀吉は立てている。しかる後賤ケ岳の古を押え
て天正期から存在した古城を再築城して柴田勝家方
の内中尾山、行市山、賤ケ岳、山本山、という一連
の山岳ルートを賤ケ岳で阻止せんと配置している事
は明らかである。賤ケ岳合戦最大の切通は飯之浦坂
である事また賤ケ岳城にも堀切を掘削しており堀切
は合戦の趨勢を握るほどの重要な防御施設でもある。
 しかし現実の賤ケ岳合戦の主戦場は余呉町一体
であり勝者秀吉の小豆坂7本槍の後継的合戦として
後に賤ケ岳7本槍という自己宣伝PR戦略に利用さ
ており本来羽柴秀吉は同年3月期に於いては本陣を
田上山に於いて合戦の主戦場となる場所は片岡天神
山城を元来は想定していた。

長浜市余呉町地図「略図」片岡天神山とは全長寺の南。
長浜市余呉町片岡天神山の俯瞰「近江国伊香郡余呉庄片岡郷」
下図は秀吉が当時長浜城主の柴田伊賀守勝豊家中に築城させた
長浜町民を動員して築城された賤ケ岳合戦初期段階の羽柴方の
最前線に相当する優れた城郭遺跡である。天正11年段階秀吉は
柴田勝豊を下して療養させ配下の家老格が天神山に赴任してい
る。その縄張りたるや、当合戦の陣城の中でも白眉たる名城と
言って過言ではない。砦図の左は横山城観音丸に類似した縄張
技巧を持ち右砦は内枡形、外桝形、半円形鉄砲陣地、そして図
は切れているが更にその右に三重の塹壕を巡らせた鉄砲陣地が
北国道を南進して来る柴田勢に対し強烈な銃撃戦を展開する為に
用意された特殊な陣地で存在野仏も多い。秀吉の初期余呉庄合戦
計画としては敵柴田勢が天神山2塁及び中世城郭城山「じよやま
」を包囲体制に入った時をねらい柴田方より軍勢の多さで優る
秀吉と丹羽長秀が天神山の東西から伏兵を増援して柴田を包囲
挟撃する策戦と思われる。城郭構造を知る人ならこの城は出色
の城と言える。

従って柴田方から見てこの天神山の2塁は非常に落城させ
やすい包囲して先ず緒戦をかざるに容易い、おびき寄せる
為のこの合戦の初期段階における囮の城「おとりの城」だ。
勿論天神山城の立地は脆弱に見えるが城塞としては優れた物。
桶狭間合戦では鷲津砦、丸根砦の2塁が今川方を引き付ける
囮の城、2塁であった訳である。賤ケ岳合戦後半で後に秀吉は
余呉湖畔に大岩山、岩崎山の2塁を臨時築城させているが
城郭の基礎とも言える堀切構させていない事にある。ワザ
と構えさせず。この2塁に佐久間勢を引き付けて羽柴と丹羽
が賤ケ岳に合流して2対1の軍勢の理論で勝利を収めると言う
非常に簡単な敵を「釣る策戦」なのである。柴田勝家歴戦の
武人で是を充分に知っている。しかし佐久間玄蕃盛政は北国
の合戦では一歩も引かない猪突猛進型の性格の武将だ藤吉郎
秀吉とは?人間心理を読み解く看破する心理学の名手で危機
管理も、本能寺、山崎合戦、清須会議何れも落ち度のない人。
この脆弱とみなされる片岡天神山砦が初期賤ケ岳合戦の
決戦の地となる予定であったと見て良いだろう!囮の城だ!
反論者
長谷川先生それなら天神山城に秀吉方から援軍を送り
込む為の伏兵用の砦が存在したのですか?!証拠は?
長谷川
そうもうすで30年も40年も前に発見してます。しかし
是の文献や城址を発表すると林道工事進まない公共の
発展第一とする私は歴史や遺跡には忠実ですが社会の
発展阻害する事を罪だと考えている人。また滋賀では
遺跡を保護する意識は極めて希薄である事も事実です。
長谷川
この天神山城に増援部隊を送り込む為の砦は街道から
見えない場所に隠すように巧妙に作られていおります。
炊飯の火や煙さえ見えない山影に伏兵陣を構え天神山
に増援する施設や陣小屋は撤廃、されているのです。
文献でも柴田伊賀の小屋や堀久太郎の小屋を前線から
壊して撤廃せよと初期余呉庄の合戦の様子が生々しく
秀吉の書状には書かれています。
反論者
ではその隠し砦の場所は?
長谷川
それはこの腰郭だったり
この砦だったり

この遺構だったり
この土橋や堀切だったり
この未知の砦だったり。
対談者
私達が学んだ歴史って何なのですか?
真剣に学んだ事
教えられた事や
記憶した諸々の事
が絶対正しいと
思った教科書が
孫の教科を見たら全く違ってます!

長谷川
三国志で諸葛孔明の陣城、五丈原が出て来る。
でも観光客とは本当の五丈原の遺構に見向き
もしない観光看板石碑に夢中です。それって
偽物フエイクと言っても聞く耳を持たない。

賤ケ岳合戦佐久間玄蕃盛政の行市山城の土塁
を見る人など1人もいません!みんな三角点
広場の登山標識を我先にと写真撮影するだけ
佐久間玄蕃の城塁を誰も見る気も意識も無い!
そもそもザもウオール壁を見て敵を遮断する
堀や土塁に観光の人は全く興味無いと言う事。
▼貴方は文字だけを見て聞き歴史と思ってる。
▲この高い土塁を見る気など更々なくて合戦や歴史を語る!
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