城郭ビイスタ論 上文字クリック
◆対談者
長谷川先生!大変な事になって来ました!
全国の町の教育委員会の文化財の部長級
課長級、主査級の方々達で今日本全国で
城郭ビイスタ論が話題騒然となっている
との事です!何でも長谷川博美とは誰か?
わが町の城址にはビイスタ工法が施工さ
ているのか?一体どうしたら?ビイスタ
工法の正確な中心点が求められるのかと?
日本全国津々浦々の文化財課が騒然です!
◆みんな
良く言うわ!私達長谷川先生の現地講義を受けて
来た人は「城郭ビイスタ論」なんか何十年も前に
余呉城郭研究会、米原城歩会で!熟知してた事!
今全国であわてふためいてビイスタ動画を何度も
見ている人々は全国の学者や学芸員や研究家達!
◆長谷川
戦前戦後を通し城郭研究のテーマ主観は建物、
曲輪、虎口、横矢、堀、土塁を縄張の根本と
誤認していた傾向が長く現代も続いています。
縄が城に張られる事。また測量台から縄や糸
を経始して城郭全体の基本デザイン構成構図
決定されてる経始の文言の意味や本意が認識
されていなかった事に、そもそも根本原因が
あります。貴方の会社や役場のビルの前には
定礎と呼ばれる、測量基準点が今でも残って
おります。これこ経始の「始」に相当します。
経は目には見えない測量機器が発する光学の
真っ直ぐな経線、経始の「経」に相当します。
勾殳玄・規矩術(きく)の基本語句の説明
勾殳玄(こうこげん)ピタゴラスの定理の応用。
※勾殳玄法には様々な呼び名がある。
勾・立水(たつみ、たてみず・たちあがり等ともいう)『垂線』
殳・陸水(ろくみず・ていへん) 『底辺』
玄・勾配(こうばい・のびがね等の呼び名) 『傾斜』
勾殳玄(こうこげん)ピタゴラスの定理の応用。
※勾殳玄法には様々な呼び名がある。
勾・立水(たつみ、たてみず・たちあがり等ともいう)『垂線』
殳・陸水(ろくみず・ていへん) 『底辺』
玄・勾配(こうばい・のびがね等の呼び名) 『傾斜』
◆穂積さん
岐阜城山麓居館に規矩術ビイスタ工法はありますか?
◆長谷川
岐阜城信長館は分度を応用の6カ所のビイスタ工法の跡が!
◆反論者
築城縄張の名手藤堂高虎は絶対に長谷川先生
の説かれるビイスタ手法は絶対使っていない!
◆対談者
高虎は放射測量法(ビイスタ工法)を使ってる!
名大工の河原豊後守こと甲良豊後守と同郷!
▼中世城郭 近江男鬼城 二局ビイスタ論
中央の堀切Aを境に赤と青のビイスタが存在
▼文禄慶長の役 釜山倭城 二局ビイスタ論
◆対談者
但馬竹田城に100回訪れた人が長谷川先生の
ビイスタ工法放射線罫書き線見て強い衝撃!
▼米原学び合いステーシンヨンの長谷川博美 城郭講座 好評!
★好評!長谷川城郭講座 次回
日時 令和3年 9月 30日
場所 米原学びあいステーション
「旧称米原公民館」
参加費 500円
予約☎ 0749-52-2240
日時 令和3年 9月 30日
場所 米原学びあいステーション
「旧称米原公民館」
参加費 500円
予約☎ 0749-52-2240
▼余呉城郭研究会
令和3年8月21日
近江横山城見学会
浅井氏、織田信長、羽柴秀吉、石田三成所縁の城
集合場所 JR 河毛駅 東口 10時10分
予約先 ウッデイパル余呉 城郭係
☎0749-86-4145
▼米原 城歩会 記念写真
◆反論者
長谷川さんは古代の都や中世の城や信長や秀吉の
城に勝手に罫書き線っていうかビイスタ線てな物
を入れて本当に変わった異端の先生だと常に思う。
◆対談者 下書きの重要性
貴方は舗装した道路に道路標示線をコーティング
をする職業をしておられますね?チョークで事前
に計測し白い道路標示塗装をされますね?いずれ
チョークの線は雨でアスフルトから消えてしまう。
◆達観様
解った!ヒラメイた!道路路面標示の白い塗料が
『城』自体であり、雨露でやがて、消えてしまう
白い罫書き線こそ今、日本で話題騒然の城郭論点
『城郭ビイスタ論』だと言う事を私は悟りました!
城郭ビイスタ論 上文字クリック
規矩術の典型 扇や扇骨自体 ビイスタ工法!
◆質問者
規矩術応用した古代都市建築は存在しましたか?
◆長谷川
弥生の纏向宮殿遺跡や古代都市計画は
ビイスタ線と左右対称シンメトリック
日本の文化は中世戦国と進捗する従っ
て左右非対称のアシメ、「アンシメ
トリック」の文化が醸造されて行きます。
日本庭園の植木の松の枝や盆栽の枝など
左右非対称の日本の文化とも言えます。
正中線(中心線)を中軸として左右対称シンメトリクツ形式
▼近江伊勢遺跡神殿のビイスタ配置「放射状建物配置」
▼五世紀の日本の古代豪族の城館 三つ寺Ⅰ遺跡の規格矩術
▼東洋中国幾何学 学術書
◆奥州 藤原氏 毛越寺 ビイスタ工法Ⅰ
坂東武者は武家政権都市鎌倉府「鎌倉城」を開設させた。
◆対談者
長谷川先生の城郭ビイスタ論は日本全国で認識
され注目される戦前戦後を通して希有の城郭論
◆長谷川
だれも私の城郭ビイスタ論は見ていないハズ?
見ているとたらそれは一部の学術家さんかと?
◆反論者
その通り、どの書店に行っても、どの図書館
に行っても、城に向かって放射線状に直線を
走らせる、城郭測量や城郭研究の図書は無い
長谷川氏の城郭ビイスタ論など掲載されてま
せん。長谷川氏は完全に城の邪道で異端者。
◆対談者
ニユートンが万有引力の法則を発見するまで
何処の図書館にも行っても万有引力の法則が
収録されていたでしょうか?城を人間の先生
や人間や集団が下す定説や既存の概念こそが
絶対に正しいと言い切れますか?それを絶対
正しいと盲信した時点でそれはもう学門とは
別の、偏向したたけの人間崇拝の世界になる。
真実や答えを教えてくれるのが本当の先生か?
◆長谷川
戦前戦後を通して多くの城郭研究家が文系で
あり、そもそも、平盤測量や測量台を用いて
元来放射状に城を計測した日本文化を見落と
しておられる事が原因ではないでしょうか?
また堂宮大工、社寺建築の人は西洋分度器
を使わず曲尺「かねじゃく」一本で角度を
出して木材をタンジエント計算する人です。
それを東洋中国日本では規矩術と呼んでる。
享保年間に記された『量地指南』に城測量
の当時の手法が記されている。これこそが
近代の我々城に関わる人々が看過した欠点!
江戸時代にはまだ放射状に「城」を計測す
江戸時代にはまだ放射状に「城」を計測す
る文化や伝統を日本人は保有していた事を
全く近代学者や研究家は考慮せず無視した。
これこそが元来日本の伝統的測量文化です。
『量地指南』に9番目の測量線が記されいます。
かって、朽木史朗さんは、安土城の石垣裏から
「惟住内九」と言う墨書を発見報告されてます。
惟住=丹羽長秀 内=内衆 九は九番目の石と
言う意味でありましょう。近世城郭名古屋城の
天守石垣の刻印に「加藤肥後守」「内小代下総」
ある。後半の「内小代下総」とは、加藤家家臣
小代下総守 という意味(「内」=家臣)。清正
の家臣(肥後国人の)小代氏がこの石の意味!
◆対談者
それみて御覧なさい!東洋日本の規矩術や西欧
のビイスタ理論を万年無視していては万年城郭
研究が進展しません。城に何万回旅行したとて
城郭を見て気付く事「覚り」には至りませんよ!
城を勉強する時も人間は肩書きや著書や社会的
地位に眩惑されて、城自身を熱心に集中し見学
する習慣を失くしてしまいます。答えは教科書
や図書館に収録蒐集されている図書刊行物だけ
に存在すると思ったら大間違いでないですか?
◆対談者
日本は47都道府県が存在します。一つの県には
少なくとも純心で優れた学芸員様や測量技師は
10名様は必ずおられる。一般有識者層でも先生
の優れたオリジナル城郭研究視点や視座に正直
驚愕している人は各県には10名は優秀な方々が
必ずおられる単純に計算をすと各県長谷川先生
の城郭ビイスタ動画を見た人は20名おられる事
になります。つまり20名×47都道府県=940様の
動画披見者様が必ず出現する。もしかすると世
の中には聡明な人が多数潜在し我も我もと動画
を見られる賢人がいらっしやる可能性はゼロと
は断言できません!必ずや全国の良識ある善
良な賢者様に支持される!いつの世も人間社会
の特徴として賢者は賢者を認識支持し、愚かな
人は、愚な指導者に常に誘導洗脳されるのが、
人間社会の常で、これこそ、浅猿ましき事よ!
浅猿=「あさましき」と古来はこの字を使った。
▼永禄3年尾張桶狭間合戦 丸根砦「佐久間氏」
◆小牧山城
『信長公記』収録
二宮山御こしあるべぎの事(永禄6年)1563年
『公記』では「小真木山」記されている。近年
安土城以前の石垣三段も発掘され話題を呼んだ。
◆質問者
信長の築城の際には山も谷も
同時に縄張をしましたか?
◆長谷川 解答①
『信長公記』
二宮山御こしあるべぎの事(永禄6年)1563年
の記録には「此の山にて御要害仰せ付けられ侯
はんと上意にて、皆々、家宅引き越し侯へと御
諚侯て、爰の嶺、かしこの谷合を、誰々こしら
へ侯へと、御屋敷下され、記されていますから
当時は山頂の曲輪も山麓谷間の屋敷も同時進行
で縄張りされたと私は推定し従って織豊城郭の
ビイスタ工法も山頂や谷間に及ぶ可能性がある。
▼長谷川博美 挿入 小牧山城 城郭ビイスタ線
★織田信長築
▲大手方面よりの小牧山城のビイスタ「展望、見栄え、顕示」
▼小牧山城 複合ビイスタ工法論
◆伊木山城
岐阜県各務原市鵜沼字伊木山
原図 各務原市「伊木山城跡発掘調査概要」より
『信長公記』に以下収録
信長濃州伊木山へ御上の事(永禄7年)(1564)
★織田信長の陣城
築城時期や伊木家の経歴については諸説あるが、
一般に信じられている来歴は以下の通りである。
1561年(永禄4年)、この地を攻めた織田信長
によって、武功を挙げた香川長兵衛忠次が、こ
の地の名にちなんで伊木の苗字を授けられ、伊
木忠次と改名したという。そして、この伊木山
に伊木山城を築き居城とした。後に信長の家臣
である池田恒興に転仕した。 1590年(天正18年)
、廃城となった。恒興の死後も池田輝政に仕えた
忠次は、岡山藩筆頭家老となった。 廃城時期が
天正末期でありビイスタ工法の可能性もあろう。
▼中世能楽舞台の弐ヵ所のビイスタ「見所」
◆近江城郭ビイスタ工法 近江八幡市北庄町 岩崎山城
武蔵国 比企郡 菅谷館 ビイスタ工法 「埼玉県」
武蔵杉山城 ビイスタ工法 「埼玉県」
▼永正の乱 近江八幡市 円山城 西条氏
▼永禄11年 近江和田山城 佐々木六角氏 『信長公記』
◆近江城郭のビイスタ工法 元亀の騒乱 須川山砦 「米原市」
◆近江横山城
元亀年間の織田信長、羽柴秀吉の城として使わ
れた元来は浅井長政の城を姉川合戦元亀元年6月
28日1570年7月30日奪取した事は『信長公記』に
詳しい。また信長秀吉は虎御前山と横山を連携
て近江浅井氏を小谷城に攻撃している重要な城。
★浅井氏、織田氏、羽柴氏の城
▼横山城ビイスタ工法 長谷川博美 線挿入 長浜市/米原市」
▲山上山下を含めて縄張された可能性がある。
▼横山東麓の大原観音寺は基本的に本道と山門
を結ぶ参道の左右に寺坊を配列した山寺の塔頭
様式であるが元亀の頃の信長、秀吉の暫定的な
横山城下山麓居館としての機能も再考する必要
▼米原市大原観音寺
横山城見学会は下記 8月21日 予定
▼横山城は北城も南城も含めて総合的ビイスタ工法施工
驚くべき事に竪堀までもビイスタ放射線縄張に従ってる。
『信長公記』を要約 横山城は近江江北攻めの信長拠点
元亀三年壬申 (じんしん))元亀3年(1572年)
奇妙様御具足初めに、虎後前山御要害の事
七月十九日、信長 御父子江北表に至りて御馬を出だされ、
其の日、赤坂に御陣取り、次の日、横山に御陣を居え
られ、廿一日、浅井居城大谷小谷城へ推し詰め、
七月廿七日より、虎後前山御取出の御要害仰せつけらる
虎御前山に臨時築城を命じた。
◆近江宇佐山城「滋賀県大市」
◆織田信長 森三左衛門 の近江志賀郡押えの城
この城の文献上の初見は永禄13年(元亀元年、
1570年)3月20日の多聞院日記に
「 | 内々三井寺、大津、松本可有見物之通ナルニ、 今度今道北、ワラ坂南、此二道ヲトメテ、信長 ノ内、森ノ山左衛門城用害、此フモト二新路ヲ コシラヘ、是ヘ上下ヲトヲス、余ノ道ハ堅トヾ ムル故、三井寺へ通ル物ハ道ニテ剥取ト申間、 乍思不参見、渡了、残多者也、新路ノ大ナル 坂ヲ超ヘテ、山中ト云所ヲ通リ、白川ヘ出、 東山ノ辺ヲ通」とある。 |
★信長家臣森氏の城で志賀の陣では織田信長の拠点城郭。
▼宇佐山城ビイスタ図 石垣は山中方面より大津方面に堅固
◆織田信長 近江虎御前山城 元亀4年天正元年期
★近江浅井氏小谷城攻めの陣城で信長/秀吉が築城
「滋賀県長浜市」
★藤吉郎秀吉は城郭内分から放射線状に縄張りしている。
▼虎御前山城 織田信長陣城 測量図 西側よのビイスタ工法
◆小谷城「滋賀県長浜市」
羽柴秀吉は天正3年まで小谷城に在城した事は
文献『信長公記』に記される。▼小谷城ビイスタ論
★A近江小谷城本丸
▼天正4年織田信長は丹羽長秀を普請奉行として
羽柴秀吉も築城に参加した事は『信長公記』ある。
「滋賀県近江八幡市」
★築城主体 織田信長 普請奉行丹羽長秀
▲安土城のビイスタ工法▼信長の絶対的権力を誇示するビイスタ工法!
安土城 天主台 ビイスタ論 長谷川線挿入
★B近江安土城天主 ★天主中心部より放射状設計
▼安土城 八角平のビイスタ工法 長谷川博美 線挿入 ★放射状設計
◆対談者
『信長公記』よると天正6年鳥取城法線の模様を
半兵衛戦況報告のため安土に向わせ5月24日安土
に着き、信長に謁見して信長は半兵衛の図面を
見て鳥取城の様子が図面から手に取る様に解る
と激賞したとされますが羽柴秀吉が鳥取城攻め
の為に天正6年に築城した、太閤ケ平陣城にも
当然秀吉はビイスタ工法用いて築城してますか?
◆長谷川
先ず2方向からビイスタ工法を施した縄張手法が
認められます。流石は秀吉/半兵衛/見事な城です。
◆更に念入りに2ヵ所のビイスタ工法も認められ
ます。天晴見事用意周到な傑作陣城と言えます。
赤線、青線、緑線、黒線と城郭縄張は見事です。
◆長谷川
当時の武将は四方正方形90度の正方形の陣城を築城せずに
不整形な矩形の主郭を築いております。これは秀吉晩年の
肥前名護屋城も是非彼の城の本丸が正方形でない事を各自
確認してください。これはビイスタ工法に従ったからです。
▼天正10年羽柴秀吉は明智光秀を山崎に破り天王山に築城する。
▲山崎山城 ビイスタ線挿入 長谷川博美 ★放射状設計
「京都府大山崎町」
▼羽柴小一郎も着陣した城 但馬竹田城ビイスタ論
▼但馬竹田城のビイスタ線に適合した石垣の様子。
★特別質問者★
本能寺の変後天正10年に織田信長の重臣は尾張
清須城に集合して織田家の今後の方針を決定す
る会議、寄り合い、とも言う「清須会議」開催
しますね?清須城は尾張の中心であり織豊城郭
つまり織豊城郭ビイスタ論が濃厚に残存してた
可能性はありますか?日本国を平定過程でだっ
た織田信長の安土城天守ず何故正方形に作られ
いないのか?天正大坂城本丸が何故四角形状に
作られていないのか?信長秀吉権力行使力から
見てキッチリト矩形方形の城郭を繰り得たハズ
です。長谷川先生!織豊政権の根本根幹とも言
える尾張清須城のビイスタ工法を一度見検討し
てみていただけませんか?清須こそ尾張の中心
で清須越しによって尾張の中心が名古屋に移動
し現在の東海中京圏が形成されていったのです。
◆長谷川
良質の清須城の測量図がない限り無理!
★特別質問者★Ⅰ
そこをなんとか古図等を駆使して清須城ビイスタ
を復元しみて頂けませんか?何度も改変された城
清須城のビイスタ工法に私は強く魅了されます!
◆長谷川
では概略的にアバウトと清須城ビイスタを考察
してみましょう。あくまでも仮想仮定としいう
事を前提に清須城のビイスタを考察してみます。
▼下図を参考に用いてみましよう。
★清須城=天正10年信長が本能寺に倒れ信長家臣が清須会議を開催
◆長谷川
ビイスタ工法の痕跡があるようにも思えます。★尾張織田家の根拠城郭
◆長谷川
別角度からビイスタ工法を検討しますと図の〇印
に整合性あるかもしれけません。あくまでも仮定
です。
◆長谷川
赤線は本丸と右の馬出曲輪を含むビイスタ線
黒線は尾張斯波氏守護館の縄張起点か?断言
は避けますが、読者各位様で考察して下さい。
★特別質問者★Ⅱ
清須城には
★A近江小谷城本丸
★B近江安土城天主
★C近江佐和山城本丸
★D天正大坂城本丸
★E備前岡山城本丸
の様な城郭内から放射状ビイスタ線
縄張が施工されたのでしょうか?
◆長谷川
古図から推測するに城内より放射線状に織豊城郭
清須城が縄張りされていた可能性はゼロではない。
近江佐和山城は浅井氏磯野丹波から織田氏が
奪取してからは歴代織豊大名が城主のです!
■ 『信長公記』大船を作られ侯の事
五月廿二日、佐和山へ御座を移され
在佐和山なされ「佐和山城に居住して」
巻六(元亀四年癸酉)の信長佐和山居住記録
★近江佐和山城は信長の時世に織田家臣丹羽氏の城
▼近江佐和山城 ビィスタ理論 長谷川博美
★C近江佐和山城本丸
天正11年1583年
賤ヶ岳合戦で元織田両軍「柴田羽柴」は陣城を造る。
▼羽柴秀長/羽柴秀吉/田上山城
▼北勢「北伊勢」滝川方「柴田方」峯城ビイスタ 縄張
▼天正11年柴田勝家 内中尾山城「玄蕃尾城」
▼柴田勝家 玄蕃尾城
▼玄蕃尾城 航空写真 ビイスタ論 長谷川博美
▼柴勝家甥 佐久間盛政 行市山城
長谷川博美 岩崎山 動画等 上文字クリック
◆長谷川
▼高山右近はキリシタン殉教者だけでなく優れた設計技師
▼賤ヶ岳合戦で羽柴秀吉と丹羽長秀は坂本城
を拠点として江北「滋賀北部へと進駐する」
▼▲近江坂本城 ビイスタ理論図 長谷川博美 坂本城縄張は不明
▼坂本城 城郭ビイスタ論
◆明智光秀
光秀は織田信長より近江志賀郡坂本城を与えられ
織田軍として丹波方面に進駐して亀岡城福知山城
周山城などを構築していく丹波の黒井城は光秀の
家臣斉藤利三が黒井城を織豊城郭に改修したと思
われ主郭部にビイスタ工法の片鱗を見る事が可能。
▼丹波黒井城 ビイスタ論
▼丹波黒井城 ビイスタ論
▼羽柴秀吉は天正大坂城を構築して天下を平定する。
★D天正大坂城本丸
▲大坂城ビイスタ論 長谷川博美▼大坂城天守ビイスタ論
▼織豊系城郭 特に秀吉の築城法放射状ビイスタ工法
は備前岡山城の宇喜多氏の城つくりにも強く影響!
★E備前岡山城本丸
天正18(1590)年の小田原陣
▼秀吉は天下平定の過程でお小田原石垣山城を作る。
◆以下ウイッキペデイアより
「聚楽第は関白になった豊臣秀吉の政庁兼邸宅として
1586年(天正14年)2月に着工され、翌1587年(天正
15年)9月に完成したために、妙顕寺城より移った。
九州征伐を終えた秀吉が大坂より移り、ここで政務を
みた。1588年5月9日(旧暦天正16年4月14日)には
後陽成天皇の行幸を迎えてこれを饗応している。また
天正少年使節や徳川家康の謁見もここで行われた。
◆質問者
聚楽第は城郭ビイスタが存在したのでしょうか?
◆長谷川
正確に当時の縄張が解明されていないので放射状
の縄張りが存在したのか充分に解明出来ません。
◆関白豊臣秀吉は洛中に彼の政庁とも言うべき
聚楽第を構築する外郭とての総構土塁、御土居
を構築して洛中洛外を区画しする京都七口とも
言われるが実際は10箇所の土塁開口があったと
される。
◆徳川幕府 二条城
秀吉は己の栄華の跡たる聚楽第をあとかもなく
破却したと言われている。それは豊臣秀次邸宅
としての府城聚楽第の城を消去する目的とされ
ているが?ビイスタ工法がより整合性を持って
同心円放射状に機能設定されている城とは徳川
が築城した二条城こそがより御土居と整合性を
持っているように著者は感じ歴史の疑問を思う。
帝王や国王が自国の領土を眺望する城を古来、
国見の城とも言うが当時の京洛を眺望する為に
は徳川二条城の方がより方位学的に優れている。
◆質問者
豊臣秀吉の
伏見城は城郭ビイスタが存在したのでしょうか?
◆長谷川
正確に当時の縄張が解明されていないので放射状
の縄張りが存在したのか充分に解明出来ません。
▼秀吉は文禄慶長の役で自分の城 肥前名護屋城に
ビイスタ工法を用いる。掛線 長谷川博美 挿入
★太閤 豊臣秀吉の城▲肥前名護屋城
▼伏見城の治部少輔丸
▼豊臣秀吉の家臣石田三成の佐和山城
▼佐和山城が廃されて彦根城には鐘之丸が築城された。
市井の図書は俗界に満る。(俗書は俗人が好む。)