戦国に正月など無かった!?
隠された 近江と越前の戦国騒乱の現実
令和4年1月度の歴史城郭講演の御案内
◆質問者
長谷川先生長浜市西浅井地域の城を10城も20城
も知る必要は全くないと思いますが?
◆対談者
良く考えてちょうだい?冠婚葬祭に行く時?
珠数が
●●●●●●●●●●●と繫がっているから珠数です。
ネックレスが
〇〇〇〇〇と繫がってるからネックスレス!
城跡だって□1城□1城勉強しても2城だけ!
城郭群だって□■□□■□□■□□■□□■と連携して
群れをなしているから城郭群グループです!
城や歴史を語る時のネックは連携した城跡!
◆一般様
どなたか知りませんが「対談者」様素晴らしい
比喩です。数珠もネックレスもベルトや紐さえ
も繫がっているからこそ役にたつ道理ですわね!
珠数一個知っていてもネックレスの珠一個知っ
ても珠数やネックレスの本質の連結連携は語れ
ません。と言う事は城一カ所知っててもその町
の全体の歴史は解れないという事を悟りました。
◆長谷川
戦国の城とは一城だけで機能しないのです。
戦国史を語る上で考える上で非常に重要な
事とは城郭群を認識する事が重要な事です。
例えば
〇天正2年(1574年)2月、武田勝頼が東美濃に
侵攻し、先ず高山城、苗木城を落とし、
更に支城16箇所を全て落とす。
侵攻し、先ず高山城、苗木城を落とし、
更に支城16箇所を全て落とす。
とあります。高山城、苗木城だけでなく16城が
肝要であり当時も現代城郭研究においても基本
中の基本グルーブとしての城郭群を考察する事。
◆長谷川
室町や戦国の領主とは「一円支配」と言って
城郭をチエーン店状に統率支配していた訳で
1城だけ観光に行ってもそれはやはり観光や
行楽範疇と解釈されます。どの様に室町戦国
の領主達は城郭チエーン店つまり一円支配を
していてたか?現代のコンビニ便利店も交通
状況を事前に市場調査して店舗オナーに任せ
ています。大名は各地集落の背後にある城砦
をグループ傘下つまり支配下におく事により
広域領主の国人へそして大名へと成長して行
た社会状況があります。中世の城郭分布なら
当時の街道の交通史を無視して城郭群や地方
史を軽率に語る事はできない交通史こそ重要。
◆質問者
長谷川先生の歴史講演の面白さや深さは?
◆体験者
知らない事に気付く現実的実証歴史観です!
浅井備前守饗応記席次で熊谷氏は京極氏に
次ぐ実質№2!守護職に次ぐ№2の地頭職よ!
先ずその事自体に気付く事が歴史研究の基本!
◆対談者
従って熊谷氏は地頭職に相応しい多数の城郭や
分布数を北近江に保持した講演を令和4年1月
15日長浜臨湖で午後13時から熊谷氏の城郭群
約20カ所以上の分布を講演される訳ですよ!
講演参加費 500円 時間13時~14時30分
講演予約先 ウッデイパル余呉城郭係り
令和4年1月15日長浜臨湖会館講演予約
0749-86-4145 場所 長浜臨湖会館
◆長谷川
一般に越前と近江は朝倉と浅井の外交関係
で戦闘や合戦が無かったと勘違いされいる。
越前敦賀郡と近江浅井郡は熊谷平次郎率い
る三千騎が疋田「引壇城」正月に突然攻め
よせて城の大蔵大門を焼き払い3日間攻防
戦を展開している。疋田には小谷城と同じ
地名「桜の馬場」「小丸」なの小谷城と同
じ地名が残っており「親小谷浅井派」だと
言えます。物流の見地からみると東海関ヶ
原へと続く北国道の中継地点こそ小谷町と
小谷城であった訳で、これ北国脇往還国道
や国道365沿い地理の中世陸送物流勢力です。
弘治元年(1555年)近江国塩津の熊谷平次郎が
三千騎を率いて疋檀城を急襲した。疋檀城主
疋田景継は城を明けて留守であったが急報を
受けて引き返し、兵を集めて城へ入ろうとし
たが大手は熊谷軍によって包囲されていたの
で、搦手より入城して戦った。攻防の最中に
大晦日となり、熊谷軍は正月三日までの休戦
を申し込み熊谷軍は兵を引いた。しかし、翌
日熊谷軍は軍を引き返して疋檀城を急襲し、
休戦となって安堵していた城内は防戦もまま
ならず東曲輪は焼き払われた。
★塩止めの概念
塩津谷や今西、南浜の熊谷勢が一方的に
塩山城「引壇城」から小谷方面に独占的
に中世陸送物流の流れを湖北東部の陸路
の中継点「小谷町」に独占されたら塩津
谷や今西、南浜の熊谷勢は海産物を疋田
でストップされ死活問題になってしまう
従って熊谷勢は正月でも塩山城こと越前
疋田の城に塩止めの解消を直訴したと思
われます。戦争の発端は物流の利害関係
や経済関係に端を発していると言えます。
★塩止め=海産物全く内陸へと運べない。
◆反論者
塩津熊谷氏が福井県疋田に3000人もの兵員
を送る事は無理でしょう。まして浅井氏か
ら熊谷氏は睨まれてしまいますよ!塩津の
熊谷など3000もの兵員送る事は絶対無理!
◆対談者
は~あ~いつもの如く依存的概念や知識に
固執した固定概念ですよね。硬い硬い石頭
『浅井備前守饗応記』では熊谷氏は席次№
3浅井亮政は台頭するも北近江武家社会の
席次は未だに№13と言う事を認識する事!
日本の物流大手企業「日本通運」の原型の
結社は塩津と大津を結ぶ琵琶湖水運の源の
塩津に誕生している。塩津港遺跡は日本海
側と琵琶湖京師を結節する重要交通遺跡で
すよ。日本の古代交通の動脈を扼する塩津
歴史に驚愕するが中世に塩津谷に割拠した
「塩津勢」の現実や城館分布を知らなけれ
ば塩津地域が浅井郡⇒伊香郡⇒長浜市へと
変遷をした歴然たる浅井郡の歴史しいては
正確な長浜の中世戦国史歴史は語れません!
◆長谷川
疋田攻めをした熊谷勢3000人は湖北の三熊
谷と呼ばれる塩津、今西、南浜、3熊谷です。
疋田城から見れば3部隊が来襲したと言う事。
つまり、塩津街道や琵琶湖北岸の水運交通網
に割拠する人々、浅井氏が内陸なら熊谷氏は
琵琶湖岸勢力と言えます。塩津の殿山遺跡に
は3カ所の峯に巨大な布陣遺構が残っています。
この件も今後の研究対象として継続して欲しい。
◆一般者
そんな現実塩津の人々は全くしらない訳です!
◆対談者
それは仕方のない事ですよ。長浜市余呉町に
は賤ヶ岳合戦『余呉の庄の戦い』の城塞が約
50カ所も残っていますが、これに興味を抱く
人は余呉町内には全く居ない50カ所の陣城跡
なんて地元の人にとり400年前の夢物語です。
何故余呉の城郭遺跡を全国から見学に来られ
ているか?全く根本的に理解しておられない。
◆対談者
その町に城跡が凸ー凸ー凸ー凸―凸ー凸と現存
する。しかしその町の郷土史家は凸ー凸ー凸と
しか解説しない知らないガイドさんは凸ー〇ー凸
と城でない〇を時にピクニック人に城と解説する。
私は城でない所を案内されると気分が悪くなる人。
勿論ガイドさんとは基本的に城郭遺構は勉強され
てない郷土史家さんも基本的に現実の城郭遺構を
見学し認識されていません。しかし町のみんなは
郷土史家の「お話し」を尊重する。旅行者様は皆
ガイドさんの解説に聞く耳を立てる自分自身が城
跡を自分で確認認識できるようななったら城見学
の仕方城郭遺構の見かたを習得した事になります。
◆長谷川
するどい指摘をされますね。対談者様の御話を
図式化すると以下の様な社会構成になってます。
A凸ー凸ー凸ー凸―凸ー凸 城郭遺跡認識力ある人
遺跡視認現地確認型
B凸ー凸ー凸 既成文字知識のある人
郷土史文字型
C凸ー〇ー凸 城郭認識力が弱い人
観光行楽志向型
D〇 全く歴史城郭に興味ない人
一般型
◆質問者
羽柴秀吉は小谷城と小谷町を長浜へと何故?
移動移住させたのですか?陸運を無視した?
◆長谷川
敦賀→疋田「塩山城」→塩津→今西→今浜
の水運のルートを信長や秀吉は採用したの
です。今浜を長浜としてスタートさせたの
は羽柴秀吉自身なのです。キッチリと塩の
道を信長秀吉はロジステックな物流体制の
刷新を画策してた訳で織田は長浜から佐和
山へと更に安土への水路を確保して行った。
一方琵琶湖水運管理は明智光秀の坂本城を
羽柴秀吉が天下を取ると秀吉は琵琶湖水運
管理を芦浦観音寺に任せ、京極高次に大津
城を配置し、佐和山城には石田三成を配置
塩の集積地越前敦賀と若狭、越前嶺南方面
敦賀城に股肱の臣「大谷吉継」を配置しま
す。また越前疋田は大谷吉継が代官を配置
して管理しております。秀吉自体、自らの
側室「浅井氏/淀殿」に水運利便な淀城の女
主とし淀殿はやがて後にに秀頼を出産する。
秀吉自身最初水運利便な指月伏見城を築城
致します。水運利便な隠居屋敷としてです。
◆塩津大浦の事
慶長5年関ヶ原の合戦では京極高次は石田
方つまり豊臣方から離脱して塩津から大津
へと琵琶湖水運を利用して大津城に籠城し
て徳川方に味方致します。如何に塩津大浦
海津の琵琶湖水運がつまり西浅井の塩津の
歴史的重要性を認識するかにより歴史解釈
は変わります。塩津谷の分散する塩津の城
の分布を知る事は歴史街道「塩津」を再認
する絶好の機会になると私は考えています。
強いては人口7000人も減少している過疎が
進む長浜市にとり塩津街道の城郭群宣伝は
通過する西浅井から立ち止る観光商業地域
へのシフトチエンジの発想は非常に重要!
今も記憶に残ります。ようするに城は文字ではなく現地を知る事から始まっています。