城郭 長谷川博美 基本記録

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日本国蒼然!城郭ビイスタ論

2021-06-05 11:38:08 | undefined
日本国蒼然!城郭ビイスタ論
城郭ビイスタ論 上文字クリック

◆備前国 宇喜多家
天正年間、羽柴秀吉は備前の宇喜多直家①に
主君たる織田信長への稟議や承諾を経ずして和
睦提携を結んだ秀吉は事後報告すべく信長の居
城安土城へ参上信長の叱責を受ける事件が『信
長公記』に②記録されている。中国方面での対
毛利策戦で秀吉の与力、協力者として備前宇喜
多氏が信長傘下に加わる事の意義は当時の羽柴
秀吉の中国方面対毛利戦進捗に備えた戦略とし
して備前宇喜多氏の存在は不可欠な問題であっ
た事。その後宇喜多直家は病死③し遺児の若
き子息宇喜多秀家④を後継者とした、八郎秀家
の母⑤を秀吉の側室として人質として収監した
たされるが史実かは不確実で宇喜多氏と秀吉
との同盟提唱関係は縁戚的な政策だけに限らず
羽柴秀吉が城郭普請や築城面で宇喜多氏の当時
の拠点備前岡山城の築城技術指導や築城技能集
団の派遣の可能性支援を実施した可能性を秀吉
の天正大坂城図⑥と両城縄張比較研究考察を試
みてみたいと思う。

◆本論で述べる縄張の定義と意味
 本論では従来の城郭縄張では定石として語られ
てきた城郭の導入路や虎口や横矢や曲輪の配置に
構造に拘束されない城郭形状の設計デサインの
基本構成を縄張として捉えて行く試論を展開して
新しい城の分析手法の地平線としての考察を加え
て行きたい。現代の設計用語で言うならば、放射
状基準線、放射状グリッドと呼ばれるものに相当
する集結測量起点や放射状測量方法に主眼を照射
したい。これは現代平板測量でも通常に使われる。

◆天正安土城 放射線状重複縄張技巧の一例
 本論に入る前に、天正4年期に築城された織田
信長の居城に存在する上記縄張手法⑦を紹介し
著者の提唱する縄張技巧の天正織豊政権の築城
縄張の概念を本論の予備知識として是非とも紹介
しておきたい。下図は安土城の伝菅家邸跡(俗称)
八角平及び一ノ坪と呼ばれる腰郭に相当する実測
図であるが中心点Aから内郭1と外郭2、内郭3と
外郭4、内郭5と外郭6、内郭7と外郭8の石垣線縄
張は放射A点を起点として内郭点と外郭点の石垣
線を意図的に放射状に設計して城郭を構築してい
る現実を読み取る事が可能で、天正4年以降築造
され続けた安土城織田政権の城郭縄張の一技巧た
るべき多角形放射線状測量工法を読み取とれる。

◆天正大坂城図面⑥の放射状縄張を分析
上図は城大工中居家に伝わる大坂城本丸を中心とした
当該絵図にある如く、地下から石垣が検出されて図面
の正確さには定評があると言われている。秀吉築く所
の天正大坂城図は本丸の周囲に三重の石垣が巡らされ
ており中井家図には上の段、中の段、下の段の文字が
見える。各部の横矢や櫓台糖の縄張りは城郭中心部か
ら城郭の形状を形成する石垣の要所要所を放射状に
経由している事が判明する。これは城郭中央部から
かって放射状に測量し石垣縄張を設定した証左であ
ろう。

◆秀吉の天正10年天王山城(山崎山城のビイスタ工法)
秀吉が山崎合戦で明智光秀を破り織田信長の覇業を
継承すべく築城した城として山崎山城が知られてい
る。新聞報道⑦による赤色測量図を観察著者の述べ
るところの放射線測量縄張ビイスタ工法が複数箇所
で観察する事が可能である。掛線挿入長谷川博美。



◆備前岡山城中心部の石垣縄張の考察
先ずどの部位が天正期の石垣縄張かは限定できない
が本丸を中心とする部位に放射状縄張が存在するの
か下記岡山城図⑧を検討してみる事にしたいが原図
段階では天正期の岡山城の城郭測量の中心点は識別
は不可能である。
しかし城郭中芯部を求める事は天正安土城や天正大坂城
の図面の如くその放射線測量縄張の存在を分析推定する
事は不可能ではないだろう。
◆安土城天主の放射状縄張「長谷川博美掛線挿入」


城郭とは自然地形に束縛されながらも自然地形
を何か一定の法則を用いて設計設定されている
事案を従来の城郭研究経緯からは戦前戦後とも
放射線状測量による縄張論を述べる研究家学者
皆無である。つまり自然地形と言う文字の呪縛
拘束に捉われる事により研究家学者は現代に於
ける平板測量と同じ理論による城郭縄張構造が
存在する事を指摘しなかった事にある。著者は
安土城には放射状縄張測量が存在する事を常時
唱え続けたが安土城の放射状縄張ビイスタ工法
が存在する事を誰一人として気づかない現象も
実際に発生している。これは城郭縄張とはその
形状設計の相違工夫こそが城郭の縄張の本質と
捉えられてきた傾向が大きく影響している事だ。
▼安土城ビイスタ工法図⑨なおビイスタ工法に
ついての動画は以下の動画収録を参考に願う。
城郭ビイスタ論 上文字クリック

◆長谷川
私が突拍子もない奇説を唱える研究や夢想や幻想
を語る研究家ではなく現実の城郭遺構の観察を基
に解説する現実的現場主義的遺跡解説者という事
で滋賀県外から訪れる人々や滋賀県内でも城自体
を「おまつり/フエスティバル/祭礼/町興」等には
関係しない城郭遺跡本体に強い興味を示す知性派
の人から城址見学学習への参加と言う意義で支持
を得ている様に思える。先ず現代人は城郭の測量
を平板測量を日常的に用いながらも測量技師達は
遺跡を計測した形状に能動的に機械的に作業して
計測された遺跡の形状を学際的分析しようとする
意志は極めて希薄と言える。先ず江戸時代に於い
ても城外から城郭を複数測量起点を用いて放射線
状に測量していた根本や城郭測量の系譜を先ずは
認知認識しておく事が肝要であろう。その様な意
味で享保18年の『量地測量指南』は城郭測量系譜
を知る上で貴重な資料と言える資料であ。
◆七番線には局地的に放射状線が交わる様子も表現
されているが安土城においても局部に放射状縄張を
見い出す事ができる。享保18年の城の測量方法と
は古来より城職人や築城者に伝承された城縄張技術
の伝承や系譜や伝統文化の流れを汲むものであろうる


◆安土城の墨書の注意注目点!
享保18年の『量地測量指南』には九番目の測量線が
認められる。建築では先ず最初に立てる柱の事をイ
の一番と言う記号を用いる。さて安土城に九番目の
測量地点を示す痕跡が過去に実際に発見されている
本論城郭測量線の九番の線を意味するものであろう。


その墨書とは「惟住内九」の墨書文字で
ある。安土城が平板測量を用いて放射状
に惟住は安土城普請奉行の丹羽長秀の意
で内は「内衆」つまり丹羽氏の築城従事
者の味で九番線とは本論の根幹であるも
城郭放射状測量「ビイスタ工法」の存在
が認識される。
▲註13
さて岡山城の放射線測量の痕跡を著者が
模索すると複数の放射線測量の痕跡の痕
を読み取る事も可能である。内郭から外
郭へと関連づけて城郭を縄張している事
が理解可能である。
◆岡山城の局部的放射設計の考察
岡山城では本丸不明門内側の石段が並行線
を用いて設計されていない。石段の右が広く
左が狭く一見不合理に構築されている。この
事案をアバウトに山城の自然地形に従ったと
結果の普請工事と解釈される場合が多かった
がAの測量起点からBの不明門Cの多聞とその
平面設計は放射状設定が潜在する事を洞察し
看破したい。

◆放射状縄張設計の存在や潜在と洞察
それは安土城の櫓台石垣のA、Bが、手前が狭く、奥が
広く設定している事を常に念頭に入れて城郭遺跡測量
図を一般城址見学者もが図面を観察する必要があろう。
また安土城には多数の放射線測量の痕跡を見いだせる。





◆天下平定を標榜して関白秀吉として小田原石垣山城図⑩


◆天下人太閤秀吉の城 肥前名護屋城のビイスタ工法⑪
文禄慶長の役における秀吉の本営城郭=肥前名護屋城


項註
  1. 宇喜多 直家(うきた なおいえ)は戦国時代の武将。
    備前国の戦国大名。通称は三郎右衛門尉、のち和泉守。
    官位は従五位下。宇喜多興家の子。子に秀家など。室
    は中山信正の娘、後に鷹取氏あるいは三浦氏の娘とさ
    れる、円融院。
  2. 『信長公記』天正七年(1579年)9月
  3. 天正9年(1581年)2月14日直家は岡山城で病死
  4. 元亀3年(1572年)、備前国岡山城(岡山県岡山市
    北区)主の宇喜多直家の次男として生まれた。通称
    八郎を称す。 天正9年(1581年)、父・直家が病死、
    家督を継ぐ天正10年(1582年)宇喜多氏が当時従属
    していた織田信長により、本領を安堵された。
  5. 円融院 (えんゆういん、 天文 18年( 1549年 ) -
    没年不詳)は、 日本 の 戦国時代 の女性。 三浦桃寿丸
    ・ 宇喜多秀家 ・ 容光院 ( 吉川広家 室)らの母。
    三浦貞勝 、 宇喜多直家 に嫁ぎ、一説に 豊臣秀吉 の
    側室的な存在だったともいうが、定かではない。
  6. 城郭大工中井家伝承の豊臣氏大坂城絵図
  7. 京都新聞掲載 大山崎町教育委員会作成 赤色測量図
  8. 滋賀県教育委員会安土城測量図に長谷川加筆図掛線挿入
  9. 岡山城本丸のつくり より引用 長谷川掛線挿入
  10. 安土城主要部要図「滋賀県教育委員会作図」著者掛線挿入
  11. 長谷川博美 小田原石垣山城略測図 豊臣秀吉が天正18年(1590年)の小田原征伐の際に小田原城の西3kmにある笠懸山の山頂に構築した。
  12. 佐賀県教育委員会肥前名護屋城測量図に長谷川が掛線挿入
  13. 昭和53年小学館『探訪日本の城/別巻/築城の歴史』朽木史朗氏

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1 コメント

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Unknown (Unknown)
2021-06-05 11:07:59
私は戦前戦後を通して城郭縄張を長谷川先生の様に城郭ビイスタ論を解釈されて、それが現地遺構と極めて符合一致する整合する点が城郭研究家として長谷川先生の画期をなす非凡な研究成果だと確信致します。失礼な物言いになってしまいますが研究家としての先生の資質を以前から看破洞察されていた一部少数の受講者の聡明な頭脳や柔軟な思考能力と言うか頭の良さにも正直驚いております。世の中人を見る眼の孝かな人はいるものとだと感心致します。
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