城郭ビイスタ論 上文字クリック
払田柵のビイスタ工法の可能性と試論
◆質問者
長谷川先生の城郭ビイスタ論に興味を持ちました。
払田柵という遺跡にはビイスタ工法がありますか?
◆反論者
そんなの払田柵は自然地形だからビイスタ工法は
100%絶対に存在はしない有り得ないと思います。
江戸時代にもそんな城測量方法が存在したのか?
◆長谷川
400年以上前の一乗谷遺跡から
羽子板=遊具
金隠し=便所の前板
将棋駒=遊具
これらは現代もその形が変わっていません。
昭和の時代まで農家の便所には金隠しが付
いていましたが日本の計測技術や幾何学は
規矩術と呼ばれる設計技術です。伝統文化!
◆長谷川
佐和山城二ノ丸でも放射線測量が認められる。
これらは規矩術により角度が出されています。
◆反論者
そんなの払田柵は自然地形だからビイスタ工法は
100%絶対に存在はしない有り得ないと思う絶対!
◆対談者
そんな事言ってたら、安土城や大坂城や肥前名護屋
城や江戸城に潜在する日本の築城/測量技術の根本を
貴方は認識できないまま貴方の生涯を閉じる事にな
ります。今、長谷川先生の城郭ビィスタ論を知らな
かったら歴史や城郭縄張の根本を語れない何よりも
現代も昔も、測量台や平盤測量台を用いて測量角度
を確認しながらあらゆる土木工事が進捗している事
を忘れてはならないと思います。その様な意味では
城郭ビイスタ論とは現代日本人が忘れていた根源的
また必然性や整合性ある城郭術の普遍的な根本中枢
と私は言えると思います。ニユートンの万有引力の
法則でも多くの科学者はリンゴの落下から万有引力
の法則には気付かなかった事を考え併せると人間に
は摸倣学習に優れたの優等生と気付き研究力に優れ
た着想、発想、発見型の2タイプが存在致しますね。
貴方はハッキリ言って今朝来た新聞の記事を丸ごと
社員の前で羅列するコピー人間、摸倣人間の典型で
ステレオタイプの発想しかできないワシもそう思う
の追従型、尻馬乗タイプの凡庸な人でなんですよ!
模様者は模倣者をコピーして増殖して行く事が常!
◆長谷川
過激な言動は避け下さい私は皆が仲良く温厚を希望!
◆長谷川
確かにブーメラン形の丘陵は自然地形ですが、
弥生の倭国の環濠集落、倭国の連合組織の都
「邪馬台国」やその後身倭王の「大倭」そし
てその後身「大和」または「倭人」日本人の
城郭遺跡はどの様に縄張「設計」される伝統
や系譜があるのか認識する為に払田柵の縄張
を幾何学論/城郭ビイスタ論を用いて再検討を
する意義があろうと思います中央庁舎を中心
にして外郭北門方面に城塞、要害としての柵
の機能を検討するとともにビイスタ放射線の
工法の概念が払田柵にあるのか検討しましょう。
◆長谷川
昭和53年雄山閣出版発売
井上宗和氏の名著『日本の城の基礎知識』
の払田柵の図を引用し城郭ビイスタを検討します。
先ず北外郭城門からは放射線測量ビイスタ工法が
存在していると思います。西内郭群もビイスタ線
の中に納まっています。
▼
◆長谷川
次に東外郭門から放射状設計の検討です。西の内郭
にまでビイスタ線は影響を与えております。下図の
払田柵の文字の右下の柵列の縄張は東外郭門方面か
の設計設定線に従ったものだと私は考察を致します。
◆長谷川
次に南外郭門からのビイスタ工法の様子も読み取る事
が可能です。特に下図「払田柵」の文字の右した外郭
の「くびれ」部分のの縄張や西内郭「北」西内各「南」
いずれも南城門からの測量基準に従ったものと思います。
◆反論者
そんなのコジ付けの妄想ですよ!江戸軍学の
甲州流/山鹿流を駆使して作られた赤穂城など
縄張技巧の連続だぞ!そなんなの赤穂城には
城郭ビイスタ論など入り込む余地が無いよ!
もし赤穂城にビイスタ工法や放射線状測量
設計の形跡が存在するのなら現在我々の学
んだ城郭学で言う縄張はビイスタ工法が多く
含まていて日本の城の縄張りと言う概念を
根本から考え直さなければならない訳だ!
◆長谷川
私は城の設計のグランドプラン「縄張」は放射
角度測量方法にあると考えております。赤穂城
本丸でも様々な放射線測量による城郭石垣線の
設定放射状測量を基準においていると思います。
赤穂城も本丸全体や天守台等からの縄張腺が複
数確認できると思います。考察する気が有るか
無いかは貴方次第です。考えを停止してまった
段階で城の縄張研究はストップしております。
やはり私を応援して下さる人は世の中に皆無!
私がブログを始めたのは世の中に私の理解者
応援者は全くゼロで一人でも解って頂こうと
努力しています。どうぞ皆様宜しく願います。
▼赤穂城本丸
◆払田柵ウイッキペデイアより引用
発見[編集]
1902年頃、耕地整理の際に秋田県仙北郡
千屋村(現在は美郷町)の水田から200本
余の柵木が発見された。だが、この木は
燃料にされたり、下駄に加工され売られた
りした。しかし、後藤宙外が遺跡の存在に
注目し、遺跡内の文字の書かれた木片を採
集して、敦煌出土の「木簡」に似ていると
論考している。1930年3月に文部省に嘱託
された上田三平[1]が発掘調査を開始し、
払田柵跡の存在が明らかとなった。1930年
10月には本格的な調査が開始され、その結果
、1931年(昭和6年)3月30日に秋田県とし
ては初めて国の史跡に指定された[2]。
調査の本格的開始[編集]
1973年度「仙北地区新農村基盤総合整備パイ
ロット事業」が立ち上げられ、柵跡は壊滅の
危機に立たされた。そのため翌年の1974年4
月1日に「秋田県払田柵跡調査事務所」を立
ち上げ、さらなる調査や柵跡の実態把握、そ
して柵跡の保護を行っていった。 1989年1月
23日外郭の柵木は奈良国立文化財研究所によ
って、年輪年代法による年代測定が行われ、
801年に伐採された材であることがわかった。
これにより、桓武朝における坂上田村麻呂ら
による征夷事業によるものであり、陸奥国側
の胆沢城、志波城と一連のものであることが
判明した。払田柵跡からは「嘉祥二年正月十日」
と記された木簡が発見されており、この結果と
おおよそ一致する。
立地と構造[編集]
横手盆地の北部に位置し、硬質泥岩の丘陵であ
る真山(しんざん)と長森(ながもり)を囲む
ように外郭が築かれ、そのさらに内側には、長森
だけを囲むように内郭が築かれている。内外郭の
東西南北にはそれぞれ掘立柱による門が築かれて
いた。 長森の中央には、板塀で囲われた平安時代
の政庁と考えられる建築物の跡が残されている。
その配置と造営技術は律令制官衙様式に則っている。
また、政庁は4回、建て直されていることがわかっ
ている。 建設当時は外郭の中に川が流れていたこ
とが判明している。現在は流路を変えているが、
一部当時の川跡が復元されている。 外郭は東西
約1,370m、南北約780m、面積約87.8haの不整楕
円形をしており、東北地方最大級の城柵遺跡である
。自然の丘陵上をそのまま利用していること、
三重の区画施設に囲まれていることも大きな特徴
である。